ルカ14:1-11 『ルカ70 自分を低くする』 2016/07/31 松田健太郎牧師

ルカの福音書14:1~11
14:1 ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家に入られたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。
14:2 そこには、イエスの真っ正面に、水腫をわずらっている人がいた。
14:3 イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか」と言われた。
14:4 しかし、彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いていやし、帰された。
14:5 それから、彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」
14:6 彼らは答えることができなかった。
14:7 招かれた人々が上座を選んでいる様子に気づいておられたイエスは、彼らにたとえを話された。
14:8 「婚礼の披露宴に招かれたときには、上座にすわってはいけません。あなたより身分の高い人が、招かれているかもしれないし、
14:9 あなたやその人を招いた人が来て、『この人に席を譲ってください』とあなたに言うなら、そのときあなたは恥をかいて、末席に着かなければならないでしょう。
14:10 招かれるようなことがあって、行ったなら、末席に着きなさい。そうしたら、あなたを招いた人が来て、『どうぞもっと上席にお進みください』と言うでしょう。そのときは、満座の中で面目を施すことになります。
14:11 なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

皆さんは、宴会の席ではまずどこに座ろうとしますか?
日本の文化には、上座と下座という概念があります。
そして、私たちが宴会に招かれた時、ここでイエス様が言っているように上座に座るのではなく、下座の方に座ろうとするのではないでしょうか?

この話を聞いて、皆さんは「あ、自分はイエス様が教えているようにできているなぁ」と思ったかもしれません。
でも、少し待ってください。
イエス様は本当に、招かれた時は上座ではなくて下座に座りなさいと言う礼儀作法の話をしているのでしょうか?

イエス様が言っている事はなんとなくわかる。
でも、何となくわかる事と、イエス様が本当に伝えたい事との間には大きなギャップがあったりするものです。
また、それがわかるという事と、そのように生きる事とはもっと大きな差があります。
イエス様は、今日のこの個所からいったい何を伝えようとしているのでしょうか?
一緒に考えてみましょう。

① 上座と下座のたとえ
さて、今日の話が、宴会で招かれた時の礼儀作法の話ではないとしたら、イエス様は何を伝えようとしているのでしょうか?
イエス様は、自分が謙遜であるためのたとえ話として、この話をしているのです。

謙遜になるという事は、すごく難しい事で、私たちはなかなか謙遜になる事ができません。
謙遜になろうとすればする程、高慢になってしまいます。
ようやく謙遜に成れたと思った時でも、その瞬間から謙遜である自分に酔って、たちまち私たちは高慢になってしまうのです。

私たちが食事に招かれた時、まず末席に座ろうとするのはなぜなのか考えてみて下さい。
それは遠慮からであったり、恥をかかないためかもしれません。
あるいは、「食事に招かれた時にはまず末席に座りましょう」という礼儀作法を守るためだったりします。
多くも場合、私たちは表面的に謙遜であるように見せようとしているだけなのであって、本心から謙遜になっているわけではないのです。

それを証拠に、私たちは自分が末席に座っている事に気づかれなかったり、それが当たり前のような態度をとられると、途端に傷ついたり、腹を立てたりするのではありませんか?
なぜ傷ついたり腹を立てたりするのでしょう?
それは、自分がもっと上席に座るべきだと心の中で思っていたり、本当は良い扱いを受けるべきだと思っているからです。

私たちは勘違いしている事が多いのですが、謙遜であるという事は、本当は高い人間なのに、低い人間であるかのように見せかけ、振る舞う事・・・ではありません。
日本語ではそのように使ったりもしますし、礼儀作法としては全然間違いではないのです。
しかし、見方を変えればそれは単なる偽善であって、聖書の言う謙遜ではありません。

② 謙遜であること
それでは、謙遜とはどのような事を言うのでしょうか?
私たちに求められている謙遜とは、低く見せかける事ではなく、自分が本当は低い人間なのだという事を認めて、自覚するという事です。

本当は高いのに低いふりをしなさいと言われているのではなく、本当に低いのです。
本当は賢いのに、頭が悪いふりをしていなさいと言うのではなく、本当にバカなのです。
本当は清く正しいのに、みんなに気を使って罪深い人間であるようにふるまいましょうと言われているのではなく、本当にどうしようもない罪びとなのです。

しかもそれは、「私たちはこんな存在なんだからしょうがないよね」と言えるようなものではなく、神様が素晴らしいものとして創って下さったのに、私たちがそれを台無しにしてしまったのです。
自分は低く、どうしようもない存在だというのは、事実そのものです。

さてそういう話をすると、逆の極端に考える人も出てきます。
自分の事を必要以上に悪く、能力もないと自己判断して、自分の愚かさを嘆いて落ち込んでしまうのです。
そういう人たちは、「どうせ私なんて…」と言う事が謙遜になる事だと勘違いをしている人たちです。
実はこれも、自分が低いふりをする事が謙遜だと思い込んでいる人たちと同じくらい、多い勘違いなのです。

でも考えてみればすぐにわかる事ですが、そんな価値観は、美徳でも何でもありませんよね。
「私なんて…」という価値観は、謙遜ではなく自己卑下です。
これはどういう心理状態から起こっているかと言うと、実は理想通りの自分に届かない事に落ち込んでいるだけであって、プライドの裏返しでしかありません。
高慢の隠れ蓑も、自己卑下も、根っこにあるのは、実は同じ価値観なのです。

何ができるかとか、才能、能力の上に自分を見出そうとする限り、私たちはいつも高慢と自己卑下のどちらかを行き来する事になります。
上手く行けば高慢になり、失敗すると落ち込んで自己卑下になるというわけです。

しかし、私たちが本当に謙遜になるという事は、自分の行いや行動に価値があるのではなく、神様に価値を見出すという事です。
私たちが何かをやったから、何ができるから価値のある存在なのではなく、神様が価値ある者として下さっているから価値があるのです。
その価値は、私たちのコンディションや状況によって変わる事はありません。
私たちが、ありのままの自分の低さを認めて謙遜になるというのは、こういう事なのです。

③ 低くするものは、神様が高くされる
さて、改めてイエス様のたとえ話を考えてみましょう。
上座ではなく末席に座るというのは、どういう事でしょうか?
それは、私たちがいつも人からの好い評価を期待するのを止めましょうという事です。

私たちは、つい人からの評価を求めてしまいます。
褒められ、おだてられ、特別扱いで上座に座っていい気分でいたい。
それが、私たちの本音かもしれません。
でもそのために、私たちは余計な所でストレスを溜め、神様や家族、大切な人たちとの時間を犠牲にし、自分らしく生きる事さえままならなくなってしまいます。

でも、そんな人からの評価を期待しなくても、神様が見ていて下さるではありませんか。
イエス様はこのように言っています。

14:11 なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

私たちが自分を低くする時、私たちを高くして下さるのは、天のお父様です。
たとえ、人からは良い評価は得られなかったとしても、いや酷い評価を受けたとしても、神様の御心を第一に求めていく必要があるはずです。
私たちは宴の席で末席に座っても、神様が私たちを高くし、誉を与えて下さるのです。

さて、謙遜になるとは、ありのままの自分を受け入れるという事でした。
私たちが謙遜になってありのままの自分を認め、次に人からの評価を放棄し、神様の導きに従って評価をすべて神様に委ねるなら、私たちは少しずつ神様の御心に沿った生き方をするようになっていきます。
やがてそれが、私たちをキリストの似姿へと、成長させていく事になるのです。

結果的にはそれが、私たちの人生をどれほど豊かなものとしていく事でしょう?
そんな生き方をしてみたいと思いませんか?
祈りましょう。

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