ヨブ19:25-27「なぜ、災難は(思いがけず)来る?」ー仲介者・贖い主を仰ぎ見るー2023/08/06 小西孝蔵

  • 突然にやってくる災難と前回の振り返り

・暑さにせいか、認知症のせいか? またやらかしてしまった!落とし物、置き忘れ事

 件を引き起こす。「ボーと生きてるんじゃない!」と家内に叱られる?

・「人生上る坂あり、下る坂あり、まさかという坂がある」-結婚式の新郎新婦への挨拶の常套文句、私も2回引用、人生には思いがけず災難が来る、私たちの家族にも。結婚の誓いの言葉にあるように、夫婦助け合って試練を乗り切ることが大切。

・私のクリスチャン友人の奥様はその模範例-彼は、パーキンソン病発症20年以上、現在は誤嚥性肺炎で自宅介護-奥様の長年の献身的介護には、頭が下がる。

・ヨブの夫婦はどうだったか? 今回は、ヨブ記の3回目。前回まで振り返ると、義人ヨブを襲った災難、7千匹の羊、3千頭のラクダなどの全財産を次々に奪われた。更に愛する7人の息子と3人の娘を失った。そして腫物、耐えがたいような重い皮膚病。追い打ちをかけるように、妻から愛想付かされる。「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」-結婚式の誓い(病める時にも・・・)とは正反対。もしこの言葉を家内から聞かされると私は立ち上がれない。

それでも、ヨブは、このむごい言葉にも持ちこたえられるくらい忍耐の人であった。ヨブは、「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。」(2章10節)

・しかし、最後にヨブを襲った苦難は、遠方から見舞いに来た3人の友の態度に失望させられたことであった。ヨブは、こう言った。「3:1この後、ヨブは口を開いて、自分の生れた日をのろった。 3:2すなわちヨブは言った、3:3「わたしの生れた日は滅びうせよ。」(ヨブ記3章1~3節)。ついに、サタンの思惑通り、ヨブは自暴自棄に落ちいった。但し、大事なのは、ヨブは、自分の生まれたことを呪ったが、神を呪わなかったことである。

・以上が前回からのあらすじ。その後、3人の友人との論争が約30章にわたって延々始まる。本日は、その一部だけを取り上げる。

 

  • 3人の友人との論争(ヨブ記3章~31章)

・本日の要点(パワポ資料)-①友人との論争、②三つのキーワード(仲介者、贖い主、仰ぎ見る)とへブル書の引用、最後に、③苦難の意味を探ってみる。

・エリファズ、ビルダテ、ゾファルとの論争-エリファズとビルダテと3回ずつ、

ゾファルと2回ずつ、計8回の大論争。日本では、病人のお見舞いに行って、こんな哲学論争、神学論争をする場面は想像しがたい。文化的背景が違う?

(エリファズ)「4:7考えてみよ、だれが罪のないのに、滅ぼされた者があるか。どこに正しい者で、断ち滅ぼされた者があるか4:8わたしの見た所によれば、不義を耕し、害悪をまく者は、それを刈り取っている。」

(ヨブ)「6:24わたしに教えよ、そうすればわたしは黙るであろう。わたしの誤っている所をわたしに悟らせよ。6:25正しい言葉はいかに力のあるものか。しかしあなたがたの戒めは何を戒めるのか。」

・これが論争の代表的論点。日本語で言う因果応報、自業自得、天罰覿面。エリファズなど3人の友人は、ヨブは神の前に罪を犯したから神に責められている、自分の罪を認めて悔い改めなければ、神は赦してくれないはずという。それに対し、ヨブは、自分は神の前に正しい人間なのに、何故、神は自分を責めるのかが分からないと反論。友人がそのことを一向に理解しようともしないことに憤慨し始める。「あなた方は、偽りの上塗り。無用な医者、黙ってくれ」(ヨブ記13章4節)

・我々もヨブのように自分は神の前に正しいと言える自覚はないが、他の人より悪いことはしていないのに何故こんな目に会うのだろうという疑問を持つことがある。

・ヨブと同じような悩みと経験をしたとされるのが以前ご紹介した内村鑑三。新渡戸稲造と共に札幌農学校2期生、独立伝道者の内村鑑三は、ヨブ記をこよなく愛し、生涯別々の時期に、3回にわたって講義したと言われる。彼は、30歳の時、意図せざる形で天皇陛下に対する不敬事件の責任を問われ(教育勅語事件)、一高の教職を解任され、それも、インフルエンザで意識を失って病床にある中で行われた。追い打ちをかけられるように、妻が亡くなるという苦難に遭遇した。新渡戸稲造など友人たちが彼を慰めに訪れたが、内村の苦悩は深まるばかりであった。結局、彼は、人に頼らず、自分自身がキリストの元に立ち帰って、再び慰めと救いの確信を得た。

 

  • 仲介者(保証人)を求める

・ヨブは、友人との不毛の論争の中で、次第に自分の弱さをさらけ出して、神様に向き合おうとする。神様に対して率直な疑問を投げかける。神は、人間に正しさを求められるが、ヨブは、自分の正しさを主張しようとする。完全さを求める神の前に、神との間に仲介者(仲裁者)を求めるようになってくる。

