ルカ23:32-49 『ルカ103 十字架によって180度変えられた人生』 2017/04/09 小西孝蔵

ルカ23:32~49 
ルカ 23:32 さて、イエスと共に刑を受けるために、ほかにふたりの犯罪人も引かれていった。
23:33 されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。
23:34 そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。
23:35 民衆は立って見ていた。役人たちもあざ笑って言った、「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」。
23:36 兵卒どももイエスをののしり、近寄ってきて酢いぶどう酒をさし出して言った、
23:37 「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」。
23:38 イエスの上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札がかけてあった。

23:39 十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。
23:40 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。
23:41 おまえは自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
23:42 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
23:43 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

23:44 時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。
23:45 そして聖所の幕がまん中から裂けた。
23:46 そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。
23:47 百卒長はこの有様を見て、神をあがめ、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った。
23:48 この光景を見に集まってきた群衆も、これらの出来事を見て、みな胸を打ちながら帰って行った。
23:49 すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、これらのことを見ていた。 」

1.初めに

「桜散る残る桜も散る桜」(良寛の辞世の句)
サラリーマンにとって、職場の同期が早く辞めていくのを慰める時に用いられることが多い。日本人の諦めの境地、死生観の一面を現している歌でもある。
イエスの十字架と復活に体現されている聖書の死生観とは好対照。
今週は、いよいよ、イースター前の受難週ですね。
キリスト受難について、1か月ほど前、メッセージにチャレンジしてみよかとふと思い浮かんだものの、本日の聖書箇所は大変厳粛で重たい内容だし、とても一回でカバーできないほど長い箇所なので、一旦諦めました。その後、焦点を十字架上のイエスの御言葉に焦点を当てて取り上げてみてはどうかと考え直して、健太郎先生にご相談したところ、チャレンジしてみてはと背中を押していただいた。
従って、先週のメッセージ箇所から、ユダの裏切り、ペテロの3度の否認、議会での尋問、ヘロデと総督ピラトの尋問と十字架刑の判決の部分までは、一気に読んだものとして、場面をいきなり十字架に向かうところから始めたいと思います。また、ルカの記事だけでなく、他の福音書の並行箇所も合わせてみていきたいと思います。
ところで、10年ほど前に世界中で上演されたハリウッド映画の「パッション」をご覧になりましたか? もし、まだの方は、レンタルビデオで是非ご覧いただければ、と思います。ただ、映像は強烈で、何度も目を覆いたくなるような場面があり、未成年者には見ない方がいいかも。この映画を見れば、言葉で表現できないイエス様の苦しみ、痛みがわかるような気がする。

2.十字架に至る道

ヨハネ19(1)~(2)
「そこでピラトは、イエスを捕え、むちで打たせた。兵卒たちは、いばらで冠をあんで、イエスの頭にかぶらせ、紫の上着を着せ、それから、その前に進み出て、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。そして平手でイエスを打ちつづけた。」

十字架刑に処せられる前、ピラトの下でむち打ちの刑を受けられました。
ユダヤのむち打ちと違って、ローマのむち打ちは、先に釘や、ガラスの破片が組み込まれていて、当たると血や肉片が飛び出るようになる。また、ローマ兵は、イエスに頭にとげが突き刺さるいばらの冠をイエスにかぶらせ、平手でイエスを殴り続けた。
イエスは、70キロにも及ぶ重い十字架を担がされて、ゴルゴダ、即ち、「されこーべ」(どくろ)と呼ばれる丘まで坂を上らされました。イエスは、全身血だらけで、脱水症状になり、体力も消耗してふらふらになり、通りがかったクレネ人シモンに担わせられた。

ルカ 23:26 「彼らがイエスをひいてゆく途中、いなかから出てきたシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせて、イエスのうしろから運ばせた。」

ゴルゴダの丘に至る道は、のちに、整備し直され、ラテン語でヴィア・ドロロサ(苦難の道、または、悲しみの道)と呼ばれる坂になっている。余談ですが、20数年前、イギリス勤務の際、家族を連れてイスラエルを旅行した際、湧を背中に負ぶってこの坂を上ったが、その時の湧は、2歳、10キログラムぐらいで、むち打ち刑で死にそうになられたイエスが担われた十字架の重さは、全く比べ物にならない。

イザヤ53(4)~(7)
「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、
われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。」

