紀元1世紀の教会を訪れる(1)

プブリウス

私の名前はプブリウス。 正確を期すならプブリウス・ヴァレリウス・アミキウス・ルフスだ。
出身はピリピ。ピリピはマケドニアの比較的新しい植民地で、マケドニアの地ではあるが、自分はローマ人だと自負している。

私は今、ローマの旧くからの知人クレメンスとユウオディアのところに滞在している。
今日の夕方、みんなで近くの家に食事に行ったのだが、とても不思議な体験だったので、そのことについて話したいと思う。

さて、私の友人たちは、アキラとプリスカというユダヤ人夫婦から、7日に1度食事に誘われている。
これにはビジターも含まれているので、私も特別な招待状などなしに参加することができた。

夕食に出かけ、不思議な体験をした

出発したのは午後も半ばころで、すでに第九の時(午後3時)を回っていた。
ローマでも、夏場には、特に来客があれば食事の時間が遅くなるのは一般的なことのようだ。

さて、ふだん拓けた道ばかり使っていると、路地裏の狭い道は窮屈に感じてしまう。
中には幅が3メートルもないような場所もあり、泥だらけで、足元がかなり不安定だった。

すでに多くの職場が終っていることもあり、かなりの数の人が行き交っていて、迷わずにどり着くことが難しい。
道は曲がりくねっていて、あちこちへ行くので、方向感覚をすぐに失ってしまった。
私は目的地を自分で探す必要がなかったので助かった。
ほとんどの建物には家屋番号もつけられておらず、標識がない道路が多いので、よそ者が迷わないで辿り着くのは難しいだろう。

ローマの街は実に大きい。
人口はすでに100万人を越えているだろうし、さらに成長している。
世界中で、この街にそれなりの規模のコミュニティを形成していない民族はないに違いない。
ユダヤ人だけでも5万人はいると言われている。

ローマはもはや一つの都市ではなく、それぞれが独自の言語や習慣を持つ都市の集合体である、と言ったのは誰だっただろうか。
各国が、現地に不足していた技術を持ち込むことになったため、経済にはとてもいい影響があったことだろう。
奴隷や解放奴隷の流入は、雇用問題を緩和することにも繋がった。
もっとも、今はそれがむしろ別の課題を生み出してはいるが…。

食べ物もかなり進歩して、今では色んな物を食べられるようになった。
しかし、文化的視点から言うなら、そこには混乱が生じてしまっているようにも見える。
私は以前の方が好きだった。
古き良き時代はいつでも最高なのだ。

文化的な視点から見れば混乱が生じている

さて、アキラとプリスカが住んでいるストリートは、ローマの他の地域と同じように、様々な様式の家が入り混じった街並みだった。
以前は、雑貨店などの小さな店で埋め尽くされ、店主は店の奥か上の階で狭苦しく生活していた。

しかしティベリウス帝のころ、火事によって大部分が焼けてしまった。
木とレンガの建物に火がつくと、火事を制御することは難しかったのだ。
焼け残ったいくつかの建物が、5~6階の高さがあるような共同住宅群の間を埋めている。
大火事のリスクをさらに高めているばかりでなく、多くの建物は建付けも悪いため、建物が瓦解して大災害となるリスクすらあるように思えてならない。

ここ数十年ほど、こんな高い建造物が、ローマ中に増え続けている。
多くの人々がこのような高層住宅に住んでいる。
ブロックとコンクリートで作られた高級住宅になると、1階に新式の商店が備え付けられていたりするのだ!

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