出エジプト33:11-16(32:1-33:23) 出エジプト17『顔と顔を合わせる』2025/07/18 けんたろ

出エジプト33:11-16(32:1-33:23)
33:11 【主】は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。モーセが宿営に帰るとき、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が天幕から離れないでいた。
33:12 さて、モーセは【主】に言った。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。
33:13 今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」
33:14 主は言われた。 「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。 」
33:15 モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。
33:16 私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」

前回のところで、イスラエルは主の前にとんでもない罪を犯してしまいました。
あろうことか、金の子牛の偶像を作って、それを神々と呼んでしまったのです。
神さまの怒りが下り、イスラエルはあわや滅ぼされてしまうところでした。
しかしモーセがその間に入り、イスラエルのために執りなしました。
誰か他の人のために祈ることを「執り成しの祈り」と言いますが、この場合の執り成しは、神とイスラエルの間に入って、うまく折り合いをつけることですね。

それによって神さまは、イスラエルを滅ぼしてしまうことに関しては思いとどまりました。
そして約束の地にこのまま向かうようにと命じます。
しかし、神さまはイスラエルとは共に行かないと宣言しました。

出エジプト 33:3 乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」

そこでモーセは、会見の天幕(幕屋)で神さまと共に語らいます。

① 顔と顔を合わせる

この時モーセは、神さまとかなり近い関係になっていたことが記されています。

33:11 【主】は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。モーセが宿営に帰るとき、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が天幕から離れないでいた。

ここでモーセは何を執りなしていたかと言うと、主が再びイスラエルとともにいてくださるようにということです。
神さまの護りなしにはイスラエルは無事に約束の地に行くことも難しいし、たとえ乳の蜜が流れるという約束の地にたどり着いても、神さまが共にいない人生には意味がないからです。

33:13 今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」

これは、私たちにとっても大切なアイデンティティです。
例え私たちが豊かな地にたどり着いて裕福になり、大きな財産を手にすることができたとしても、神さまがいない人生は空しいものなのです。

② モーセの役割

この時のモーセの立ち位置は、イエスさまを表す特別な状況です。
この出来事を通して、教会にもこのようなリーダーが必要で、それは牧師だと考えるのは全くの早合点です。
そんな役割を人に任せてはいけません。

一方で、ここに記されているような「人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせる」ような関係性を、神さまは誰と持ちたいと思っていたでしょうか?
全てのイスラエルの人々とです。
そして、私たち全てのクリスチャンがこのような関係を持つことができると聖書には記されています。

イエスさまが人として地上に来てくださったというのはそういうことです。
そして聖霊が内に住んでくださっている私たちは、神さまといつでも、顔と顔を合わせる関係を持つことができるのです。

では、どうして他のイスラエルの人々は、モーセのように神さまに近づくことができなかったのでしょう?
それは、彼らの中にあった罪のゆえです。

出エジプト33:20 また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」

もちろんモーセにも罪があります。
では、どこに差があったのかと言えば、ここでもやはり関係性の違いです。
イスラエルの人々の中には罪の意識もあるので、ますます神さまの元には近づけない。
モーセに執り成してもらい、自分たちは神様と距離を置くという悪循環が起こるのです。

③ 大胆に神に近づく

私たちはどうでしょう?
このような悪循環が起こっていませんか?
もちろん、自分が罪を犯した、自分は完璧な人間ではなく、間違ったこともしてしまう人間だという認識は必要です。
それでは、自分が神になってしまい、神さまを求めるということもなくなることでしょう。
でも、罪の意識が留まったままでも、神さまに近づくことができなくなるのです。
ではどうすればいいのでしょう?
それは、イエスさまの十字架によって私たちと神さまの間を隔てている罪は赦されたのだということを思い出すことです。

罪の赦しを受け取ったなら、私たちの罪はすでに贖われています。
私たちは大胆に神さまに近づくことができるのです。

黙示録 3:20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

主は、私たちと親しい関係を築きたいと願っておられます。
罪の赦しを受け取り、受け取ったなら神さまを信頼してのその胸に飛び込みましょう。
主は私たちの友となってくださったのですから。

ヨハネ 15:15 わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。