中間時代編1: 捕囚 アッシリア帝国とバビロン帝国

アッシリア帝国:(BC2000ころ-BC609)

アムル人によって建国された。首都はアッシュール。BC700ころセンナケリブによってニネヴェに遷都。
アッシリアの歴史は古く、BC2000ころメソポタミヤの北方から始まった。
次第に領地を広げ、アッシュールバニパル王の時代、メソポタミヤ最大の統一帝国となる。

預言者ヨナがニネヴェに行ったことはよく知られているが、この時代のニネヴェはそこそこ大きい都市ではあっても首都ではなかった。
ニネヴェが首都になったのはBC700頃、センナケリブ(BC705-BC681)によって遷都された後。
ヨナがニネヴェに行った時代のアッシリアの王は、アダド・ニラリ3世(BC811-BC783)と思われる。
この時代、アッシリアは侵略を繰り返し、近隣国を吸収して大きくなり始めていた。
彼が回心したという歴史的記述はないが、アダド・ニラリ3世がアラムの首都を包囲したことによってアラムが弱体化し、それは北イスラエルの繁栄に繋がった。
「彼は、レボ・ハマテからアラバの海までイスラエルの領土を回復した。それは、イスラエルの神、【主】が、そのしもべ、ガテ・ヘフェル出身の預言者、アミタイの子ヨナを通して語られたことばのとおりであった。(第2列王記 14:25)」

また、アダド・ニラリ3世の死後、ティグラト・ピレセル3世が出てくるまでの数十年間アッシリアは、他国への侵略をしない時代に入っている。
王によっては災害に見舞われていたこともあり、これがヨナによる宣教の結果なのかどうかはわからない。

BC744に即位したティグラト・ピレセル3世の時代(BC744-BC727)より、アッシリア帝国は再び急激に成長。
占領国から多大な税金を徴収し、捕囚(強制移住制作)によって地方勢力を弱体化する。
(北イスラエル王国のメナヘム(BC752-BC742頃)の時代、ついにティグラト・ピレセル3世が北王国に進軍、メナヘムは多額の賄賂を贈って王位を守った(2列王記15:19)後に南ユダ王国の王アハズ(BC735-BC719頃)も、アラムを倒すためにアッシリア帝国のティグラト・ピレセル3世に贈り物を送って援助を求めている。(II列王記16:7-9))

クーデターを起こして王となったホセア(BC732-C722))は、アッシリアに抵抗する機会をうかがっていた。
エジプトのソ王に援助を求めるが、アッシリアのシャルマヌエセル5世(BC727-BC722)はサマリアを包囲、ホセアを捕えてしまう。
その後王のいないままサマリアは3年間抵抗を続けるが、BC722に、サルゴン2世(BC722-BC705)によってついにサマリアは陥落。
北イスラエル王国は滅ぼされ、捕囚が始まる。

捕囚とは:

この当時アッシリア帝国が行っていた占領政策。
ひとつの国を占領した時、その民族をそのままにしておけばやがて力をつけて反乱を起こすかもしれない。
現代でも様々な民族紛争や革命が起っています。
それはすべて、民族が結託して自分自身の土地や文化や誇りを取り戻そうとする事によって起ります。

捕囚というのは、占領した国の住民を強制的に別の土地に住まわせる事です。
それも分散させて、他の民族と一緒に生活させるのです。
それによって何が起るかというと、だんだんそれぞれの民族が混ざり合っていくんですね。
文化も混ざり合い、民族間での結婚も始まり、やがて自分達が元々何人かというアイデンティティも失っていきます。
そしてその上に、「自分達はアッシリア人である。」という新しいアイデンティティが築き上げられていくのです。
そうなれば、占領した国はもう反乱を起こす心配もなく、純粋な国力となっていくわけです。

民族的な意識がとても強かったユダヤ人にも、これはかなり有効な手段だったようです。
これによって多くのユダヤ人は自分達のアイデンティティを失っていきました。

イスラエル人たちが住んでいた土地には、代わりにバビロン、クテ、アワ、ハマテ、セファルワイムから人々が移り住み、残った人々と混じり合っていった。
イスラエル人としてのアイデンティティを失ってしまったこの地方に住む人々は、サマリア人と呼ばれるようになり、ユダヤ人たちから差別を受けるようになる。

ヨハネの福音書の中に、イエスさまがサマリアの女と井戸端で出会った話ある。
ここで出会ったサマリアの女には5人の夫がいて、今一緒にいる男も夫ではないという。
これは、5つの民族の宗教をそれぞれ受け入れ、聖書の神さまへの信仰も持ってはいるけれど花嫁としてちゃんとした関係を持つことができていなかったサマリア人たちの状態と重なっている。
サマリアの女がイエスさまと真の信仰について語り合ったことの背景には、このような背後の意図が隠されていたのである。

そして、ほとんど異邦人と化していたサマリア人に、「イスラエル人に福音を伝えることを目的としていた」イエスさまが会いに行ったという事実は、当時のユダヤ人たちにとっては衝撃的なことだったに違いない。
神は、私たちを決して見捨てないのである。

