中間時代編2: 捕囚時代と帰還 アケメネス朝ペルシア

捕囚時代のユダヤ人

神に選ばれた民だったイスラエル、ユダはなぜ滅んだのか?
エレミヤはこのように神の心を伝えている。

エレミヤ 3:6 ヨシヤ王の時代に、主は私に仰せられた。「あなたは、背信の女イスラエルが行なったことを見たか。彼女はすべての高い山の上、すべての茂った木の下に行って、そこで淫行を行なった。
3:7 わたしは、彼女がすべてこれらのことをしたあとで、わたしに帰って来るだろうと思ったのに、帰らなかった。また裏切る女、妹のユダもこれを見た。
3:8 背信の女イスラエルは、姦通したというその理由で、わたしが離婚状を渡してこれを追い出したのに、裏切る女、妹のユダは恐れもせず、自分も行って、淫行を行なったのをわたしは見た。
3:9 彼女は、自分の淫行を軽く見て、国を汚し、石や木と姦通した。
3:10 このようなことをしながら、裏切る女、妹のユダは、心を尽くしてわたしに帰らず、ただ偽っていたにすぎなかった。――主の御告げ。――」

彼らは、捕囚の経験を通して、自分たちに信仰が欠けていたことに気づいた。
とは言え、神殿で礼拝を捧げることができなくなった彼らは、「シナゴーグ」という会堂を建てて、そこで律法の教育を行った。
このような中で経典がまとめられ、彼らの信仰はユダヤ教として確立されることになった。
律法学者たちが起こり、律法が解釈されるようになったのもこの時代から。

そして、新バビロニアで暮らす人々を中心として、「自分たちはユダヤ人である」というアイデンティティが立て上げられ、ユダヤ人のコミュニティが作られるようになったのである。
彼らがユダの地に残された人々よりもずっと強い信仰とアイデンティティを持つようになったことは皮肉な話だが、彼らのその思いと祈りが捕囚からの帰還と、ユダヤの復興を実現したのだと思う。

よく、「中東では宗教が戦争を生み出している」という人たちがいるが、それは大きな間違いで、オリエントは地政学的に元々戦争が多い。
ユダヤ人たちは宗教的にこだわりがあるから戦争を起こすのではなく、戦争が多いから、自分たちのアイデンティティを守るために、宗教にこだわるしかなかったのだと思う。

一方で、預言者ダニエルは、ネブカドネザル王に次ぐ権威を与えられバビロン帝国に仕えた。
聖書によれば、ネブカドネザルはダニエルが夢の解き明かしをしたことを通して聖書の神を崇めている。
その後シャデラク・メシャク・アベデネゴが燃える炉の中で生きているのを目にし、晩年には狂ってケモノのようになり、正気に返った時、神を見出したと伝えられている。
ネブカドネザルについての記録はあまり残されておらず、真偽を確かめる手段はないが、伝承ではネブカドネザルは、晩年バビロン帝国の滅亡を予言したと言われている。

そんなバビロン帝国も、ナボニドスとその子ベルシャツァルによる共同統治の時代、BC539年にペルシャ帝国のクロス(キュロス)王によって滅ぼされる。
滅ぼされる直前、ベルシャツァルが見た幻「メネ・メネ・テケル・ウ・パルシン」をダニエルが解き明し、バビロン帝国の滅亡の予告である事を告げる。

アケメネス朝ペルシャ:(550-330BC)

遊牧民だったペルシャ人がオリエント社会に侵入したのはBC1000年頃。
以降、民族として力を蓄えていく。
BC550年、クロス(キュロス)(559-530BC)2世がメディア王国を倒して独立する。
そのままの勢いで、4大国だったリディア、新バビロン帝国を征服し、オリエントを統一。

先のアッシリア帝国や新バビロン王国と違い、征服している国に対しては寛容な政策をとった。
それぞれの宗教を尊重し、捕囚するどころか、捕囚されていたユダ王国の人々を解放し、破壊された神殿の再建を助けた。(エズラ記)

第一次帰還(BC537)

キュロス王は、ユダヤの人々が故郷に帰ることの許可を出した。
しかし、ペルシャ帝国下の生活は居心地がよかったので、留まる選択をする者たちも少なくなかった。

シェシュバツァル(ダビデの子孫であり、キリストの型でもある)、ゼルバベルの指導によっておよそ5万人の人々がエルサレムに帰還。
しかし、多くの人々が捕囚されていた間、ユダヤには周辺の多民族が住み着き、土地の所有権を主張していた。
残されていたユダヤ人たちも、帰還した人々もともに貧しく、資源も乏しかったため、エルサレム再建は困難だった。

