出エジプト32:1-6(31:1-32:38) 出エジプト16 『うなじを固くする民』2025/07/13 けんたろ
出エジプト32:1-6(31:1-32:38)
32:1 民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」
32:2 それでアロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい。」
32:3 民はみな、その耳にある金の耳輪を外して、アロンのところに持って来た。
32:4 彼はそれを彼らの手から受け取ると、のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にした。彼らは言った。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」
32:5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼びかけて言った。「明日は【主】への祭りである。」
32:6 彼らは翌朝早く全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを供えた。そして民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた。
しばらくの間、幕屋やら契約の箱やら祭司やエポデの話などが続きましたが、やっと話が戻ってきましたね。
モーセは40日の間シナイ山にいました。
そこで十戒を刻んだ石の板を受け取り、祭儀のことなどに関する細かいことを聞いて、ようやくイスラエルの民たちのもとに戻ってきたのです。
ところが、そこでは大きな事件が起きていました。
モーセは戻ってこないという不安が残された人たちの中に起こり、もう一人のリーダーであったアロンを新しいリーダーとして立てたのです。
アロンはイスラエルの民がエジプトで奪ってきた金を集め、それを溶かして金の子牛の像を造りました。
そして、「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ」と宣言したのです。
モーセが彼らの元に戻ってきたのはその時でした。
十戒を始めとする人々を導くための教えを受け取って帰ってきたモーセは愕然としました。
人々が早速偶像崇拝をして、十戒に反することをしてしまっていたからです。
モーセは怒り、神さまから授かった石の板を壊してしまいました。
そこにはどんな問題があり、何を意味し、どんな出来事に繋がっていたのでしょうか。
① なぜ金の子牛を造ったのか?
彼らはなぜ金の子牛を造ったのでしょう?
実は、子牛の像というのはいわゆるカナンではよく見られる偶像でした。
エジプトから出てきたイスラエルにとっては、目新しい神の姿だったかもしれません。
モーセがいなくなった今、あちこちで見かける子牛の像は、彼らをエジプトから導き出してこの地に導いた神だと思ってしまったのかもしれません。
32:4 彼はそれを彼らの手から受け取ると、のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にした。彼らは言った。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」
この出来事に対して、神さまは怒りを露わにしました。
モーセが返ってくる前でしたから、「偶像崇拝が禁じられていることを知りませんでした」と言うことはできたかもしれません。
でも、知らないことによって罪がなかったことにはなりません。
神さまはイスラエルを滅ぼし、モーセからもう一度イスラエルをやり直すとまで宣言したのです。
② モーセの執り成し
神の怒りを見たモーセは、その怒りをなだめ、イスラエルのためにとりなしました。
出エジプト32:11 しかしモーセは、自分の神、【主】に嘆願して言った。「【主】よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。
出エジプト32:31 そこでモーセは【主】のところに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分たちのために金の神を造ったのです。
32:32 今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」
この二つの箇所の間には、モーセが自分自身でイスラエルの姿を見て、怒りを露わにして十戒の板を砕いてしまったことまで書かれています。
それほど怒りを露わにしていましたが、モーセは自分の命をかけてイスラエルのために取りなしたのです。
イエスさまの姿を彷彿とさせるような出来事ですね。
③ 一人一人に与えられた責任
皆さんはこの話からどんなことを学んだでしょうか?
僕は、どうしてこのような出来事が起こったのだろうかということを考えさせられました。
この出来事の根底にあった問題は、
モーセ以外神さまがどのような方かを知らなかったということです。
モーセが神さまのことをちゃんと伝えてこなかったということもあるでしょうし、イスラエルの人々も知ろうとしませんでした。
モーセの兄のアロンでさえ金の子牛を造ろうと思ったほどです。
アロンは辛うじて、この子牛を「神々」とは呼ばず、「明日は【主】への祭りである。」(5節)と言っています。
子牛の偶像は神様自身ではなく神の乗り物を表すのがこの地域での習わしでもありましたから、アロンもそういう意識だったのかもしれません。
しかし、それが偶像崇拝であることに代わりはありませんでした。
リーダーはたくさんの責任を負っています。
人々を神さまの元へと導き、伝えるべきことを伝える必要もあるでしょう。
しかし、罪の報いを受けるのは最終的に自分自身だということを忘れてはなりません。
罪への裁きは「知らなかった」で済むことではないのです。
「不倫したらダメなんて誰も教えてくれなかった」という理屈は通らないのと同じです。
宗教であれば、教義や教理が必要です。
何をするべきか、してはならないかを知り、それを実行するという話になります。
でも、聖書の神さまへの信仰とは、そういうものではありません。
大切なのは教理や教義ではなく、神さまとの関係性ですから、ルールがどうという話ではなく、良い関係を築いていく必要があります。
それは、神さまを「愛する」ということですね。
私たちが律法と呼んでいるものは本来「教え」と呼ばれるべきものだという話をしましたが、だから律法は神様が求めていることを知るヒントでしかありません。
だから、「ルールはルールだ」と言って、人を見捨ててでも安息日を守るということを、イエスさまも否定したわけです。
十戒に記されている「私以外に他の神があってはならない」という律法を知っているかどうかではなく、神を愛するなら他の誰かに目移りしていたらダメだろうという話なのです。
私たちは、心から神さまを愛しているでしょうか?
愛するために必要なのは、必ずしも知識やお勉強ではありません。
相手の誕生日を知っていたらその人を愛する手段が広がるのは確かですが、誕生日を知らなくても愛することができるのと同じです。
皆さんの中に、神さまを愛する心がますます増し加えられますように。