ルカ13:31-35 『ルカ69 今日も明日も次の日も』 2016/07/24 松田健太郎牧

ルカの福音書13:31~35
13:31 ちょうどそのとき、何人かのパリサイ人が近寄って来て、イエスに言った。「ここから出てほかの所へ行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうと思っています。」
13:32 イエスは言われた。「行って、あの狐にこう言いなさい。『よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人をいやし、三日目に全うされます。
13:33 だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。』
13:34 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。
13:35 見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。わたしはあなたがたに言います。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません。」

『ちょうどその時』という言葉から、今日の聖書個所は始まっています。
これはいつの事なのかというと、先週お話ししていた『狭き門』の話をしていた時の事です。
そこにパリサイ派のユダヤ教徒とたちがやってきて、このように言いました。
「ここから出てほかの所へ行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうと思っています。」

こういう風に読んでいると、何となくパリサイ派の人たちがイエス様を助けるために、逃げるようにと教えてくれたようにも聞こえますが、そういう事ではないようです。
要するに、「ここから出ていけ」という事が言いたいわけです。

彼らはイエス様の影響を恐れていました。
イエス様の伝える福音が広がっていくにつれ、彼らの人気は衰えていったからです。

① 今日も明日も
それに対してイエス様が返した言葉は、少し意味が分かりにくい部分がありますね。
解説を交えながら、一緒に読み解いていきましょう。
まずイエス様は、このように言っています。

13:32 イエスは言われた。「行って、あの狐にこう言いなさい。『よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人をいやし、三日目に全うされます。

ヘロデ王を指して言っている“狐”という言葉は、あまりよくない言い回しだという事が日本人の私達にもわかりますね。
ユダヤ人たちにとっても、“狐”というのは、ずるがしこくて残忍な動物として知られていました。
ヘロデ王に対してこういう言い方をする事は、それだけでも命を狙われ兼ねないできごとです。

イエス様は続けて言います。
「今日と、明日とは、悪霊ども追い出し、病人をいやし・・」ここまではわかりますね。
イエス様がこれまでこの町で行ってきたことです。
しかしその後、「三日目に全うされます。」というのはどういう意味でしょうか?
これは、3日でこの町での働きが終わるという意味にもとる事ができます。
でもたぶん、この言葉にはそれ以上の意味が込められているのではないでしょうか。
つまりそれは、やがてイエス様がその働きを全うし、終える時が来る。
それは、イエス様が十字架にかけられ、死ぬ時です。

もちろんこれは、イエス様が三日後十字架にかけられるという事ではありません。
ユダヤ人の文化では、数字は特別な意味があります。
ここで言われている「三日目」は、完全数からくる観念的な日数なのであって、実際の日数を表しているわけではないのです。

② そして次の日も
イエス様はこう続けています。

13:33 だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。』

イエス様は、自分がエルサレムで死ぬことになると知っていました。
そして、十字架にかけられて死ぬその時までは、決して死なない事も知っていたのです。
今はまだ、その働きを終える時ではありません。
きょうも、あすも、次の日も、イエス様は先に進み、福音を述べ伝えなければならないのです。

私たちの人生にも、ヘロデ王やパリサイ派の人々からのおどかし、妨害、邪魔の様なものがあります。
それが人間的な力、社会的なプレッシャーである時もあれば、霊的な戦いになる場合もあるでしょう。
私たちは時として、そのような力に圧倒されて、くじけてしまう事もあるかもしれません。
しかし、私たちが全てをイエス様に明け渡し、与えられている使命と目的に生きていくならば、私たちもイエス様と同じように進んでいく事もできるようになっていくのです。

パウロの人生を見てみましょう。
イエス様と出会いクリスチャンとなったパウロには、たくさんの試練や困難が訪れました。
クリスチャンを迫害していた彼は仲間からも恐れられ、くすぶっていた時代もありました。
途中で仲間が離れていく事もありました。
彼が福音を述べ伝えるところではいつも迫害があり、彼は逮捕され、牢に入れられ、鞭で打たれることが何度もありました。
パウロはこのように書いています。

IIコリント 11:23b 私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
11:24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、
11:25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
11:26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
11:27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

それでも、彼が福音を伝え、人々を導き、励まし、立て上げる事を止めさせる事は誰にもできませんでした。
使命と目的に生きたら、こんな苦難にも耐えなければならないのですか?
そういう事ではありません。
私達が主とともに歩み、使命と目的に忠実に生きるなら、どんな苦難も乗り越える力が湧いてくるのだという事なのです。

③ ああ、エルサレム
さて、エルサレムの事が話題に上ると、イエス様の心の内にはエルサレムに対する嘆きの思いがあふれてきました。

13:34 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。
13:35 見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。わたしはあなたがたに言います。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません。」

これは、神様がイスラエルの首都エルサレムに抱いてきた嘆きであり、悲しみです。
神様は何度、イスラエルに対して手を差し伸べ、救いのチャンスを与えてきたことでしょうか?
神様は2000年もの間イスラエルを導き、「私のもとに来なさい。私を信頼し、救いを自分のものとしなさい。」というメッセージを伝え続けてきました。
しかし、彼らはその手を払いのけ続け、自分の道を歩み続けたのです。

アブラハムに、モーセに、ダビデに、そしてソロモンに約束されていたように、イスラエルは神様の特別な守りの中にある国であり、エルサレムはその中心でした。
バビロン帝国による支配という絶望的な状況からも回復したイスラエルは、しかし再びその守りを失い、ローマ帝国に滅ぼされようとしていたのです。

イエス様が十字架にかけられたからおよそ40年後の紀元70年、エルサレムはローマ帝国に包囲され、決定的に破壊されました。
その時、何十万人ものイスラエル人たちは殺され、捕虜となりました。
エルレサムは廃墟となり、1948年に再建されるまで、イスラエルの人々は世界中に散らされ、流浪の民となったのです。

しかし、イエス様のこの言葉はもう一つの事を表しています。
それは、やがてイスラエルの人々が悔い改め、イエス様に向かって『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』と言う時が来るという事です。
イエス様の再臨の前に、これが起こるのです。
今はまだ、それは起こっていませんね。
でも、イスラエルにリバイバルが起こり、神様に立ち返ってクリスチャンになり始めたら、もう終わりの時はすぐそこだというしるしです。
だから私たちは、イスラエルという国に注目し続ける必要がありますね

私たちも、イエス様がやがてこの地上に戻って来るという信仰をもって、今日も、明日も、その次の日も主とともに歩んでいこうではありませんか。

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