ルカ20:45-21:4 『ルカ98 心からの捧げもの』 2017/03/05 松田健太郎牧師

ルカの福音書20:45~21:4
20:45 また、民衆がみな耳を傾けているときに、イエスは弟子たちにこう言われた。
20:46 「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。
20:47 また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」
21:1 さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。
21:2 また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。
21:3 それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。
21:4 みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」

先週から暦上はレント(受難節)に入りましたね。
レントというのは、イエス様が復活したイースターに向かうまでの40日間の事です。
イースターへの秒読み段階と言っていいかもしれませんね。

イエス様は、私たちの罪を贖うために十字架にかかって下さり、その日から3日目に蘇りました。
それが一番の目的であり、それが地上に来た目的と言っても過言ではないかもしれません。
しかし地上にいる間イエス様がした事は、ただ十字架にかかっただけではありません。
生きている間には私達ともに過ごして下さり、私たちが人としてどのように生きるべきかという事をたくさん教えてくれました。

今日の個所で語られている事も、私たちがクリスチャンとして生きていく上でとても大切な事です。
もうすぐこの世を去るという時に教えてくれている事ですから、遺言にも近い言葉です。
大切に決まっていますよね。
しかしこの個所は、意外と読み飛ばしてしまったり、間違った受け止め方をしてしまいがちな所です。
イエス様は私たちに、何を教えて下さっているのでしょうか?

① 律法学者たちに気をつけなさい
イエス様は、このように言っています。

20:46a 「律法学者たちには気をつけなさい。

イエス様は、律法学者やパリサイ派のユダヤ教徒たちの事について、「気をつけなさい」という事を、これまでもたくさん話してこられました。
では、「気をつけなさい」というのは、どういう事なのでしょうか?
「あいつらは信用できないから、気を付けろ」ということでしょうか?
この部分だけを見ているとそんな風に聞こえなくもないですが、そうではありません。
イエス様が本当に伝えたかったのは、「あなたたちは、律法学者たちのようにならないように気をつけなさい。」という事なのです。

パリサイ派や律法学者たちと言えば、当時信仰のエリートとされていた人たちでした。
普通なら、「彼らを見習いなさい」と言ってもおかしくはないところなのに、逆に「彼らみたいにならないように気をつけなさい」と言うのは、どういう事なのでしょうか?
それは、彼らのふるまいの中に問題があったからです。
さっきの聖書個所の続きを見てみましょう。

20:46 「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。
20:47 また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」

ここで言われている『長い服』というのは、律法学者であることを表すローブのような服です。
彼らは、自分が律法学者であることを見せびらかすために、いつでもこのような格好をして歩いていたのです。
彼らは「先生」と呼ばれて、あいさつされることが大好きでした。
そしてどんな場所でも上席に座り、自分が他の人たちよりも特別な存在だという事をアピールしたがったのです。
まるで牧師みたいですね?(笑)

律法学者たちはさらに、社会的に弱い立場にあるやもめ(未亡人)達を保護する名目で、夫が残した財産を巻き上げていました。
そのようにして、多くのやもめたちがさらに苦しい立場に立たされていたのです。

それでいて、彼らは祈りの時間ばかりはやたらと長く祈りました。
彼らは祈るためにわざわざ目立つところに行き、周りの人々に聞こえるような大声で祈って、自分がいかに信仰深く思慮深いかという事を人々にアピールしていたのです。

私たちは何に気を付ける必要があるでしょうか?
それは、律法学者たちのように表面的に信仰深いかのように振る舞って、それを誇るという見せかけの信仰です。
私達もまた、彼らのように聖書の知識を誇ったり、どれだけ長く祈り、どれだけ信仰深いかという事を誇ってしまいがちです。
しかし、神様が私たちに求めているのは、このような表面的に信仰深くなることではありません。
大切なのは、私たちが神様とどれだけ深い関係を築いていくかであり、どれだけ神様の価値観で生きていく事ができるかという事なのです。

② やもめの信仰
次にイエス様は、神殿で献金をしている人たちに目を留めました。

21:1 さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。
21:2 また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。
21:3 それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。
21:4 みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」

イエス様は、お金持ちがお金を、これ見よがしに投げ入れているのを見ました。
そこには大金が捧げられていた事でしょう。
そうして、「自分はこんなにたくさんの献金をしているぞ」という事を、周りの人々にアピールしていたのです。

しかしそうやってお金持ちたちがたくさんの献金をする中で、やもめがレプタ銅貨をふたつ投げ入れたのをイエス様は見ました。
レプタ銅貨というと、当時一番小さな貨幣の単位です。
多くの人たちが大金を投げ入れてそれを誇っている中で、こんな小さな金額を投げ入れるのは、ある意味恥ずかしい事だったかもしれません。
でも、イエス様は他の人たちには知る由もない事を見抜いていました。
それは、やもめが捧げた金額はとても少ないものではあったけれど、彼女が捧げたのはその日の生活費だったという事です。

さて、皆さんはここからどのようなメッセージを受け止めましたか?
実はこの個所、“献金”を捧げるという事だけに焦点が当てられてしまいがちの部分です。
ある教会ではこの聖書個所が引用されて、「だからわたしたちもこのやもめのように、生活費もすべて捧げましょう」なんて話されるのかもしれませんね。
でも、そこがポイントなのではありません。
もしも私たちがそのように言われてたくさん献金したらどうなりますか?
それでは、表面的に取り繕って信仰深いふりをしている律法学者たちと何も変わらなくなってしまいます。
この話で大切なのは前の章からの続きで、表面的に見える事ではなく、中身が大切なのだという事なのです。

このやもめが素晴らしかったのは、どれだけの量を捧げたかという事でなければ、どれだけの割合を捧げたのかという事でもありません。
たくさんの人たちが見栄を張って高額の献金を捧げる中で、彼女は自信をもって自分が持っているものを捧げたという事です。

私たちはつい、他の人たちと自分を比べてしまい、そこに劣等感を持ってしまいがちです。
でも聖書にはこのように書かれています。

『人はうわべを見るが、【主】は心を見る。(Iサムエル 16:7)』

神様にとって大切なのは、私たちが何をするかという事以上に、どのような心であるかという事です。
私たちが神様に、心から何かを捧げるなら、神様はそれを喜んで下さるのです。
こどもたちが描いた絵は、芸術的な価値は少ないかもしれません。
しかしそれが一生懸命に描いた絵なら、お父さんが喜ばないはずがないではありませんか。

他の人はどう思うか、どう見られるかを気にする必要はありません。
私たちは自分にできる最善を、心からの喜びをもって捧げればいいのです。
それこそが、神様への最高の捧げものになるのですから。

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