中間時代編5:ヘロデ大王とキリストの誕生 ローマ帝国

ポイント参照)

① マタティアによってマカバイ戦争が始まる。
② マタティアの後を継ぎ、ユダ・マカバイが立ち上がる。
BC165年ハヌカー
③ ユダ・マカバイの死後、弟のヨナタンが大祭司を名乗る。
④ シモンがセレウコス朝からの独立を獲得。正式に大祭司となる。
ハスモン朝スタート
⑤ ヨハネ・ヒルカノス1世(信仰よりも権力に固執。領地拡大)
⑥ アリストブロス1世(母や兄弟を牢獄に入れて殺す。1年で病死)
⑦ アレクサンドロス・ヤンナイオス(アリストブロスの妻サロメ・アレクサンドラの再婚によって王位獲得。パリサイ派を弾圧した)
⑧ サロメ・アレクサンドラ(息子ヨハネ・ヒルカノス2世を祭司として立て、自らは女王となる。パリサイ派を擁護)
⑨ ヨハネ・ヒルカノス2世(パリサイ派と組んで王となる)
⑩ アリストブロス2世(サドカイ派と組んでヨハネ・ヒルカノス2世を攻撃)
⑪ ヨハネ・ヒルカノス2世がアンティパトロスと組み、ナバテア王国アレタス3世の援助を受けてアリストブロス2世を倒し、大祭司の地位を奪還。アリストブロス2世は逃亡。

ローマ

北イスラエル王国がアッシリアの侵略に苦しんでいたBC750年ころ、イタリア半島ではひっそりと一つの王国が生まれていた。
伝説では狼に育てられた双子ロムルスとレムスによってローマは王国として始まったと言われている。

ローマの政治の特徴のひとつは、元老院
元老院は王によって任命された議員であり、国民の代表となった。
元老院に選ばれることは名誉なことだった。
元老院には金と力が集まり、やがて貴族のような立場となっていった。

BC509年、元老院たちは王を追放し、2人の執政官(コンスル)を選んで国の代表として任命した。
以降、BC27年にオクタヴィアヌスが最初の皇帝となるまで、ローマは共和制となった。
この時代にも、勢力を大きく広げたローマは「ローマ帝国」として認識されている。

ヨハネ・ヒルカノス2世とアリストブロス2世が争っていた頃、ローマ帝国は、第一次三頭政治時代
元老院による政治を行っていたものの、実質的には将軍であるポンペイウス、大金持ちのクラッスス、そして民衆からの人気を集めていたユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の3人が実権を握っていて、最高職であるコンスル(執政官)をこの3人だけで担っていた。

ポンペイウスは奴隷たちによるスパルタカスの乱を平定した英雄であり、強大な武力を持っていた。

BC65年、ヨハネ・ヒルカノス2世が王位奪還、アリストブロス2世は逃亡。
その後、共にポンペイウスに援助を要請した。

BC64年、ポンペイウスはナバテヤのアレタス3世がユダヤに手を貸していることを快く思わず、撤退を命ずる。
すると、アリストブロス2世が力を取り戻し、再度ヨハネ・ヒルカノス2世を攻撃。

BC63年、ポンペイウスはセレウコス朝を征服。
そのままユダヤ地方に進軍。
ヨハネ・ヒルカノス2世がアリストブロス2世を倒させるためにポンペイウスを手引きし、エルサレムへ入城。そのままエルサレムを占領。
アリストブロス2世は息子たちとともに捕虜とされた。

ヨハネ・ヒルカノス2世は大祭司とされたものの、ユダヤの実権はローマ帝国にとっては戦力ともなるイドマヤ人アンティパトロスが握ることとなり、ローマ帝国の支配下でハスモン朝はその権力を失った。

第1次三頭政治2

ローマ帝国ではBC53年にクラッススが戦死したことをきっかけに三頭政治のバランスが崩れ、ユリウス・カエサルがBC49年にガリアの遠征から戻ると、ローマ帝国で内戦を起こし、BC48年にはポンペイウスが倒された。
ユリウス・カエサルは元老院も武力制圧してその機能と権威を低下させ、BC44年終身独裁官として就任、その直後暗殺されてしまう。

