ルカ15:11-24 『ルカ75 放蕩息子』 2016/09/18 松田健太郎牧師

https://youtu.be/iIl_vUl0gUI

ルカの福音書15:11~24
15:11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
15:12 弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
15:13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
15:14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
15:15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
15:16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
15:21 息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。

1週間空いてしまいましたが、イエス様のたとえ話シリーズの続きです。
イエス様が罪びとたちと食事をともにするのを見たパリサイ派の人々は、イエス様が汚れた人々と共にいるのを見て、嘲笑いました。
それに対して、イエス様は3つのたとえ話をしたのでしたね。
ひとつ目は、99匹の羊を置いて、迷子になった一匹の羊を羊飼いが探す話。
ふたつ目は、10枚1セットのコインのひとつがなくなり、見つけるという話。
そしてみっつ目が、今日と来週の2週にかけてお話しするこの失われた二人の息子のたとえ話で、これまでの総まとめです。

この話には、3人の人物が登場します。
父、兄、弟の3人です。
今日は弟の方にフォーカスを定めた前編ですね。
イエス様はこの話を通してどんなことを伝えようとして下さっているのでしょうか?

① 財産の分け前を下さい
さて、この話は弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』という所から始まります。
これは、ユダヤ人たちにとってはちょっとショッキングな要求なんです。
財産の分与というものは、本来父親が亡くなった後にされるものだからです。
この弟の要求は、言ってみれば父親に「死んでくれ」と言っているようなものでした。
弟が父親に持っていた関心は、父親が持っていた豊かな財産だけで、父親自身には興味がないという状態だったのです。

家族も、父親もどうでもいい。
「自分が受けるべき財産だけ受け取って、こんな家からは出ていきたい。」と、弟は考えていたのです。
こんな失礼でぶしつけな事は、当時のユダヤ社会にあってはならない事でした。

この話を聞いていた人々の心の内には、弟に対する怒りも湧き出たことでしょう。
「父親を何だと思っているのか! こういう輩は懲らしめてやる必要がある。」
しかし、父親は驚くべき行動に出ます。
財産を、あっさり分けてやったのです。

ここで“身代”と訳されている言葉が、父親のこの行動の重要性を表しています。
財産を表す言葉には他にもいろいろありますが、イエス様は「いのち」を表すこの“身代”という言葉を、意図的に使っているのです。
父親が、自らの命を分け与えるように息子たちを愛する思いが伝わってきます。
しかし、そんな父親を顧みることなく、弟は家を出て遠い国へと旅立っていきました。
そして弟息子は、父親の財産を湯水のように使って、すべてを使い果たしてしまったのです。

さて、このたとえ話の中で、父親は神様、弟は私たち罪人を表しています。
私たちも、神様に対してこのような事をしてしまってはいないかという事を、考える必要があるのではないでしょうか?
神様は私たちの天のお父さんです。
そして、私たちの天のお父さんは、私たちと愛の関係を築くことを求めています。
ところが私たちは、神様との関係になんて興味なく、神様からの財産、祝福だけに興味があるのです。
そして、神様を祝福の自動販売機のように扱い、欲しいものを引き出したらサッサと離れてしまいます。

クリスチャンの中ですら、神様との関係よりも自分が受ける祝福ばかり考えている人たちがたくさんいるのを、私たちは目にします。
神様は優しい方ですから、それでも私たちを愛し、祝福を与えて下さるという事があるかもしれません。
でも、私たちが神様から離れてしまうなら、その先に待っているのは、結局この放蕩息子と同じ状況です。
私たちは失敗し、傷つき、苦しみ、最後にはすべてを失ってしまう事になるでしょう。
それが、神様から離れて自分の道を歩もうとした時に起こる結果なのです。

② 立ち返る時
折しも、その国には大飢饉が起こり、彼は食べるにも困るようになってしまいました。
ここから、彼の転落は歯止めなく押し寄せて、奈落の底まで落ちていきます。
その国にいた知り合いを当てにして尋ねてみたものの、彼はそこでこき使われ、豚の世話をさせられることになります。
豚と言うのは、ユダヤ人にとっては汚れた動物であって、できれば近くにいたくもないような生き物です。
そんな豚の世話をしながら、それでも十分な食事にありつけず、ついには豚のえさにまで手を出して、何とか生き延びるしかないという状況に、彼は陥ってしまいました。

