ルカ10:1-16 『ルカ47 狼の中に』 2016/01/31 松田健太郎牧師
ルカの福音書10:1~16
10:1 その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。
10:2 そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。
10:3 さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。
10:4 財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけません。
10:5 どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。
10:6 もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。
10:7 その家に泊まっていて、出してくれるものを飲み食いしなさい。働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。
10:8 どの町に入っても、あなたがたを受け入れてくれたら、出されるものを食べなさい。
10:9 そして、その町の病人を直し、彼らに、『神の国が、あなたがたに近づいた』と言いなさい。
10:10 しかし、町に入っても、人々があなたがたを受け入れないならば、大通りに出てこう言いなさい。
10:11 『わたしたちは足についたこの町のちりも、あなたがたにぬぐい捨てて行きます。しかし、神の国が近づいたことは承知していなさい。』
10:12 あなたがたに言うが、その日には、その町よりもソドムのほうがまだ罰が軽いのです。
10:13 ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちの間に起こった力あるわざが、もしもツロとシドンでなされたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰の中にすわって、悔い改めていただろう。
10:14 しかし、さばきの日には、そのツロとシドンのほうが、まだおまえたちより罰が軽いのだ。
10:15 カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスにまで落とされるのだ。
10:16 あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です。」
先週と同じ聖書個所からのメッセージです。
先週は特に、2節の言葉に焦点を当ててお話ししましたね。
それはこの言葉が、今年のテーマとなる言葉だからです。
10:2 そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。
ここに語られているのは、第一に“実りは多い”ということ。
第二に、“私たちが働き手になる”ということ。
そして第三に、“神様が収穫の主”だということでした。
これが、クロスロードにとって、一年間の拠り所となる言葉になればいいなと思います。
イエス様はこのとき、まさにこのために、70人の弟子たちを各地に送り出したのです。
しばらく前には、12人の弟子たちが、悪霊を追い出す権威を授けられて送り出されましたね。
イエス様についていく弟子たちは、それよりももっとたくさんいましたが、こうして働き手となり、送り出される人たちは6倍に増えたのです。
9章の最後のところで、イエス様が弟子たちに声をかけてましたが、それはこうして働き手を集めるためだったということがわかりますね。
それでは、イエス様がこの働き手たちを送り出すに当たって、どのようなことを指示していたのか、一緒に考えていきましょう。
1. 狼の中に小羊を送り出す
最初にイエス様は、弟子たちを送り出すことに関してこのように言っています。
10:3 さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。
神様の働き手になることは、狼の中に小羊が送り出されるようなものです。
こう言うと、とんでもなく恐ろしいことのように思えます。
普通に考えれば、狼の中に小羊を送り出す羊飼いなんていません。
それではなぜイエス様は、私たちを狼の中に送り出すなどと言われるのでしょうか?
私たちがこの世界に溶け込んでしまうなら、世界は決して恐ろしい所ではありません。
でも、私たちがイエス様に従う者として、働き手として世界に入っていくのは、狼の群れの中にいる小羊のようなものなのです。
でも私たちは、決して一人で送り出されるのではありません。
実際、弟子たちは二人一組で送り出されましたが、それだけの事でもありません。
弟子たちには、悪霊を追い出し、病を癒す権威が、イエス様から与えられたのです。
イエス様の権威が共にあるから、向かうところ敵なしと言えるでしょう。
私たちには、それよりも更に素晴らしいものが与えられています。
私たちには、権威だけでなく、聖霊が共にいてくださるのです。
神様ご自身が私たちの中にあって、共にいてくださるのですから、私たちは何も恐れる必要がありません。
聖霊が私たちに進むべき道を導いて下さり、私たちに力を与えてくださるからです。
でも、それに続く言葉はメチャクチャに聞こえます。
10:4 財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけません。
これは少し混乱してしまいますが、12弟子たちを送り出した時にも『何も持たずに行きなさい。』と、似たような事が言われていました。
『財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい』と言うのはこれと一緒で、特別な準備はせず、普段のまま、ありのままの自分で行きなさいということです。
