中間時代編4:マカバイ戦争 セレウコス朝シリア~ハスモン朝ユダヤ

セレウコス朝シリア

バビロン帝国のベルシャツァルの時代、ダニエルはこのような幻を見たと言う。
これは、後のことを言い表す預言だったことがわかる。
復習がてら、ダニエルの預言がどのように成就したかを見ていこう。

ダニエル8:2 私は幻の中で見た。見ていると、私はエラム州にあるスサの城にいた。なお幻を見ていると、私はウライ川のほとりにいた。
8:3 私が目を上げて見ると、なんと、一匹の雄羊(ペルシャ帝国)が川岸に立っていた。それには二本の角(メディアとペルシャ)があって、この二本の角は長かったが、一本はもう一本の角よりも長かった。その長いほうは、後に出て来たのであった。
8:4 私はその雄羊(ペルシャ帝国)が、西や、北や、南の方を角で突いているのを見た。どんな獣もそれに立ち向かうことができず、また、それから救い出す者もいなかった。雄羊(ペルシャ帝国)は思いのままにふるまって、高ぶっていた。8:5 私が注意して見ていると、見よ、一匹の雄やぎ(ギリシア)が、地には触れずに全土を飛び回って、西からやって来た。その雄やぎ(ギリシア)には、際立った一本の角(アレクサンドロス)が額にあった。
8:6 この雄やぎは、川岸に立っているのを私が見た、あの二本の角(メディアとペルシャ)を持つ雄羊(ペルシャ帝国)に向かって、激しい勢いで突進した。
8:7 見ていると、この雄やぎ(ギリシア)は雄羊(ペルシャ帝国)に近づき、怒り狂って雄羊(ペルシャ帝国)を打ち倒して、その二本の角(メディアとペルシャ)をへし折ったが、雄羊(ペルシャ帝国)にはこれに立ち向かう力がなかった。雄やぎ(ギリシア)は雄羊(ペルシャ帝国)を地に投げ倒して踏みつけた。雄羊(ペルシャ帝国)をこの雄やぎ(ギリシア)から救い出す者はいなかった。
8:8 この雄やぎ(ギリシア)は非常に高ぶったが、強くなったときにその大きな角(アレクサンドロス)が折れた。そしてその代わりに、天の四方に向かって、際立った四本の角(ヘレニズム諸国)が生え出て来た。
8:9 そのうちの一本(セレウコス朝)の角から、もう一本の小さな角(アンティオコス・エピファネス4世)が生え出て、南と、東と、麗しい国(ユダヤ)に向かって、非常に大きくなっていった。
8:10 それは大きくなって天の軍勢に達し、天の軍勢と星のいくつかを地に落として、これを踏みつけ、
8:11 軍の長に並ぶほどになり、彼から常供のささげ物を取り上げた。こうして、その聖所の基はくつがえされた。
8:12 背きの行いにより、軍勢は常供のささげ物とともにその角に引き渡された。その角は真理を地に投げ捨て、事を行って成功した。

今日は、この後半部分に記されているセレウコス朝シリアによる支配と、アンティオコス=エピファネス4世についての話を中心にみていこう。

ヘレニズム時代、アレクサンドロス大王の後継者(ディアドコイ)の間で起こった戦争の中で、ユダは翻弄された。
最初の支配者となったのは、プトレマイオス朝エジプト。
プトレマイオス朝は安息日にユダに攻め込み、ユダはなす術もなくエジプトの支配下となってしまう。

せっかくバビロン帝国(新バビロニア)から帰還したのに、今度はエジプトの首都アレクサンドリアに10万人の人々が捕虜として移住させられることになった。(70人訳聖書が作られたのはこの時代)
プトレマイオス朝の支配下では、重税と労働には苦しめられたものの、信仰の自由は与えられていた。

BC198年、セレウコス朝シリアがユダを占領し支配下に治めると、情勢はさらに厳しくなる。
プトレマイオス朝下では宗教を選択することができたが、セレウコス朝は宗教も厳しく管理したのである。

BC175年にアンティオコス4世=エピファネス(BC175-BC163)(エピファネスは“神の顕現”の意味)はヘレニズム文化に強く影響を受けており、さらに自分を主神ゼウスと重ね合わせて、ギリシア神の信仰を人々に強要した。

アンティオコス=エピファネスはユダの神殿でゼウスを祭らせ、ユダヤ人たちが汚れたものとする豚肉を捧げさせたと言われている。
終末の預言の中で「荒らす忌むべきものが神殿に立ったら気を付けなさい。」という言葉があるが、これはこの出来事のことを表している。
終末にも、この時と同じような状況が起こるということ
このアンティオコス4世・エピファネスは、終末に現れる反キリストの型でもある。