ユダヤ人たちもまた、他民族たちとの接触を嫌い一方的に拒絶したため、互いの関係には大きな溝ができていた。
周辺民族はユダヤ人たちの神殿建築を妨害し、争いが絶えなかった。
国内での小競り合いを嫌ったカンビュセス2世(BC529-BC522)は、ユダヤ人たちによる神殿建築を中止させた。
次のダレイオス1世によって許可が出されるまでの18年間、神殿建築は中断することとなった。

カンビュセス2世自身はエジプト侵攻に忙しく、ユダヤ人に関しては無関心だった。

貧しさの中で何もすることができないでいるユダヤ人たちを励ましたのはハガイ、ゼカリヤという預言者たちだった。

しかし今、ゼルバベルよ、強くあれ。──【主】のことば──エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ、強くあれ。この国のすべての民よ、強くあれ。──【主】のことば──仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。──万軍の【主】のことば──あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊はあなたがたの間にとどまっている。恐れるな。』(ハガイ 2:4-5)

娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。
見よ、あなたの王があなたのところに来る。
義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。
雌ろばの子である、ろばに乗って。(ゼカリヤ 9:9)メシヤ預言

人々の中には、ゼルバベルこそがメシヤではないかというものが少なくなかった。
事実、ゼルバベルもダビデ王の子孫だった。(イエスさまの祖先ではあった。)

アケメネス朝の最盛期

三代目の王、ダレイオス1世(522-486BC)の時代、アケメネス朝は最大の領土となった。

広大な領土を治めるため、ダレイオス1世は全国を20の州に分け、それぞれの州にサトラップと呼ばれる知事を派遣した。
それぞれの州には強い権力を持たせず、知事の監視のため「王の目」「王の耳」と呼ばれる監察官をそれぞれの週に置いた。
エズラ記5:3に登場するタテナイと、シュタル・ボズナイは、このような機関で働いていた総督だったと思われる。

さらに、良質な金貨や銀貨を発行して税制を整え、アラム人やフェニキヤ人の交易を保護して経済を発展させ、財政の基礎を作った。
交通網も整備し、「王の道」と呼ばれる駅伝制の国道を作った。

※駅伝制:数キロメートルおきに、伝令が交代したり休むことができる“駅”を設け、情報の通信網を整備したもの。

ダレイオス1世を苦しめたのは、遊牧民スキタイ人になど外的との戦いだった。

BC516年に、イスラエルではゼルバベルによって第2神殿が完成。
捕囚されてから80年の月日を経て、神殿が復活したことを人々は喜んだが、ソロモンの神殿に比較するとあまりにみすぼらしく、嘆く者も多かった。

ペルシャ戦争”(BC492年)

イオニアの反乱に介入してきたアテネ(ギリシャ)との間に戦争が勃発。
第1回遠征:派遣した艦隊は暴風雨によって打撃を受け、戦わぬまま失敗に終わる。
第2回遠征:ペルシャ軍はマラトンに上陸。アテネはスパルタに援助を要請するも神事のために参加できなかったが、プラタイアイから協力を受ける。
アテネ・プラタイアイは共に都市国家でしかなかったが、この連合軍によってペルシャを打ち破ることに成功。ダレイオス1世は敗北に終わる。
これを、マラトンの戦いと呼ぶ。(BC490年)
ペルシャ戦争の行方を不安に思っていたアテネ市民にこの勝利を知らせるため、伝令がマラトンからアテネへと走り続けたという。
これが、マラソンの起源となった。42.195kmはアテネ・マラトン間の距離と言うわけではなく、それまで40km程度を目安としていた距離を1900年代になってからパリ・オリンピックで使われた距離を公式として決めた者である。

ペルシャ戦争は、次のクセルクセス(クシャヤールシャン)1世(486-465BC)王に引き継がれる。

BC480年、クセルクセス1世はテルモピレーに攻め込みスパルタ軍と戦う。
レオニダス王率いるスパルタ軍は善戦するも全滅する。(映画『300』)
そのままアテネに侵攻するクセルクセスだが、アテネのテミストクレス率いる海軍と激突。
サラミスの海戦で敗北する。(BC480年)
さらに、翌年BC479年のプラタイアとの戦いに敗北し、ギリシャとの戦いはクセルクセス1世の敗北に終わる。

