Ⅰコリント15:50-58 Ⅰコリント38 『死は勝利に呑み込まれた』2023/06/04 けんたろ
1コリント 15:50-58
15:50 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
15:53 この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。
15:54 そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」
15:55 「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
15:58 ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。
復活の話はようやくここまでで終わる。
パウロがこの話にどれだけのボリュームをかけて話したかを考えると、コリントの人たちにとって、復活を信じることがどれほど大切なことだったかがわかる。
今回は、終末に起こることに焦点が定められている。
終わりの時にどんなことが起こるのだろう?
① 朽ちるからだと、朽ちないからだ
ここで一つ明確にされているのは、終末の時には新しいからだが与えられるということ。
15:50 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
私たちは、今のからだのままでも神の国に入り、それを体験することができる。
でも、私たちが神の国の完成を見るのは、この世にいる間ではない。
完成した神の国に入るためには、私たちは新しいからだを得る必要がる。
なぜなら、今私たちが持っているからだは朽ちるものであり、完成した神の国は朽ちないものだから。
朽ちるものは、くちないものを相続できないのだ。
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。
ここで言われている「眠る」とは、私たちが体験する死のこと。
全ての人が、死の眠りにつくわけではないことを、パウロは示している。
それは、私たちが生きている間に主の再臨を体験する人々がいるから。
しかし、例え死の眠りにつくことが無かったとしても、私たちは今のからだのまま完成した神の国に入るわけではない。
私たちが、真の意味で神の国に生きるためには、新しい、朽ちないからだを得る必要がある。
② 終わりのラッパとともに
それはこんな風に起こる。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
15:53 この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。
聖書の中でラッパは合図のしるしとして用いられる。
特に、古代の社会では戦いの始まりとしてラッパが鳴らされた。
それが、実際にラッパが「パッパラパー」と鳴るのかどうかはわからないが、その時が来れば誰の目にも明確に起こることがわかるはず。
③ 死は勝利に呑み込まれた
その時、旧約聖書の中に記されているこのことが実現するのだとパウロは言う。
15:54 そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」
15:55 「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」
15:54の「死は勝利に呑み込まれた」は、イザヤ25:8から、その次の「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」は、ホセア13;14からの引用。
どちらも、救い主によって死が打ち砕かれることが預言されていた。
キリストの十字架によって罪ののろいが打ち砕かれてきたことは、これまでも何度もはなしてきたことである。
このことは、聖書全体のメッセージとして、創世記の最初から始まったもっとも大切なテーマである。
何度語られ、どれだけ念を押されても、強調し過ぎということはない。
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
神さまに背いた「罪」によって人には「死」という呪いが与えられ、霊的に「死」んで神さまとの関係が壊れたことによって、人は「罪」を犯すものとなった。
「罪」と「死」の関係はある意味複雑なものである。
しかし、私たちの中にあった「罪」を見えるものとし、自覚できるようにしたのは「律法」による。
そして「律法」によって違反が生まれ、それによって「罪」は認識できるものとなった。
「罪の力は律法」というのは、そういう意味である。
④ 主のわざに励みなさい
「ですから」と、パウロは念を押す。
15:58 ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。
ココでの順番は大切。
私たちは、「死」が「罪」の結果だということに目を止めてしまい、「死なないために罪を犯してはならないのだ」という方向に考えてしまいがち。
でも、そうではない、逆だ。
キリストの十字架によって、罪の源である死は打ち砕かれた。
「ですから」、主のわざに励むのだ。
死を恐れて罪から離れて善い行いをするなら、私たちはどれだけ善い行いをしても足りないように感じて、決して平安になることはできないだろう。
しかし、救いはすでに完成していることを知るなら、私たちは安心して、神さまが命じることに従うことができるのだ。
失敗したからと言って救いを失うことはない。
そして、その行動がどれだけ実りのないことのように思えたとしても、無駄なことではないことを知るのだ。
なぜなら、それはそもそも、神さまが「やりなさい」と言ったことだから。
希望を持って生きていこう。
主が、すでに勝利してくださったのだから。