中間時代編3:ヘレニズム時代 アレクサンドロス~ディアドコイ戦争

ギリシアの歴史

BC2000年ころからギリシアの文明は始まっている。
4大文明よりは遅いが、ヨーロッパ全体に広がり、影響を与えた文明のひとつ。

トロイア文明(BC2600頃)、クレタ(ミノア)文明(BC2000頃)、ミケーネ文明(BC1500ころ)、の歴史は神話として形成されていった。
BC12世紀にミケーネ文明が滅んで以降、400年間何があったかわからない時代が続き、BC8世紀になって古代ギリシア文明が再び姿を現した。

オリエント(中東エリア)では協力の支配力を持った帝国が現れていたころ、ギリシアでは都市国家のカタチを保ったまま文明が発展していた。
ギリシアの都市国家をポリスと呼び、ここには当時1000ものポリスがあったと言われている。
それぞれのポリスの規模は決して大きいものではなく、大きくなっても1万人では一つのポリスとして秩序を保つことは難しいとされた。

スパルタ:

ドーリア系のスパルタ人が、10倍もの非ドーリア系人種を奴隷として支配していた。
農業に従事する奴隷はヘイロータイと呼ばれ、商工業に従事する周辺民をペリオイコイと呼んで、力で支配することによって保たれていた。

10倍もの奴隷たちを従わせる武力を維持するため、スパルタ人は幼少のころから徹底的に軍事訓練がされていた。
これが、厳しく教育するという意味の『スパルタ教育』という言葉に繋がっていく。

アテナイ:

スパルタと並ぶ勢力を持ち、全く違う性質を持っていたのがアテネ。
前8世紀頃は貴族が主権を握る貴族政治だった。
少ない貴族が主権を握っていた理由として、彼らが武力によって外的と戦い、植民地を増やしていたという事がある。
次第に植民市が増え、豊かになってくると貴族に次ぐ平民にも裕福な者たちが現われ、重装歩兵として戦争に参加する事が可能になった。
この時代、戦争に出るという事は非常に名誉な事だった。

この時代のギリシアには、文化や思想に大きな変化があった。
哲学、自然科学、文学、芸術が発展し、それはやがて他の国にも大きな影響を与えるようになっていく。
その背景にあったのは…

労働は女性と奴隷の仕事だったため、暇な人が多かった。
考える時間が多いため、思想が発達した。
※ 地球が丸いことも、この頃すでに発見されていた。

そのような中、ペルシャ帝国の勢力が拡大し、ギリシアにも支配を伸ばそうとしてきた。BC492-BC479ペルシャ戦争。
しかし、数十万人におよぶペルシャ帝国の兵力に対し、ギリシアのポリスは同盟を組みながら対抗し、地の利も助けて度重なるペルシャとの戦いに勝利していった。

貴族政治から始まったギリシアの政治は、やがて経済力が物を言う時代となり、BC443年ペリクリスがアテネの指導者となると、アテネの民主制が完成した。
・ 現代日本の国会にあたる民会というものが政治の最高機関となった。
・ 18歳以上の男性市民によって、多数決で政治を動かしていく直接民主制である。財産に関係なく、誰でも民会に参加する事ができた。
・ 将軍など特殊な教育や才能を必要とする職務を除いて、ほとんどの公職職員をくじ引きで選んだ。任期は一年とし、誰でも担当できるようになる。裁判も抽選で陪審員を選んで行われた。

また、多くの人々が政治に直接かかわる民主主義では、発言力によって影響力が変わり、それが富や権力を左右することになる。(SNSのインフルエンサーやYouTuberが影響力を持つ現代と似ている)
そんな中で弁証論(ディベイト)が発達し、それを教えるソフィストという人々が出てきた。
しかしそれは、口先だけの言葉で人気をとって政治に影響力を持つという状況を生み出し、やがてギリシアの政治を腐敗させることに繋がっていく。

また、この民主政治は奴隷制の上に成り立つものであった。
奴隷は労働力として用いられ、女性は子どもを産む道具であり、所有物であった。
対等な人間同士の愛の関係と言えば同性愛とされた。

このころから、ギリシアは衰退の道を辿っていく。

そのころ、王政として始まっていたローマは、BC500年ころから共和制の政治体制へと変わっていった。

アレクサンドロス大王とヘレニズム時代:

ギリシアの民主主義が腐敗し、衆愚政治となっていく中、力を蓄えていたのは後進地域であったマケドニアだった。

マケドニアのフィリッポス2世の子どもアレクサンドロス(BC336-BC323)は、その13年の治世に領土を拡大し続けた。
アレクサンドロスは、征服した領土にアレクサンドリアと言う都市を70以上も建設した。
こうしてアレクサンドロスは、各地にギリシア人を住まわせ、地域の人々と結婚させた。
それによって、ギリシアの文化が広がっていく事になった。
インドなどにも、アレクサンドロス時代のギリシア人の末裔たちが、未だに住んでいるという。

ペルシャ帝国への建前上、表立ってアレクサンドロスに従うことはなかったものの、ユダヤ人たちは基本的にはアレクサンドロスに背こうとはしなかった。
アレクサンドロスがペルシャに攻め込む前にエルサレムに立ち寄った際、大祭司ヤドアは真っ白な礼服を着てアレクサンドロスを出迎えたという。
その時、神殿に仕える司祭たちがアレクサンドロスと会見し、「ダニエル書にはあなたのことが預言されていて、あなたがペルシャを滅ぼすだろう。」と伝え、それを聞いたアレクサンドロスが喜んだという事が記されている。

サマリアの総督サヌバラテはユダよりも積極的にアレクサンドロスに協力し、ティルスでの戦いの際には援軍を送った。
サヌバラテはサマリアのゲリジム山に神殿を建築し、娘婿マナセを大祭司に任命しようとしていた。
サヌバラテの死後、神殿は建造され、異邦人と結婚して追い出されたユダヤ人たちを始めとする人々が多く集ったとされている。