(ヨブ)「9:32神はわたしのように人ではないゆえ、わたしは彼に答えることができない。われわれは共にさばきに臨むことができない。9:33われわれの間には、われわれふたりの上に手を置くべき仲裁者がない。」

・本日のヨブの言葉に3つのキーワードがある、その一つ目が仲介者(mediator)。神が沈黙を守る中、ヨブは、神様と自分の間に立って弁護してくれる仲介者を求める。ヨブのような義人でも、自分の力では、神の前に立てなかった。自分の弱さ、小ささを認め、神の前にとりなしをしてくれる存在を必要とした。ここに、キリストの予兆というべきものが見られる。

・仲介人(mediator)は、ギリシャ語で、メシテース(英語名の起源か?) 相手との間に立ち、弁護してくれる存在、債務・借金を肩代わりしてくれる保証人という意味もある。

〇ヨブ記16章「16:19見よ、今でもわたしの証人は天にある。わたしのために保証してくれる者は高い所にある。16:20わたしの友はわたしをあざける、しかしわたしの目は神に向かって涙を注ぐ。16:21どうか彼が人のために神と弁論し、人とその友との間をさばいてくれるように。」

・この仲介者と同じ言葉が使われているのが、新約のへブル人への手紙で、合計3回出てくる(8章、9章、12章)。

〇へブル人への手紙9章「9:15それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過を贖うために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。」

 

  • 贖い主なるイエスを仰ぎ見る

・本日朗読した箇所、ヨブ記19章25~27節は、ヨブ記42章のほぼ真ん中に位置するが、前半のクライマックスに当たる箇所。ヨブは、まだ、この地上に来られていないキリストの姿を心に浮かべている。

〇ヨブ記19章「19:25わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に塵の上に立たれる。19:26わたしの皮がこのように剝ぎ取られたのち、わたしは肉を離れ、神を仰ぎ見る。19:27この私が仰ぎ見る。ほかならぬ私のこの目で見る。私のはらわたは私のうちで焦がれる。」

・ヨブの三つのキーワードの二つ目が「贖う」(英語でredeem、ギリシャ語でリトローン)という最も重要な言葉。旧約聖書では、奴隷の身分(負債)から買い戻して解放することを意味する。バビロン捕囚の中に有って、神がイスラエルの民に語ったのが、

イザヤ書43章1節の有名な箇所恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。」。ヨブにとって、贖いとは、病と滅びという苦難からの解放を意味する。新約聖書では、罪の奴隷になっている私たちを神の独り子イエスの十字架上の死という対価(身代金)を払って、買い戻し、罪の束縛から解放して、新しいいのちが与えられることを意味する。

・三つのキーワードの三つ目が、「仰ぎ見る」(ギリシャ語でアフォラーン)という言葉。他のものから目を離して、1点を集中して見上げることを意味する。私たちは、自分のこと、この世のことで頭が一杯、いつも下を向いて歩いている。思い煩うことがなんと多いことか。自分の弱さ、神様を忘れて自分中心になる罪深さ。そうした自分の内面を詮索する代わりに、十字架に掛かり復活された主を見上げる。そうすれば聖霊による助けが与えられる。何の対価も払わなくていい、キリストの無償の愛を受け取ることができる。何と有難いことだろうか!ここでも、へブル人の手紙がヨブの言葉を解説してくれている。

〇へブル人への手紙12章

12:1・・・いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。 12:2信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。 

・パワポ資料の表紙の写真は、ギュスターヴ・ドレの有名な銅版画の絵で、ヨブが3人の友との論争の様子とその中で天を見上げる姿(そう解釈したい)が描かれている。

 

  • 苦難の意味(結論)

・本日のメッセージのタイトルは、ヨブが真剣に悩み、3人の友人と8回も論争し、神様に疑問を投げかけた問題、「なぜ、苦難は(思いがけず)来るのか?」。思いがけなく訪れる苦難は、神に反抗することに対する刑罰という意味もあるが、むしろ、神様が、愛するわが子を身許に手繰り寄せるための教育的指導であり、訓練である。

・神様は、人間に神様の元に立ち帰らせるために、一発退場でなく、警告を与えられる。

 ある意味、柔道で言う教育的指導、サッカーで言うイエローカードのようなもの。

・ここでも、もっともヨブの疑問に最も的確に応えてくれる新約聖書の言葉が、やはりへブル人の手紙である。

〇へブル人への手紙12章5節「「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。12:6主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。12:7あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。 12:11すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に平安な義の実を結ばせるようになる。」 

・本日のヨブ記19章から学ぶことは、先ず、①私たちは、苦難に直面する時、仲介者であり、贖い主であるキリストを仰ぎ見ること、見上げること、②そして、これを神様からの訓練と信じて耐え忍ぶこと、そのことにより、平安の義の実を結ぶ、即ち、神の国における永遠の命にあずかることができる。たとえ肉体が滅びても魂は救われる。③そこに神の栄光が現わされ、苦難の意味が明らかにされる。

・キリストは、ラザロの死を目の前にして、こう言われた、「この病死に至らず、神の栄光が現れんためなり」(ヨハネ11章4節)、これが、苦難の究極の意味、どんなことが起きても、神の栄光が現わされるよう、常に喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝しよう。

 

    (祈り)