カエサル暗殺後は甥のオクタヴィアヌス(後のアウグストゥス)(BC27-14)、カエサルの右腕だったマルクス・アントニウス、第3勢力のレピドゥスによる第2次三頭政治の時代となった。

アンティパトロス

イドマヤ人のアンティパトロスはヨハネ・ヒルカノス2世を助けてアリストブロス2世に対抗したが、ポンペイウスによってエルサレムが占領されると、あっさりとローマ軍に鞍替えした。
ポンペイウスがカエサルによって倒されると、今度はカエサルのために働き、BC47年にはユダヤの総督(プロクラトル)に任命され、政治的影響力を着実に伸ばしていた。

BC44年、カエサルが暗殺されると、今度はカエサル暗殺に携わったガイウス・カッシウス・ロンギヌスの側につき、政治は息子たちに任せた。
この時、ガリラヤ地方を任せたのが、次男のヘロデである。
アンティパトロスは、このヘロデを、大祭司ヒルカノス2世とアリストブロス2世の孫娘となるマリアムネ1世と婚約させ、その立場を盤石なものにしようとする。
しかしBC43年、マリコスというユダヤ人から個人的な恨みによって毒殺された。

第二次 三頭政治(BC43-BC27年)

ユリウス・カエサル暗殺の黒幕だった元老院は、カエサルさえ倒せば権力を取り戻し、共和制が復活すると考えていた。
しかし、ローマ市民たちはカエサルの死を嘆き、暗殺者を憎んだ。
すると、元老院たちも手のひらを返したように暗殺者を非難し始めた。

もうひとり、市民が非難したのは、クレオパトラである。
市民はカエサルの死の原因が、愛人だったクレオパトラのせいだと考えた。

カエサルの遺言状が発表されると、カエサルは後継者をオクタヴィアヌスに定めていたことがわかる。
それに不満を持ったのは、自分こそがカエサルの後継者にふさわしいと思っていたアントニオである。
最初は、自分より20歳も若いオクタヴィアヌスを甘く見ていたが、オクタヴィアヌスがその才能を発揮し始めると、アントニオの中では嫉妬と敵対心が大きくなっていった。

そこに割って入ったのが、カエサルとともにコンスルも務めたレピドゥス。
オクタヴィアヌスやアントニオに比べて才能が劣っていたレピドゥスは、二人の関係を取り持ち、争うよりも三人でローマを治めていくことを提案する。
二人もそれを受け入れ、BC43年、ここに第2次三頭政治が成立した。

ヘロデは警戒心が強く、コンプレックスからか支配的な性質を持っていた。
そのため民衆からは支持されなかったが、ローマ帝国のマルクス・アウレリウスの信用は勝ち取り、オクタヴィアヌスからの承認も受けて、BC37年にユダヤの王(エスナルケス)として任命される。
エスナルケスとはローマ帝国における民族の支配者で、実質的にはローマ帝国の支配下にあり、重い税金を支払う義務があった。

こうして、ユダヤは再びローマ帝国という他国による支配下に下り、ユダヤ人ではない王を迎えるという屈辱的な状態に陥ってしまった。
このような状況で、神を信仰する人々の中ではローマに対抗する組織が生まれていた。
「短剣を帯びたもの」という意味を持つシーカーリーは、ユダヤを支配するローマ兵たちを次々と殺したと言われる。
シーカーリーが集団化し、熱心党呼ばれるグループも生まれた。
彼らは、マカバイ家のように、ユダヤをもう一度独立させようとする抵抗組織であった。

このような不安定な情勢下で、ユダヤは心から救い主を求めるようになる。
しかし、彼らが熱心に求めていたのは、ユダヤをローマ帝国の圧政から解放するユダヤ人の王である。
イエスさまがエルサレムに入場した時、人々が期待していたのがどのような王だったのかということがわかる。

帝政ローマ帝国

ローマ帝国ではエジプトのクレオパトラと組んだマルクス・アントニウスがアクティウムの海戦でオクタヴィアヌスに敗れ(BC31年)、レピドゥスも引退に追い込まれ、三頭政治のカタチは再び崩れることとなった。
しかし、独裁しようとしたたまに暗殺された叔父を見ていたオクタヴィアヌスは自らをプリンケプス(ローマ市民の第一人者)と呼び、元首として選ばれても自分も民衆の一人という立ち位置を取った。
このような政治体制をプリンキパトゥス(元首制)と呼ぶ。