アッシリア帝国の最盛期

最盛期はアッシュルバニパル王(BC668-BC631)の時代。
エジプトをも倒し、首都ニネヴェに世界最大の図書館を建てた。
しかし、捕囚し、重税・重労働を課し、アッシュール神の信仰を強要する圧政は人々の反感を生み、結果的に多くの反乱が起こる事になった。
とても残虐な王で、征服した国の人々の皮をはいで壁に張りつけたり、長槍に刺して晒しものにしたと言われる。
しかし、アッシリアの圧政にアッシュールバニパル王の兄シャマシュ・シュム・ウキンがバビロニアで反乱を起こし、その反乱は次第に大きくなっていく。

アッシュルバニパル王の死後、アッシリアは急激に衰え、スキタイの攻撃や内側での紛争が相次ぎ、BC625年、新バビロニアを建国した将軍ナボポラッサル(BC625-BC605)が新バビロニア(バビロン帝国)を興し、BC612年ニネベを陥落。
アッシリア帝国はBC609年に滅亡となった。

新バビロニア:(625-539BC)

バビロニア人によって作られた古バビロニアとは違う、カルデア人によって作られた帝国。
アッシリア帝国がエジプトを含めたオリエントを支配していた時代、その厳しい支配に苦しんだ人々が反乱を起こして作り上げた。
BC625年にカルデア人の将軍だったナボポラッサル(BC625-BC605)が、独立を宣言する。

その後、イラン系の新興国だったメディア王国と同盟を結び、アッシリア帝国を攻撃。
BC609年にアッシリア帝国を滅ぼしてしまう。

この戦いに巻き込まれてしまったのがユダ王国のヨシヤ王(BC640-BC609)。
新バビロニアの勢力拡大を警戒したエジプトのファラオ・ネコは、アッシリアを援助しようと兵を率いて北上。
しかしヨシヤ王は、エジプト軍がユダを通過することを許可しなかった。
迫るエジプト軍をヨシヤ王がメギドで迎え撃ったものの、ヨシヤは敢え無く戦死してしまった。
「ハルマゲドン」と言うことばは「メギドの丘」という意味で、黙示録でいう最終戦争は、人々の希望を奪ってしまったこの時の戦いを彷彿とさせるのだろう。

エジプトはそのままカルケミシュにてアッシリアと合流し、新バビロニアとの戦いに参戦するが、結局は新バビロニアが勝利し、アッシリア帝国は滅んでしまった。

敗戦したファラオ・ネコはエジプトに帰還の途中、再びユダを通過し、この際にヨシヤの息子エホアハズ(BC609)を捕虜としてエジプトに連れて行ってしまう。
エホアハズはエジプトで幽閉され、そのまま死んでしまう。
エレミヤとエゼキエルが、エホアハズの悲劇的な人生を預言書の中で記している。

ファラオ・ネコはユダをエジプトの属領とし(宗主国と言う)、エホアハズの兄エルヤキムをエホヤキム(BC609-598)と変名して属領の王として立てた。

BC605年、ファラオ・ネコは再びカルケミシュに行き、新バビロニアと戦う。

ネブカドネザル2世(BC605-BC562)は王位を継いですぐにエジプトと戦うことになったがエジプトを打ち破った。

ネブカドネザル2世の時代、新バビロニア王国は最盛期を迎える。
7不思議のひとつにも数えられるバビロンの空中庭園や、強大な像、バベルの塔(旧約聖書のバベルの塔とは別)のような大建築事業を行った。

BC598年、ユダ王国を倒し捕囚してバビロニア帝国に強制移住させる。
これが第一次バビロン捕囚である。
第一次捕囚では、ユダの国から才能のある者たちを集め高官として教育した。
この時捕囚された中に、ユダ族のダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤたちがいた。

BC601年、今度はネブカドネザルが兵を率いて南下、エジプトを倒そうとするが、攻略することはできなかった。
その様子を見ていたユダのエホヤキム王は、エレミヤが預言した「バビロニアに仕えよ」という言葉に聞き従わずに反逆する。
その結果、エホヤキムはネブカドネザルの怒りを買いBC597年エルレサムは陥落。
エホヤキムも捕虜として連行されて死んだ。

その息子エホヤキン(BC597)が18歳で王位に就くも、再びエルサレムを攻撃した新バビロニアに敗れ、第2次バビロン捕囚民として連れていかれてしまう。
第2次捕囚はエホヤキンを始め貴族や指導者、技術者などが連れていかれ、その際に神殿の財宝も持って行かれることになった。
その中には預言者エゼキエルもいて、やがて解放されることを預言していたが、誰も信じようとはしなかった。

エホヤキンは残りの生涯を新バビロニアで過ごすこととなった。
とは言え、ネブカドネザルの死後捕虜の状態から解放され、新バビロニアで手厚く保護されて高い位を得、王と共に食事をする栄誉を与えられた。

エホヤキンが連れていかれた後、ユダの王となったのはエホヤキンの叔父ゼデキヤ(BC597-BC586)だった。
エレミヤはバビロンに降伏するように預言で伝えたが人々は耳を傾けず、気の弱いゼデキヤ王も周りの貴族たちを治める事ができずなかった。
反バビロン的な貴族たちによって反乱が起こされ、戦いに敗れたゼデキヤは両目をえぐられてバビロニアに連行され、そのまま牢獄で死んでしまった。
エルサレム陥落。(BC587年)

生き残った多くの人々が第3次捕囚として連れていかれ、ユダの地に残ったのは地位も低く、労働力にもならない人々だけだった。
エレミヤは新バビロニアで高官としての待遇を蹴ってユダの地に残り、回復に向けて働いたもののうまくいかずエジプトに逃れ、そこで生涯を終えたと言われている。