ホセア 10:1-11:12 ホセア4『立ち返ることを拒むなら』 2021/12/17 けんたろ牧師

ホセア 10:1-11:12
11:1 「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、エジプトからわたしの子を呼び出した。
11:2 彼らは、呼べば呼ぶほどますます離れて行き、もろもろのバアルにいけにえを献げて、刻んだ像に犠牲を供えた。
11:3 このわたしがエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いたのだ。しかし、わたしが彼らを癒やしたことを彼らは知らなかった。
11:4 わたしは人間の綱、愛の絆で彼らを引いてきた。わたしは彼らにとってあごの口籠を外す者のようになり、彼らに手を伸ばして食べさせてきた。
11:5 彼はエジプトの地には帰らない。アッシリアが彼の王となる。彼らがわたしに立ち返ることを拒んだからだ。
11:6 剣は、その町々に対して荒れ狂い、かんぬきの取っ手を打ち砕き、彼らのはかりごとのゆえに、町々を食い尽くす。
11:7 わたしの民は頑なにわたしに背いている。いと高き方に呼ばれても、ともにあがめようとはしない。
11:8 エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。どうしてあなたをアデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。
11:9 わたしは怒りを燃やして再びエフライムを滅ぼすことはしない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者だ。わたしは町に入ることはしない。
11:10 彼らは【主】の後について行く。主は獅子のようにほえる。まことに主がほえると、子らは西から震えながらやって来る。
11:11 鳥のようにエジプトから、鳩のようにアッシリアの地から、彼らは震えながらやって来る。わたしは彼らを自分たちの家に住ませよう。──【主】のことば。
11:12 わたしは、エフライムの偽りと、イスラエルの家の欺きで囲まれている。しかしユダは、なお神とともに歩み、聖なる方に対して忠実である。」

ここまでホセアは、イスラエルの罪を暴き、それによって神の裁きが降ることを告げ続けてきた。
イスラエルの罪は何かと言えば、それは偽りの信仰である。

ホセア 10:2 彼らの心は偽りだ。今、彼らはその罰を受ける。主が彼らの祭壇を壊し、彼らの石の柱を踏みにじられる。

イスラエルは神を崇める礼拝を捧げていながら、偶像崇拝も同時に行っていた。
それは夫を持っていながら他の男とも関係を結び、ついには男と逃げてしまう姦淫の女と同じだとホセアは告げている。

11章では、神さまとイスラエルの関係をもう少し違った視点から描いている。

① わが子イスラエル
11章で描かれているのは、子を愛する父なる神の姿と、その愛を無下にする子としてのイスラエルの姿である。

11:1 「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、エジプトからわたしの子を呼び出した。

これは出エジプトの時の出来事。
神さまはイスラエルを愛し、エジプトから救い出した。
神さまはトーラーを与え、神の子として生きることの素晴らしさと喜びを教え導いた。
では、イスラエルはその愛を受けて豊かに育って行っただろうか?
ところがイスラエルは神さまの優しさに甘え、むしろ神さまから離れ行ってしまった。
その悲しさと嘆きは、このように表されている。

11:2 彼らは、呼べば呼ぶほどますます離れて行き、もろもろのバアルにいけにえを献げて、刻んだ像に犠牲を供えた。
11:3 このわたしがエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いたのだ。しかし、わたしが彼らを癒やしたことを彼らは知らなかった。

神さまは私たちを愛し、私たちを癒してくださる。
しかし私たちは、その祝福が神さまからのものであることに気づかず、当然のことのように思ったり、自分ががんばったことの成果だと思ってしまう。
私たちのがんばりは確かにあっただろうが、神さまが与えて下さるのでなければ、私たちはそれを祝福として受け取ることはないだろう。

② あわれみで胸が熱くなっている
こうして、イスラエルが神さまから離れていくなら、もはやイスラエルの上に神の護りはなく、滅びに向かって進んでいくことになる。
イスラエルはエジプトからは解放されたが、アッシリア帝国の捕虜となってしまうのだ。

11:5 彼はエジプトの地には帰らない。アッシリアが彼の王となる。彼らがわたしに立ち返ることを拒んだからだ。
11:6 剣は、その町々に対して荒れ狂い、かんぬきの取っ手を打ち砕き、彼らのはかりごとのゆえに、町々を食い尽くす。
11:7 わたしの民は頑なにわたしに背いている。いと高き方に呼ばれても、ともにあがめようとはしない。

本来なら、それが当然のことだろう。
これまでは、その様子が神の怒りとともに描かれ、イスラエルの悪がどれほど深刻なものとなってしまっていたかということが表わされていた。
しかし、この言葉はここでは終わらない。

11:8 エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。どうしてあなたをアデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。

これはまるで、イエスさまがたとえ話の中で話した放蕩息子とその父の話のよう。
放蕩して父から離れた息子は、都会ですべてを失ってボロボロになったのも全て自業自得だった。
そのまま奴隷としての苦しみを味わう人生を送って、何も文句を言うことはできなかった。
それなのに、父である神は息子が虐げられる姿を見ていることができず、「あわれみで胸が熱くなっている」のである。

③ 滅ぼすことはしない
神さまのその思いが次に言葉に現れている。

11:9 わたしは怒りを燃やして再びエフライムを滅ぼすことはしない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者だ。わたしは町に入ることはしない。

私たち人の怒りとは、一度火がついてしまったらもう許さない、許せない。
しかし神さまは、どれほど大きな怒りで滅ぼすことを誓っても、相手が悔い改めるなら赦しを与えてしまう。

この時代、この地域にあった民族のほとんどは滅び、今ではもう耳にすることもない。
しかしイスラエルは、この後国としてはなくなってしまうけれど、民族としてのイスラエルは今も滅びていない。
そして1000年の時を越えて、国としても復活したのである。

私たちが罪を犯し、神さまから離れ、神さま以外のものに心を奪われるとき、神さまはこんな風に心を悩ませ、苦しまれる。
私たちは神さまにそんな思いをさせていないだろうか?
もしそうであれば、今こそ神さまの元に戻る時ではないか?

偽りの信仰を捨て、心から神さまを求め、神さまとともに歩もうではないか。
今ならば、まだ間に合う。
放蕩息子が帰ってきた時、父親が遠くから息子を見つけて駆け寄ったように、私たちの父もまた、私たちを迎え入れてくださるのだ。
そしてその時、天では祝宴が開かれるに違いない。