Iコリント4:6-13 Iコリント8『謙遜になる事を知る』 2022/08/28 けんたろ牧師
1コリント 4:6-13
4:6 兄弟たち。私はあなたがたのために、私自身とアポロに当てはめて、以上のことを述べてきました。それは、私たちの例から、「書かれていることを越えない」ことをあなたがたが学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して思い上がることのないようにするためです。
4:7 いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。
4:8 あなたがたは、もう満ち足りています。すでに豊かになっています。私たち抜きで王様になっています。いっそのこと、本当に王様になっていたらよかったのです。そうすれば、私たちもあなたがたとともに、王様になれたでしょうに。
4:9 私はこう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、最後の出場者として引き出されました。こうして私たちは、世界に対し、御使いたちにも人々にも見せ物になりました。
4:10 私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いのですが、あなたがたは強いのです。あなたがたは尊ばれていますが、私たちは卑しめられています。
4:11 今この時に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、ひどい扱いを受け、住む所もなく、
4:12 労苦して自分の手で働いています。ののしられては祝福し、迫害されては耐え忍び、
4:13 中傷されては、優しいことばをかけています。私たちはこの世の屑、あらゆるものの、かすになりました。今もそうです。
パウロが福音を宣べ伝えて始まったコリントの教会は、分裂という問題に直面していた。
ある人はパウロにつくと言い、ある人はアポロに、ある人はケファ(ペテロ)に、そしてある人はキリストにつくと主張した。
そんなコリントの教会が、再び一つになれるようにと書いたのがこの手紙。
私たちは現代の教会にも、たくさんの分断や分裂を見ることができる。
私たちが一つのキリストの体となるためには、一体どうすればいいのだろうか?
① 書かれていることを越えない
パウロはこのように書いている。
4:6 兄弟たち。私はあなたがたのために、私自身とアポロに当てはめて、以上のことを述べてきました。それは、私たちの例から、「書かれていることを越えない」ことをあなたがたが学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して思い上がることのないようにするためです。
「以上のこと」とは、ここまでにパウロが手紙の中で書いてきたこと。
つまり、主導権はそもそも私たちにあるのではなく、神さまにあったのであり、全ての良いことは神さまが起こしてくださったということ。
パウロもアポロもペテロも、そしてイエスさまご自身も、父なる神さまに聞き従ってきた結果を私たちは見ているのだということ。
私たちがいつも神さまに従って生きる必要があるということは聖書の中で繰り返し記されてきたことであり、私たちはそこに「書かれていることを越えない」ことが何よりも大切。
神さまの願うところから離れて私たちの価値観が優先されるなら、それは思い上がりと言わざるを得ない。
② 私たちの傲慢
そのような思い上がり、傲慢をパウロは非難している。
4:7 いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。
私たちは神さまの言葉より自分の直感や判断、価値観を優先にしてしまってはいないか。
それによって他の人たちを批判し、自らを誇ってしまいがちなのが私たちである。
そんな私たちを見抜き、パウロは皮肉を込めてこのように書いている。
4:8 あなたがたは、もう満ち足りています。すでに豊かになっています。私たち抜きで王様になっています。いっそのこと、本当に王様になっていたらよかったのです。そうすれば、私たちもあなたがたとともに、王様になれたでしょうに。
自分の考えを信じて神さまに聞こうとしないなら、私たちは神さまではなく自分を王としているのだ。
この世の価値観は今も、人の上に立ち、自分が全てを支配することを求めている。
私たちにとって王とは、イエスさまであり神さまだということを忘れてはならない。
そのために私たちは、まず自分の王座から降りる必要があるはずだ。
そこに座っているのがイエスさまだということをいつも確認しておこう。
③ 謙遜になること
では、私たちはどうすればいいのか?
簡単に言うなら、聖書の中で繰り返し語られてきたように、謙遜になるということ。
4:13 中傷されては、優しいことばをかけています。私たちはこの世の屑、あらゆるものの、かすになりました。今もそうです。
しかし私たちは、ここで3種類の勘違いをしてしまいがちである。
第一の勘違いは、自分を小さく見せようとすること。
日本語は敬語を操る文化があるため、私たちは無意識に相手を持ち上げたり、自分を下げて表現してしまっている。
しかし、その様に見せているだけなら、それは見せかけであって、本当の謙遜ではない。
第二の勘違いは、自分を過小評価し、卑屈になり、卑下してしまうこと。
自己肯定感が低い私たち日本人は、ついこのようになってしまいがちである。
「どうせ私なんて」という意識になることが、私たちに求められていることではない。
私たちは、神さまに素晴らしいものとして創造された特別な存在である。
ただ、「だからと言って私たちは神さまと同等ではない」ということだ。
モーセが最初、「ファラオのところに行ってイスラエルを解放させなさい」と神さまから命じられたとき、「私にはムリです」と答えて怒られたことを覚えているだろうか?
後のモーセは本当の意味で謙遜になり、全てにおいて神さまに聞き従うようになっていった。
同じように、神さまから何かを命じられたとき、「私になんてそんなことはできません」と言うのは謙遜ではなく、むしろ自らの判断により頼む傲慢である。
マリアが聖霊によってイエスさまを身ごもった時、マリアは「私が救い主の親になるなんて無理です」などとは言わず、「あなたの御心がこの身に起こりますように」と答えた。
それこそが本当の謙遜であり、神さまに全てを委ねて従う姿勢なのだ。
第三の勘違いは、間違った相手に従ってしまうこと。
他の人と比べて自分を下げてしまい、他の人に従おうとしてしまうのだ。
コリントの教会の人々は、まさにこのような勘違いをして、パウロやアポロ、ケファに従おうとしてしまった。
私たちも、判断を牧師や学者に委ねて従おうとするなら、そこには大きな勘違いがあると言わざるを得ない。
大切なのは、私たちが自分でも、他人でも、また御使いや悪魔でもなく、神さまに従うということ。
「自分には神さまの声は聞こえないのではないか」と思うなら、それもまた第二の勘違いである。
私たちは本当の謙遜になる事を知り、神さまの働きを余すことなく味わいたいものだ。