オクタヴィアヌスは表面的には独裁者になることを嫌い、何度となく自ら舞台を降りて、共和制を維持しようと努めた。
しかし、オクタヴィアヌスの人気は絶大なもので、彼の影響力梨にローマ帝国がまとまることは考えられなくなっていた。
BC27年には、元老院議員たちが総辞職し、オクタヴィアヌスに終身コンスル(執政官)として事実上の独裁者としての立場を与えた。
それでもオクタヴィアヌスは「皇帝」と呼ばれることを嫌ったため、オクタヴィアヌスには、アウグストゥス(「崇高なる者」の意味)という尊称が与えられた。
こうして共和制ローマの時代は終わり、帝政ローマ帝国の時代が始まったのである。

この頃にはローマ帝国による領土拡大もほぼ落ち着き、内戦も終わったため、ローマ帝国による強固な支配によってこの世界には戦争がなくなった。
誰も、ローマ帝国のような強大な力に逆らおうとはしなくなったのである。
これを、パクス・ロマーナ(ローマの平和)と呼ぶ。

帝政ローマ帝国時代のユダヤ:

一方、ヘロデはアウグストゥスにも気に入られ、広い領地を与えられることにもなった。
信仰的にはヘレニズムに偏っていたヘロデは、パリサイ派からの人気はなかったが、ハスモン家の味方をする貴族が集まっているサドカイ派からも嫌われていた。
少しでも支持を得ようと神殿を建て直したり、エルサレムに劇場を作るなど大きな成果をあげたが、民衆からの人気を得ることはあまりなかった。

ヘロデは父の暗殺を経験し、自身はユダヤ人ではないにも関わらずユダヤの王となったことにコンプレックスを持っており、元々の猜疑心の強さも相まって「自分も暗殺されるのではないか」といつも不安に苛まれていた。
結婚と離婚を繰り返し、兄弟や、元妻や子どもたちを暗殺して、何とか自分が殺されることを回避しようとしていた。

そんなときに、ユダヤ人たちが待望していた救い主は産まれるのである。
このような猜疑心の塊となっていたヘロデにとって、「新しい王が生まれた」という東方の博士たちの言葉がどれほど脅威的なものだったかがわかるだろう。
それがベツレヘムだということがわかると、ヘロデはベツレヘムで生まれた子どもたちを殺させる命令をしたという。
しかし、そんなヘロデもBC4年に老衰で死ぬが、死の5日前まで自分の息子を処刑する命令を出していたと言われている。

キリストはいつ生まれたか:

世界史で共通した年代として西暦が使われる。
西暦は暦のシステムとしてはグレゴリオ暦が使われているが、イエス・キリストが誕生したと考えられていた年を、紀元一年として数え、その年が基準とされている。

525年、ローマ教皇ヨハネス1世の時代、神学者ディオニュシウス・エクシグウスによって紀年法は定められた。(それ以前のローマでは、ディオクレティアヌス紀元が使われていた。)
しかし、後にこの算出方法には計算間違いがあったことがわかった。

アウグストゥスによる大掛かりな人口調査が行われた年を基準にして考えるなら、キリストの誕生はそのBC4年だったことになる。(キリストの誕生を知らせる星を天文学的に予測する、BC7年説やBC2年説も存在する。)

イエスさまが産まれた時代に、初代皇帝が誕生したことも不思議なタイミングだった。
ローマ皇帝は自らを神とし、この時代の世界を絶対的な権力で支配していく。
アウグストゥスが人々の栄光を受け、讃えられる中で、ひっそりと生まれてきた救い主イエスは、まさに対照的な存在だった。

この世の価値観は、武力、権力、経済力で人々を支配しようとする。
しかし真の神は、愛で私たちを支配してくださる。
キリストの体である私たちは、どのようにして福音を伝え、影響力を与えていくべきだろうか?
その道も自ずと示されてるのではないだろうか?