IIコリント 3:7-18 IIコリント6 『栄光から栄光へと』2023/0/13 けんたろ

IIコリント 3:7-18
3:7 石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。そうであれば、
3:8 御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。
3:9 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。
3:10 実にこの点において、かつては栄光を受けたものが、それよりさらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているのです。
3:11 消え去るべきものが栄光の中にあったのなら、永続するものは、なおのこと栄光に包まれているはずです。
3:12 このような望みを抱いているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。
3:13 モーセのようなことはしません。彼は、消え去るものの最後をイスラエルの子らに見せないように、自分の顔に覆いを掛けました。
3:14 しかし、イスラエルの子らの理解は鈍くなりました。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ覆いが掛けられたままで、取りのけられていません。それはキリストによって取り除かれるものだからです。
3:15 確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いが掛かっています。
3:16 しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。
3:17 主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。
3:18 私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

コリント人への手紙第二は、第一の手紙の後、パウロがコリントを訪れたときから起こっていた様々な問題を正すための書かれた手紙。

そこにあった一つの問題は、コリントのクリスチャンたちの中にアンチパウロの考えを持つ人たちが入り込んだということ。
パウロは、コリントのクリスチャンたちとの関係の回復をはかり、手紙の中でいくつもの弁明をしている。

前回は、律法は完全に護ることができないので、死と裁きを思わせること。
一方で、聖霊は私たちに命を与え、正しい道に歩ませる力を持っていることをパウロは伝えていた。
律法は正しさを表すために大切なものではあるが、人は誰もその基準に立つことができない。
神さまの、そして聖霊の助けを必要としているのだ。
今日はその続き。

① 律法よりも大きな光
出エジプトの時代、モーセは神さまと、顔を合わせて語る時間を持った。
40日後、十戒を持って降りてきたモーセの顔は、光り輝いていたと聖書には記されている。
人に死をもたらす律法でさえ、神の栄光はモーセに移り、モーセは神さまの光で満たされていた。
ならば、命を与える御霊によっては、さらに大きな光に満たされるはずではないか。

3:9 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。
3:10 実にこの点において、かつては栄光を受けたものが、それよりさらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているのです。
3:11 消え去るべきものが栄光の中にあったのなら、永続するものは、なおのこと栄光に包まれているはずです。

神さまから離れて、何が正しいか分からなくなっていた人々にとって、神からの律法は大きな道しるべの光だった。
しかし、聖霊の輝くに比べたら、それは小さな輝きでしかない。

暗闇の中で、スマホの画面は心強い灯りとなる。
しかし、昼の光の中では、スマホの光は弱すぎて、画面を見ることができないことも少なくない。
律法と聖霊の光では、それほどの違いがある。
私たちは聖霊が灯す光の中で歩くことができるのだ。

② 顔の覆い
続いてこのように言っている。

3:12 このような望みを抱いているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。

この言葉は、私たちが「地の塩であり、世の光だ」と言ったイエスさまのことばを思い出させてくれる。
私たちクリスチャンは、聖霊の光を受けて、大胆に生きることができる。
その輝きを持って世界に出ていき、職場で、家庭で、学校で、その光を輝かせるのだ。

モーセはそうではなかった。
モーセは、律法の光を受けて輝く自らの顔を、見られないように覆いをかけた。
それはなぜか?

3:13 モーセのようなことはしません。彼は、消え去るものの最後をイスラエルの子らに見せないように、自分の顔に覆いを掛けました。

パウロによれば、それは光が消えるのを、人々に見られないためだったと言う。
律法の輝きは、一時的なものであり、それはすぐに消えてしまうものだからだ。
聖霊の輝きはそうではない。
聖霊の輝きは、いつも私たちを照らし、光らせ続けるものだ。

ところが、このような、聖霊の光に照らされているにもかかわらず、クリスチャンの中には律法の光を追い続ける人々がいた。
パウロに反対する人々は、まさにそのような人々だった。

3:14 しかし、イスラエルの子らの理解は鈍くなりました。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ覆いが掛けられたままで、取りのけられていません。それはキリストによって取り除かれるものだからです。

クリスチャンでありながら、神さまの光が隠され、暗闇の中にいるような人たちに何が起こっておるのだろう?
それは、聖霊の光を受けず、律法の中に留まっているからではないだろうか?
大切なのは、キリストに覆いを取り除いていただくこと。
その時、私たちは光を受け、また私たち自身がその光を反射して輝きだす。

③ 栄光から栄光へと
律法は、確かに神さまが与えたものだった。
しかし、律法は私たちを死に近づけるものであり、神さまご自身ではない。
聖霊は、主ご自身であり、私たちに自由をもたらす方である。

3:17 主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。

そして、主によって、御霊によって私たちの覆いが取り除かれ、私たちは主の光を放つようになるのである。
ここに、あの有名なことばが続く。

3:18 私たちはみな、( 覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

聖書を読み、キリスト教を勉強し、正しい行いをしようとするところに、主の光はない。
そこには、必ず必死さが伴い、自分の計りで他人を裁く信仰があるだけだ。

私たちは、心を開き、神さまとの関係の中に生きるとき、聖霊が私たちの覆いを取り除いてくださるのだ。
そして私たちは、主の栄光を反射して、主が与えてくださる自由の中を生きることができる。

私たちは、律法の価値観の中で生きていないだろうか?
私たちは新約の時代を生きている。
聖霊が、私たちの内に住んでくださっている。
大切なのは、私たちが頑張ってキリスト教徒になることではなく、御霊によって歩むことだ。
その時、私たちは栄光から栄光へと、キリストに似た姿に変えられていく。