Ⅰコリント16:1-12 Ⅰコリント39『締めくくりの挨拶』2023/06/11 けんたろ
1コリント 16:1-12
16:1 さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたとおりに、あなたがたも行いなさい。
16:2 私がそちらに行ってから献金を集めることがないように、あなたがたはそれぞれ、いつも週の初めの日に、収入に応じて、いくらかでも手もとに蓄えておきなさい。
16:3 私がそちらに着いたら、あなたがたの承認を得た人たちに手紙を持たせてエルサレムに派遣し、あなたがたの贈り物を届けさせましょう。
16:4 もし私も行くほうがよければ、その人たちは私と一緒に行くことになるでしょう。
16:5 私はマケドニアを通って、あなたがたのところへ行きます。マケドニアはただ通過し、
16:6 おそらく、あなたがたのところに滞在するでしょう。冬を越すことになるかもしれません。どこに向かうにしても、あなたがたに送り出してもらうためです。
16:7 私は今、旅のついでにあなたがたに会うようなことはしたくありません。主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。
16:8 しかし、五旬節まではエペソに滞在します。
16:9 実り多い働きをもたらす門が私のために広く開かれていますが、反対者も大勢いるからです。
16:10 テモテがそちらに行ったら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようにしてあげてください。彼も私と同じように、主のみわざに励んでいるのです。
16:11 だれも彼を軽んじてはいけません。彼を平安のうちに送り出して、私のところに来させてください。私は、彼が兄弟たちと一緒に戻るのを待っています。
16:12 兄弟アポロのことですが、兄弟たちと一緒にあなたがたのところに行くように、私は強く勧めました。けれども、彼は今のところ行く意志は全くありません。しかし、良い機会があれば行くでしょう。
パウロの手紙の締めくくりの挨拶の言葉は長い。
あまりに長すぎて、1回のメッセージではカバーしきれないほど。
パウロの手紙のあいさつ文は、本編で伝えようとしていた内容からは外れて、事務的な話が多い。
しかし、ここにも考えるべき部分がいくつかあるので取り上げていきたい。
① 献金について
パウロは、ここで献金について書いている。
16:1 さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたとおりに、あなたがたも行いなさい。
16:2 私がそちらに行ってから献金を集めることがないように、あなたがたはそれぞれ、いつも週の初めの日に、収入に応じて、いくらかでも手もとに蓄えておきなさい。
ここでパウロは、慌てて献金を集めるのではなく、収入に応じて定期的に献げ、集めるように指示している。
しかし、注意しておきたいのは、その献金の目的である。
16:3 私がそちらに着いたら、あなたがたの承認を得た人たちに手紙を持たせてエルサレムに派遣し、あなたがたの贈り物を届けさせましょう。
この献金は、経済的に困難な状態に陥っているエルサレムのクリスチャンたちを支えるための献金だったことが分かる。
彼らが危機的な状態を乗り越えることができるように、パウロはガラテヤやコリントの人々に、支援のための献金を依頼していたのだ。
家で集まり、フルタイムの教師を抱えていなかった当時の教会は、献金を他の人たちのために使うことができた。
そこには、健全なクリスチャンの献げ方があるように思う。
② パウロの旅路
5節から9節にかけて読み進めていくと分かるのは、①パウロは現在エペソにいること、②マケドニアを通り、コリントに向かうこと、③しかし五旬節まではエペソに留まるということ。
しかし、それはすべて「主が赦されるなら」である。
16:7 私は今、旅のついでにあなたがたに会うようなことはしたくありません。主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。
この時は、しばらくの間はまだエペソから離れることはできなかった。
パウロを憎む反対者がたくさんいて、命の危機があったから。
「五旬節(ペンテコステ)までは」と書かれているので、ちょうど今くらいの時期に動き始めていたかもしれない。
私たちは、私たちの感覚を基準として、私たちが思う良い方向に進もうとしがち。
でも、心のどこかではいつも、「主がお許しになるなら」という感覚を持っていたい。
神さまがなさることを基準にして考えると、私たちの毎日はもっと平安で、楽しみに満ちたものになっていくだろう。
③ テモテとアポロ
この後、パウロと同じような二人の人物に関して、パウロは言及している。
テモテとアポロの二人。
16:10 テモテがそちらに行ったら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようにしてあげてください。彼も私と同じように、主のみわざに励んでいるのです。
16:11 だれも彼を軽んじてはいけません。彼を平安のうちに送り出して、私のところに来させてください。私は、彼が兄弟たちと一緒に戻るのを待っています。
テモテは、パウロの弟子のような存在で、若いながらにパウロの手伝いをしていた人物。
ここでは、テモテをコリントの教会の人たちに紹介しているが、一人前の働き人として尊重し紹介の仕方をしていることがわかる。
「彼を軽んじてはいけません」など、少し強めの言葉を使っているのは、今のコリントの状態が、決していい状態にはないからだろう。
バラバラになり、不品行が横行し、それぞれが好き勝手に行動していたコリントのクリスチャンたちをけん制して、テモテが来た時に行動しやすいように気づかっている。
16:12 兄弟アポロのことですが、兄弟たちと一緒にあなたがたのところに行くように、私は強く勧めました。けれども、彼は今のところ行く意志は全くありません。しかし、良い機会があれば行くでしょう。
アポロはこの手紙の最初の方にも名が出てきた人物。
ある人たちは、アポロを師としてアポロについていくと言っていた。
実際、アポロはパウロと同等の教養を持っていた。
しかし、この頃にはコリントを離れ、パウロと一緒にエペソに滞在している。
パウロが、コリントに行くよう強く勧めても、アポロはそれを断ったという。
コリントの一部の人たちが指示していても、アポロは意に介していなかったのかもしれない。
あるいは、コリントのクリスチャンのあまりに酷い状態を耳にして、行きたくないと思っていたのかもしれない。
アポロのこの反応も、コリントの人たちの心には響いたのではないだろうか。
現代の日本の教会を見たとき、聖書の時代の人たちはどのように思うだろう?
パウロは、私たちにどんな手紙を書くだろう?
アポロは、訪れたいと思うような教会であれているだろうか?
イエスさまはどのように反応するだろう?
「あなたたちのことなど知らない」と言われるような状態になっていないだろうか?
改めて、自分自身の状態を考え直していきたいものだと思う。