この事件は、信仰熱心になっていたユダヤ人たち、特にパリサイ派の人々の心に大きな傷を残し、セレウコス朝に対する反抗心も大きく育てる事になった。
しかしその一方では、ギリシア化に賛成するユダヤ人たちも多数あった。
このようなユダヤ人たちの中から、後にサドカイ派というグループが産まれることになる。

マカバイ戦争

セレウコス朝シリア、特にアンティオコス4世による圧政で苦しんだユダの人々の中には、セレウコス朝への反抗心と、独立を願う心が大きくなっていった。

そんな中で立ち上がったのが、祭司マッティアス(マタティア)と、その息子ユダ・マカバイ(マカバイは「金づち」と言う意味)を始めとする5人の兄弟たち。
彼らは、セレウコス朝に対してゲリラ戦を展開し、BC165年12月25日、ついにユダ王国を独立へと導いた。
偶像は破壊され、取り除かれ、神殿で主を礼拝する生贄が捧げられる。

12月25日は、多くのクリスチャンはイエスさまの誕生を祝う人としてクリスマスを祝っているが、ユダヤ人はこの日をハヌカ―と呼んで、セレウコス朝からの神殿解放を祝うのである。
とは言えこの時点では、ユダの実質的な支配権を掌握したというだけの事であって、独立を認めさせたわけではなかった。
そのためユダは、その後も幾度となく、セレウコス朝からの攻撃を受けることになったが、多くのユダヤ人たちは宗教的な解放を喜んで政治的な独立にはそれほど関心を示さず、ユダ・マカバイはどんどん戦力を失うこととなる。

そんな中、BC160年ユダ・マカバイは戦死。
ユダの死後は、弟のヨナタンや兄のシモン

ユダ・マカバイの弟ヨナタンは大祭司を名乗り、次のリーダーとしてユダヤを導こうとする。
しかし、一族は正当な大祭司の家系ではなかったため、議会からは承認を得られず、自称大祭司という状態になってしまった。
BC142年、暗殺によって死亡。

同じくユダ・マカバイの弟シモンは、セレウコス朝で内乱が起こった際、デメトリオス2世から好意を受け、ユダは属州から同盟国へと格上げされた。
その功績によって議会からも認められ、シモンは大祭司として正式に承認を受ける。

ハスモン朝イスラエル

シモンが大祭司として任命されたことを受け、マカバイ家は王としての資格を持つことができた。
BC142年、ハスモン朝イスラエルとして独立を果たす。
ハスモン朝という名前はマカバイの子孫であるサモナイオスに由来すると言われている。

シモンの子ヨハネ・ヒルカノスが祭司王となる(BC134-BC104)。
ヨハネ・ヒルカノスはBC128年にサマリヤのゲリジム山にあった神殿を破壊し、そのことがサマリヤ人とユダヤ人との関係を悪化させることになる。
イドマヤ人(エドム人)たちを倒して征服し、割礼を受けて律法を守ることを条件にユダヤ人として吸収してしまう。
BC109年、サマリアを制圧し、支配するが、関係が悪化していたこともあり、イドマヤ人のようにとけ込むことはなかった。

この頃からユダヤ教には大きく分けて3つの流れが起こる。互いに分裂していく。

サドカイ派:

セレウコス朝やローマ帝国によって権力を持つことを許されていた貴族や裕福なユダヤ人たちの多くは教育を通してギリシア文化の影響を受け、復活や天使など霊的なことを信じなかったサドカイ派(ダビデ・ソロモン時代の祭司ツァドクが名前の由来とされる)。
律法(モーセ5書)だけを聖書と認め、神殿での儀式を重要視した。
エズラ・ネヘミヤ記以降特に広がった口伝律法は軽視し、「道徳観念」くらいにしか考えていなかった。

パリサイ派:

捕囚時代の経験から信仰熱心となり、律法を重要視した宗教化を進め、祭司や律法学者を中心に広がったパリサイ(ファリサイ)派(「分離した」という意味)。
彼らは、多く民衆から支持されていた。
律法プラス口伝律法(食事の前に手をきよめるとか、なども重要視し、その通りに生きることを大切としていた。
死後の世界のことや、奇跡など霊的なことも信じ、大切に考える。

エッセネ派:

パリサイ派よりもさらに熱心に宗教化を進め、神秘主義的な信仰を持つようになっていった。
エッセネ派の人々は、人里離れた荒野にコミュニティーを作って共同生活を送っていたため、聖書の中ではイエスさまとも接点を持っていない。
自らの罪をきよめる「洗礼」という儀式を行っていた。
しかし、バプテスマのヨハネはエッセネ派だったのではないかという説もあるが、ヨハネのバプテスマはエッセネ派のものと意味が違う。