このイザヤの予言は、受難の僕イエスが神様から与えれた人類全体の罪を贖われる姿をリアルに描いています。「ほふり場にひかれゆく子羊」とは、まさに、過越しの祭りの日にほふられる子羊であり、イエスが十字架につけられた時刻は、丁度子羊がほふられるのと同じ時刻、即ち、午前9時頃でありました。

3.十字架上のイエスの言葉

十字架上のイエスの御言葉は全部で7つあります。ハイドンのオラトリオ(管弦楽曲)に「十字架上の7つの言葉」という約1時間の曲があり、その演奏会に聞きに行ったことがあります。7つそれぞれに深い意味があるのですが、本日は、ルカが取り上げた3つの言葉と他の福音書にある2つの言葉を加えて、5つの御言葉について、学んでみたいと思います。

①一つ目の御言葉。

ルカ23:34 「そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからないのです」」

イエスは、自分を痛めつけ、侮辱しながら死刑を執行しているローマ兵にために、また、自分を十字架にかけろと要求したユダヤ人のために、そして、イエスを捨てて逃げ去った弱い弟子たちのために、とりなしの祈りをされた。それは、敵を赦せない、人と和解できないでいる私たち一人ひとりに向けられた言葉でもありますが、このことは、後でもう一度触れます。

②二つ目の御言葉。

23:43 「イエスは言われた、「まことに、あなたがたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」。」

十字架に一緒につけられて二人の犯罪人のうち、一人がイエスを侮辱したが、もうひとりは、神を恐れる気持ちから、イエスに何の罪もないことをもう一人の犯罪人に言い聞かせ、イエスがもう一度来られるときには、私を思い出してほしいとイエスに懇願する。その時、イエスは、この瞬間にイエスとともに神の国にいることを宣言された。
このことは、罪や苦しみの中にあえいでいる私たちにとって、どんなに慰めになる言葉でしょう。今日、この地上で、この瞬間にイエス様が共におられ、すべての罪や苦しみから解放してくださるのです。

③三つ目の御言葉。

マタイ27(46)「そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」

これは、詩篇22編のダビデの詩の引用です。この詩を読めばわかるのですが、この言葉は、神様に助けを求めておられるイエスのお言葉であると同時に、神に対する信頼を決して忘れてはいません。死の苦しみにあえいでおられる悲痛な叫びであると同時に、イエスは、父なる神様との密接な信頼関係を最後まで持ち続けられました。

④四つ目の御言葉。

ルカ23:46 「そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」」

これも、詩篇31(5)「 わたしは、わが魂をみ手にゆだねます。主、まことの神よ、あなたはわたしをあがなわれました。」というダビデの詩の引用です。天の父なる神様に、すべてを委ねて、最期を遂げられたイエスの言葉です。この「あなたはわたしをあがなわれました。」の言葉が次のイエスの言葉につながっています。

⑤五つ目の言葉。

ヨハネ19(30)「すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。」

この言葉は、英語で”It is finished.”ですが、ギリシャ語で、「テテレスタイ」、「対価は支払われた」という意味です。私たちの罪の負債(借金)が完済された、贖われた、即ち、私たちが、罪の奴隷状態から解放され、霊的に自由になったという意味です。
以上、十字架上の五つの御言葉を紹介いたしましたが、残りの二つは、ヨハネ福音書19章26~28節にありますので、時間の都合上、後ほどご覧ください。

4.十字架によって180度変えられた人生

十字架のイエスの言葉とその贖いの死によって、人類の救済が始まりました。英語で“conversion”(回心)と言いますが、180度人生の方向転換をすることです。
イエスの十字架の場面に登場する様々な人々がいますが、ここでは、イエスの十字架によって変えられた人々のうちに、クレネ人シモンとアリマタヤのヨセフがいました。
まず、イエスの十字架をたまたま通りすがりで負わされた、北アフリカ出身のクレネ人シモンは、十字架上のイエスをみて、イエスをメシアであると信じ、その後、一家は信者になって教会の重要なメンバーになったといわれています。
また、本日の朗読箇所の続き、ルカ23(50)~(53)に登場するアリマタヤのヨセフは、議員で金持ちでありましたが、神の国を待ち望んでいた。彼は、イエスの死の直後、自分の身に降りかかる不利益を顧みず、イエスの遺体を引き取って自分の墓に葬ろうと勇敢にピラトに申し出て、許されました。彼は、のちに、キリストを信じ、英国に伝道に行ったと伝えられています。