多くの方たちの証の中で、このような話を聞きます。
ある人はお金を失い、ある人は病気になり、ある人はウツになり、ある人は警察に捕まり、様々な絶望的な状況に陥るのです。
もしかすると皆さんの中にも、このような奈落の底の体験をした事があるかたがいらっしゃるかもしれません。
そして多くの人たちが、このような奈落の底で、イエス様と出会うのです。

弟もまたこのような絶望的な状況の中で、今まで忘れていた父の存在を思い出しました。
あんなにわずらわしくて、あんなに出たいと思っていた我が家に、今は帰りたい。
そしてあの懐かしい我が家、暖かい家、暖かい食事がどれだけ素晴らしく、得難いものだったかというに気づいたのです。
でも、どんな顔をして帰る事ができるだろうか?
しかしそれでも弟は、ついに心を決めます。

15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
弟は、長い故郷への道のりを歩み始めました。

③ 放蕩息子を迎える父の愛
帰り道の間、弟はいろんなことを考えたことと思います。
怖気づいて、何度も 「やっぱり今さら帰れない」と思ったかもしれません。
やがて町に戻って来ると、顔見知りの人たちとすれ違い、囁かれる事もあったでしょう。

すっかりやせ衰え、風呂も入れないから汚いし臭い。
髪もひげも伸び放題で、着のみ着のままの服は薄汚れてボロボロ。
こんな姿では、お父さんに自分だと気づいてさえもらえないのではないか?
気づいたとして、受け入れてもらえるはずがないではないか?
そう思っていた矢先、遠くから駆け寄って来る人の姿を、彼は見つけるのです。
それは、お父さんでした。
父は、息子が今日帰って来るなんて知るはずもありません。
変わり果てたその姿では、気づかなかったとしても不思議はない。
でもお父さんは、息子がまだ気づいていない内に、変わり果ててしまったその姿を見つけました。
きっと、「今日こそ帰って来るのではないか」と毎日探し、待ち続けたのでしょうね。
そして遠くから駆け寄り、汚い、臭い彼を抱き寄せると、愛おしい息子に口づけをして迎えたのです。

息子は突然の事に驚き、戸惑いながらも、ここに来るまで何度も繰り返し練習してきた、あの言葉を思い出します。
『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
しかし父は、息子が「雇人の一人にしてください」という言葉を口に出す隙も与えず、ようやく追いついたしもべたちに命じました。
『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』(ルカ15:22~24)

これが、父の愛、神様の愛ですね。
神様は、失われていた人々が戻った時、このように喜ばれると、イエス様は言っているのです。

3つのたとえ話は同じテーマでしたが、この話にだけ描かれている事があります。
それは、この話には悔い改めが描かれているという事です。
パリサイ派の人たちにあざけられていた羊飼いたちや遊女、そして取税人たち。
彼らは神様から愛されていましたしが、そのままでよかったわけではありません。

このたとえ話の中で、もしも息子が放蕩したままだったら、父親との愛の再会、関係の回復はありませんでした。
「なんだかんだ言って愛されているからいいんだよ~」ではダメなんだという事がわかりますね。
そして重要なのは、私たちが神様のもとに戻るという事が大切だという事です。
私たちの感覚だと、罪と言うのは償わなければならないように感じてしまいます。
放蕩息子は父のもとに帰るなんて甘い事を言っているのではなくて、返らずに頑張って借金を返済し、倍の額にして返すことが美徳とされてしまったりするのです。
しかし、私たちが罪をつぐないによって返済する事は絶対にできませんし、神様が求めているのはそんな事ではありません。
ただ私たちが、父のもとに戻って来ることを、神様は求めておられるのです。
私たちがどれだけ頑張って働いたとしても、私たちが神様のもとに帰るのでなければ、神様にとっては意味がありません。
私たちも、神様のもとに帰りましょう。
お父さんは、今か今かと、私たちの帰りを待っているのですから。

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