祭司であり王ともなったヨハネ・ヒルカノスは、権力維持のためサドカイ派と結びつき、マカバイが理想としていたユダヤ教中心の国とは違う方向に進んでいくこととなった。

アリストブロス1世(BC104-BC103)

母や兄弟たちを牢獄に閉じ込めて権力を独占しようとした。
母は餓死したものの、本人も病気によって治世のわずか1年で死んでしまう。

アレクサンドロス・ヤンナイオス(BC103-BC76)

アリストブロスの死後、妻のサロメ・アレクサンドラは弟のアレクサンドロス・ヤンナイオスと再婚し、彼に王位を継がせた。
ヨハネ・ヒルカノス、アリストブロス1世と同じように領土拡大政策を取り、クレオパトラ3世の援助を受けてプトレマイオス朝とも戦った。

アレクサンドロス・ヤンナイオスは大祭司でありながら信仰を重んじず、パリサイ派を虐殺したため、パリサイ派とサドカイ派との関係は修復不能なほど壊れてしまった。(仮庵の祭りのときにパリサイ派に侮辱され、6000人を処刑。後に祝宴を開いてその中で800人を磔にし、妻子を彼らの目の前で殺害したと言われる。)
彼はパリサイ派を倒すためにエッセネ派とも近づいたようで、クムラン教団によって保管されていた死海文書の中には、アレクサンドロス・ヤンナイオスを讃えていると思われる祈りが見つかっている。

死の間際にパリサイ派の迫害を悔い改め、パリサイ派に権力を与えることと、自分の死体を彼らの思うように処分させることを命じたと言われる。
それによってハスモン王家とパリサイ派は和解し、妻のサロメ・アレクサンドラ(BC76-BC67)がその後女王として統治すると、ようやくパリサイ派の人々が力を持つ土台が整えられることとなった。

サロメ・アレクサンドラは息子ヨハネ・ヒルカノス2世を大祭司として任命し、自らはパリサイ派を擁護しながらサドカイ派との調和と保ち、平和を保つ政治を行った。

当時、王の直下には長老議会(ゲルーシア→後にローマ帝国支配下ではサンヘドリンと呼ばれた)と呼ばれる議会が組織されていたが、元々支配階級の多かったサドカイ派がメンバーの大半となっていたが、この時代にはパリサイ派が幅を利かせるようになった。
パリサイ派は力を持つようになると、アレクサンドロス・ヤンナイオスの頃の恨みをはらそうと、どんどんその勢力を広げていった。

教育が得意だったパリサイ派によって、ユダヤでは子どもへの教育が徹底されるようになり、律法の教育とともに識字率も上がり、ユダヤには良い結果をもたらした。

しかし、サドカイ派もまた、ヒルカノス2世(BC67-BC66、BC63-BC40)の弟アリストブロス2世を味方につけて勢力の回復を試みた。
BC67年にサロメ・アレクサンドラが息を引き取ると、アリストブロス2世(BC66-BC63)が武力によってヒルカノス2世を追い出して権力を握った。

その後、ヨハネ・ヒルカノス2世の友人であり、将軍だったイドマヤ人アンティパトロスの助けによって、ヨハネ・ヒルカノス2世はナバテア王アレタス3世と手を組み、さらにパリサイ派の力を借りてアリストブロス2世を倒し、追い出してしまった。

このように、サドカイ派とパリサイ派の間にあった争いは、王族の兄弟も巻き込み、信仰的な問題と言うよりも政治的な争いとなっていた。

儀式は大切にするけれど世の中の価値観を優先し、霊的なことは信じないサドカイ派、学びが得意だけれど世の中の価値観とはずれた律法を大切にし、厳しく守らせようとするパリサイ派。
互いに「自分たちこそ正統であり、正しい」と主張していたが、結局のところどちらも正しくはなかったことをイエスさまが指摘している。
パリサイ派よりももっと厳しく律法を守らせ、神秘的なことに関心を抱いて世捨て人として生きるエッセネ派に至っては、イエスさまと接点さえなかった。

この3つの派閥の関係は、キリスト教のリベラル、福音派、聖霊派の関係と似ているように感じる。
クリスチャンの派閥もそれぞれに仲が悪く、いつもケンカしているが、そのどれが正しいのでもなく、結局神さまの御心を求めていく以上のことを私たちはすることができない、
大切なのは知識でも、考え方でもなく、神さまとの関係そのものなのだから。

次回はヒルカノス2世とアリストブロス2世の兄弟同士の覇権争いから。