その後、アレクサンドロスはペルシャ帝国を倒し、その勢力を拡大していく。
アレクサンドロスは、エジプトに行った際、シワーにある神殿で神の生まれ変わり(ファラオ)であるというお告げを受ける。
マケドニアの文化では、王は友人に近く、単なるリーダーに近かったが、専制君主という考え方に惹かれたアレクサンドロスは、ギリシア人たちにまで自分を神として接するように強要する。

これによって、アレクサンドロスに対して不満を持つもの達も増えてきて、反乱や暗殺の計画も出てくることになった。
このような状況の中で、アレクサンドロスは33歳で急死する事になった。
証拠はなかったけれど、暗殺だったとしてもおかしくはないタイミングだった。

このようにして、アレクサンドロスは一代にして(わずか10年あまりの間に)大帝国を築き上げたが、帝国が国として確立する前に、後継ぎを残さず急死してしまったため、帝国には特定の名前が付けられることもなかった。
歴史では、「アレクサンドロスの帝国」とだけ呼ばれている。

ディアドコイ(後継者)戦争とヘレニズム諸国:

アレクサンドロスの死後、帝国は配下の将軍たちによる後継者(ディアドコイ)争いの戦争が起こった(BC323-BC281)。
いくつもの後継者たちが互いに争い、40年の間にそれは3つの国に分かれていった。
これをヘレニズム諸国と呼ぶ。

マケドニア・ギリシアに建国されたアンティゴノス朝マケドニア(BC276-BC168)
旧ペルシャ領にできたセレウコス朝シリア(BC312-BC63)、
エジプトに生まれたのがプトレマイオス朝エジプト(BC306-BC30)である。
それぞれの王朝を築いたのは、アレクサンドロスのもとで働いていた将軍たちで、ギリシア人だった。

中でもセレウコス朝シリアは、領土が広すぎて、後に中央アジア方面の総督が独立し、バクトリアという国を建国(BC255)。
更にペルシャ本土(現在のイラン)ではペルシャ人が自立してパルティアを建国(BC248)する。

こうして、アレクサンドロスの帝国は分裂していった。
アレクサンドロスの東方遠征以来、プトレマイオス朝エジプトが滅亡するまでの300年間(BC334-BC30)をヘレニズム時代と呼ぶ。
ヘレニズム諸国の中で一番長く続いたのはプトレマイオス朝だったが、その最後の王(女王)があのクレオパトラである。
つまり、クレオパトラはギリシア人だったという事がわかる。

ヘレニズム時代には、アレクサンドロスの支配下にあった地域の公用語はギリシア語(古代/コイネーギリシア語)が使われるようになった。
民族の枠を超えてギリシア語が世界の公用語になっていたことにより、情報はより広い地域に届きやすくなった。

ギリシア人の支配の拡大は、ギリシアの文化の拡大でもあった。
こうして、ギリシア文化がオリエントと融合し、世界中に広がっていった。
これをヘレニズム文化と呼ぶ。

これまでポリスという小さな地域に留まっていた人たちが、オリエントなどの幅広い人々と出会うことによって新しい価値観を受け入れるようになり、融合させていった。
そこには、世界市民主義(コスモポリタニズム)という価値観が広がっていった。

一方、捕囚によってユダヤ人たちは散り散りとなり、ユダヤには帰還しない人々もいた。
そのような離散したユダヤ人をディアスポラと呼ぶ。
そしてディアスポラのユダヤ人の中には、ヘブル語がわからず、ギリシア語だけを理解するユダヤ人たちも出てきた。
そこで聖書も、ギリシア語に翻訳されることになる。
およそ70人の学者たちがその翻訳に携わったため、このギリシア語の聖書は「七十人訳聖書(シェプタジェンタ)」と呼ばれている。
七十人訳聖書は、今でも聖書解釈の手掛かりとされている。

大混乱を起こしたこの時代だが、こうして広い範囲で公用語が定まったために、聖書は外国人にも読むことができるようになり、福音が世界に広がる足がかりができていった。

一方で、ユダヤ人たちもギリシアの文化に触れる機会が増え、ヘレニズムの影響を受けるようになっていった。
それは律法を定めていく際にも影響を与えたのではないかと想像する。

ヘブライ文化:東洋的、情緒的、抽象的、象徴的、絵画的な表現方法
ヘレニズム文化:西洋的、現実的、具体的、実際的、論理的な表現方法

炭坑節
月が出た出た 月が出た
(あ ヨイヨイ)
三池炭坑の 上に出た
あんまり煙突が 高いので
さぞやお月さん けむたかろ
(サノ ヨイヨイ)

この歌から三池炭鉱の情緒的な風景を思い浮かべることができる。
しかし、私たちも西洋文化の影響を受け、価値観が変わってきた。
この歌詞をヘレニズム的に考えると、とても現実的ではない歌だということがわかる。

煙突がどれだけ高くても、煙が月まで届くことはあり得ないし、そもそも月は生物ではないのだから、煙を煙たいと思わない。

このような感覚の違いのようなものが、律法の解釈も影響を与えたのではないかと思う。
例えば、安息日の時に歩いていい距離がいつ定められたのかは定かではないが、定義や距離に着目するのはヘブライ的というよりはヘレニズム的な感覚のように感じる。
本来は「安息日は働かない」という言葉だけで十分だったのだ。

このような感覚は西洋化したキリスト教の中にも見られる。
私たちも、いつの間にか西洋文化の影響を受け、西洋の影響を強く受けたキリスト教を教えられる中で、聖書の読み方が西洋的になり過ぎてはいないだろうか?