エステルやモルデカイについての記録はペルシャ帝国の方には残っていないが、実際に起こったことだとすればクセルクセス1世の晩年の出来事だったかもしれない。
これは、捕囚から解放された後もエルサレムには帰還しなかった人々の話である。
後に第三次までの帰還が終わった後も、捕囚から帰らないユダヤ人たちもかなりたくさんいた。
エルサレムに帰還した人々は貧しい生活を余儀なくされたため、すでに安住の手を手に入れた多くの人々にとっては居心地がよかったのだろう。

そのような中で、残されたユダヤ人たちにも危機が訪れた。
ハマンによって、大領虐殺が行われようとしていたのである。
エステルとモルデカイは、ハマンの策略を阻止して多くのユダヤ人たちを救った。
それを祝うプリムという祭りがある。(2月から3月ころ)

次のアルタクセルクセス(アルタクシャサ/アルタシャスタ)(464-424BC)は歴史上にはそれほど功績を残さなかったが、旧約聖書(エズラ記、ネヘミヤ記)の中にその人柄を見る事ができる。
エズラやネヘミヤなどユダヤ人を積極的に側近とし、ユダ王国回復のためにかなり力を貸した。
父クセルクセス1世がユダヤのエステルを妃として迎えていた事や、モルデカイを重用していた事と関係があるのかもしれない?

エズラによって第二次エルサレム帰還(BC458年)
律法学者でもあったエズラによって大規模な宗教改革がなされる。
そこで、これまでないがしろにされてきた様々な宗教的な儀式が復活した。

宗教改革でもっとも問題視されたのは、異国人と結婚したユダヤ人たちだった。
確かに、イスラエルの歴史では外国人との結婚がいつも悪い結果をもたらした。
エズラは、外国人との結婚は解消するように指示し、民族主義的な傾向も強くなっていった。

ネヘミヤによって第三次エルサレム帰還(BC445年)
アルタクセルクセス王の毒見役として絶大な信頼を得ていたネヘミヤによる。
人数は不明だが、ペルシャで得ていた安定した生活を捨てて、エルサレム再建のために自分自身を捧げる心を持った人々だった。

帰還後、ネヘミヤの指揮によってエルサレムの城壁が再建される。
異民族からの襲撃があったものの、わずか52日で城壁を完成させた。

しかし、ネヘミヤがペルシャに帰国した後、エルサレムに住む人々はすぐに神から離れた行動を始めてしまう。
ネヘミヤは再びエルサレムに戻り、改革を推進する。

・ 律法の整備・項目の定義づけなど
・ 労働者や宗教行事者への対応の改善、
・ 十分の一献金の徹底、
・ 外国人との結婚の禁止、
・ 安息日の厳守

ユダヤ教は力を持ち、人々への教育が徹底されていった。
アイデンティティを失いかけていたユダヤ人たちにとってこれは必要な状況だったであろうが、同時にユダヤ教は宗教化し、宗教によって人々がコントロールされる状況も進んでいった。
それは、神主導ではなく、宗教主導の改革だった。

その後、徐々に力を失っていいたアケメネス朝ペルシャは、ダレイオス3世(336-330BC)の時、マケドニア・ギリシャのアレキサンドロス大王に破れ、滅亡する。

ゾロアスター教(拝火教)

成立年代ははっきりせず、BC1200-BC700年の間とされている。
『アヴェスター』という経典としてまとめられて、宗教となったのはAD3~4世紀頃のササン朝ペルシャの時代。

光明神アフラ=マズダと暗黒神アーリマンが戦う善と悪の二元論の宗教。
この世のすべての事は、この二人の神の戦いの結果起こっている事であると信じる。

開祖はザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトゥストラ)。
ニーチェが書いた『ツァラトゥストラはかく語りき』の主人公のモデルでもある。

ゾロアスター教の教えでは、善神と悪神は世の初めから戦い続けている。
アフラ・マズダにはスプンタ=マンユ(聖霊)という別の姿がある。
善と悪の戦いにはやがて決着がつき、善神アフラ=マズダが勝利する。
その時、救世主が現れて死者たちを蘇らせる。
そして復活した人々を天国と地獄に選別する、最後の審判が行われると言う。

ユダヤ教やキリスト教の教理と似ている事から、ゾロアスター教が影響を与えたのではないかと考える学者が多い。

教祖ザラシュストラによって記されたとされるものは言葉の羅列で、理解できない部分も多く、もしかするとザラシュストラは預言者として神の言葉を聞いていたのかもしれないが、この土地の信仰と混ざっていったのかもしれない。
実際に、ゾロアスター教は年代ごとに教義や信仰の中心となる神の名前さえも変化していたと言われる(原初のゾロアスター教は一神教だったとも言われている)。