現代の私たちに身近な方で、キリストの十字架上の言葉で人生が180度変えられた人を一人ご紹介しましょう。
我々の教会の母体となったOMFは、戦前はCIM(China Inland Mission)といって、中国伝道を目的とする英国の宣教団体でした。両親がその宣教師として中国に派遣された14才の少年スティーブン・メトカフさんは、太平洋戦争中、日本軍の捕虜となり、収容所で、ある人物に出会います。映画「炎のランナー」の主人公として描かれたオリンピックのゴールドメダリスト、エリック・リデルです。日本兵が中国人を虐殺していたことを聞かされ、日本兵に憎しみに燃えていたメトカフさんは、リデルさんから、「汝の敵を愛せよ」というイエスの言葉を引用しながら「君の姿勢が変わる」と聞かされます。リデルさんは、その後、メトカフさんに自分の大切なランニングシューズを譲って獄死してしまいます。メトカフさんは、聖書を読み進む中、ルカ23(34)の「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」という言葉に触れ、リデルさんが生前「君の姿勢が変わる」と言っていた聖書のことばがこれだったのかと悟ったのです。そして、日本兵のために自分も祈り、もし、収容所から出られるのであれば、日本に行って伝道したいと決心するのです。
終戦になって収容所から解放されたメトカフさんは、その後来日し、宣教師として青森を中心に伝道するようになりました。私は、2005年の5月、今から12年前にある教会で家内と一緒に先生にお会いする機会がありました。 その時、「闇に輝くともしびを継いで」(”Take the torch shining in the dark”)というこの本を買い求め、先生からサインもいただきました。メトカフ先生は2年ほど前に英国で亡くなられたというお話を聞きました。戦争中、収容所の中で先生の心を支配していたどうしようもない憎しみの情がイエスの十字架によって敵をも愛する気持ちに190度変えられたのです。

5.十字架を負ってイエスに従う

私たちは、イエス様の十字架によって、罪という大きな負債を十字架の贖いによって免除していただき、罪の奴隷状態から自由な身分に解放されたのです。イエスによって悪霊から解放されたマグダラのマリアは、イエスの十字架の最期の死まで寄り添いました。彼女は、その後復活の主にまみえることが出来たのです。
私たちの罪の重荷は、すべてイエス様がご自分の十字架によって、帳消しにして取り除いてくださった。私たちも、イエス様によってその罪と苦しみの重荷を取り除いていただいたその限りない恵みに感謝して、イエスに従っていくことを主は願っておられます。
私たちも、それぞれ背負うべき十字架が与えられています。クレネ人シモンのように、自分の意思に反して十字架を背負わされることもあります。それは、私たち各人に神様から与えられたミッションと言ってもいいと思います。私たちは、本来的に弱い存在です。自分の力では、この十字架を担うことは困難です。しかし、イエス様が共に担いでくださるとき、その荷は負いやすく軽くなるのです。

ルカ9(23)~(25)
「 それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思う
なら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 9:24 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。 9:25 人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。」

このイエスの言葉は、弟子たちに向けられた受難と復活の予言とともに語られた御言葉であります。イエスの十字架を見上げて、溢れる恵みに感謝しつつ、復活され、私たちと共に居られるイエス様に従っていこうではありませんか。
(祈り)(終了)

聖書引用箇所

ヨハネ19(1)~(2)
「そこでピラトは、イエスを捕え、むちで打たせた。兵卒たちは、いばらで冠をあんで、イエスの頭にかぶらせ、紫の上着を着せ、それから、その前に進み出て、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。そして平手でイエスを打ちつづけた。」

ルカ 23:26
「彼らがイエスをひいてゆく途中、シモンというクレネ人が郊外から出てきたのを捕えて十字架を負わせ、それをになってイエスのあとから行かせた。」

イザヤ53(4)~(7)
「 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、
われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。」

マタイ27(46)
「 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタ
ニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」

詩篇31(5)
「わたしは、わが魂をみ手にゆだねます。主、まことの神よ、あなたはわたしをあがなわれました。」

ヨハネ19(30)
「すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首を
たれて息をひきとられた。」

ルカ23(50)~(53)
「 ここに、ヨセフという議員がいたが、善良で正しい人であった。 23:51 この人はユダヤの町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた。彼は議会の議決や行動には賛成していなかった。23:51 この人はユダヤの町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた。彼は議会の議決や行動には賛成していなかった。 23:52 この人がピラトのところへ行って、イエスのからだの引取り方を願い出て、23:53 それを取りおろして亜麻布に包み、まだだれも葬ったことのない、岩を掘って造った墓に納めた。」

ルカ9(23)~(25)
「それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 9:24 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。 9:25 人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。

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