手ぶらで、はだしのままで行きなさいという事ではないんですね。
『道であいさつしてはいけません。』というのも、別に知っている人がいても無視しなさいとか、無作法でありなさいという事を言っているのではありません。
「だれそれにあいさつをしてから行こう」とか、いちいち余計な立ち話をして時を費やすのではなく、必要なことを優先させましょうという事です。
私たちは、余計なことに時間を費やしすぎる傾向があるからなんですね。
2. 平安の子
次にイエス様は、このように言っています。
10:5 どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。
10:6 もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。
『平安があるように』という言葉は、ユダヤのあいさつの言葉です。
ユダヤ人は、「こんにちは」も「こんばんは」も「さようなら」もみんなこの「シャローム」という言葉を使います。
でもこの場合には、単なるあいさつの言葉ではありません。
ここでは「平安」という言葉を使って訳されていますが、僕は「平和」という言葉を使った方がいいんじゃないかと思います。
“シャローム”は、“平和”とも“平安”とも訳す事ができる言葉ですが、これは「心の平安」についての祈りではなく、「神様との平和」の事が表されている所だからです。
イエス様は、「平和の君」と聖書の中で言われています。
イエス様が、私たちと神様との間に立って下さり、平和を実現したからです。
そしてここで言われている「平和の子」とは、イエス様を通して、神様との平和を受け入れた人達の事です。
イエス様の噂を聞いて、誰かに福音を伝えられる前から、受け入れる準備が整っている人たちがいました。
いろんな人たちに福音を伝えていくとわかってくる事ですが、世の中にはこんな風に、福音を簡単に受け入れ、すぐに神様との平和に入る「平和の子」たちがいます。
その一方で、福音をなかなか受け入れようとしない人たちもいるのです。
私たちはまず、このような平和の子を求め、祈りましょう。
すべては祈りから始まり、そこに平和の子がいれば、平和のためのその祈りは、その人の内に留まり、その人はクリスチャンとなるのです。
もちろん、すべての人たちが福音を受け取るわけではありません。
それでは、その人たちが福音を受け入れようとしなければ、その祈りと伝道はムダになったという事でしょうか?
そうではないのです。
福音の祝福は、祈った人、語った人に戻ってくるとイエス様は言います。
私たちの祈りと、福音を語るという努力は、決して無駄になることはないのです。
3. 福音を伝える責任
さて、福音を素直に受け止めてくれる人たちは良いのですが、福音を受け入れようとしない人たちに福音を伝えるのは大変です。
私たちが、誰かに福音を信じさせることはできないからです。
その人自身がイエス様を選び、救い主として、王として、神として受け入れるのでなければ、それは信仰ではありません。
受け入れないというだけなら良いほうで、場合によってはバカにされ、嘲笑われ、迫害を受けるという事も少なくありません。
そういう時には、私たちは彼らを後にして、先に進まなければならないという事もあります。
でもそれは、とても悲しいことですね。
福音を聞いて、受け入れなかった人たちの罪は、福音を聞かなかった人たちの罪よりも重いと、イエス様は言います。
弟子たちが訪れた町が、弟子たちを受け入れなかったなら、その町に下される裁きは、福音を聞かないまま滅ぼされたあのソドムの町よりも大きいのです。
だからと言って、福音を伝えない方がましだという事はもちろんありませんよ。
神様との関係がなければ、そもそもそこに救いはないのですから。
私たちはすべての人々に福音を伝える必要があります。
でも、救いの道が教えられているのに、それを受け取らないならば、その責任はその人たち自身のものです。
イエス様に対して、福音に対して、どのような反応をしたかという事によって、私たちの罪は明確にされるのです。
『ああコラジン、ああベツサイダ』と、イエス様は嘆きの声をあげています。
そこでイエス様がどのような事を行ったのか、聖書には記録されていませんが、恐らく様々な奇跡がそこで行われ、福音が述べ伝えられたのでしょう。
しかし、彼らはイエス様を受け入れず、迫害したのです。
ツロやシドンは、異国です。
ツロはかつて商業都市として栄え、罪深い町として知られていました。
シドンは、イスラエルに深刻なバアル信仰をもたらしたイゼベル王女の故郷です。
罪深いことで知られる彼らでさえ、福音を聞けば受け入れただろうにとイエス様は言います。
カペナウムは、これまでに何度も名前ができていましたね。
イエス様ご自身が奇跡をおこない、働きの根拠地とされた町でした。
しかしそのカペナウムも、イエス様を受け入れることはなかったのです。
誰かが福音を受け入れないという事は、とても悲しいことです。
でもそれは、私たちが理解されず、受けれてもらえなかったからではありません。
その人たちが神様の愛を拒み、救いを受け入れなかったからです。
そして、私たちの悲しみの何倍もの悲しみを、神様が感じているのです。
だから、私たちがその人たちのために祈り続けるという事は、大切なことだと思います。
そして、隙あれば福音を伝えていくという事ができたら良いでしょう。
でも、それでも、私たちが深追いしないで、次に進むべきだとイエス様は教えています。
なぜなのでしょうか?
第一には、私たちは少ない人数で多くの人に福音を伝えなければならないからでしょう。
頑固に福音を拒絶する人たちに関わり続けたために、福音を聞くべき他の人たちに伝える機会を失うのでは、それも悲しいことです。
第二に、しつこくする事が必ずしもいい結果をもたらすとは限らないからです。
私たちだけでなく、他のルートから福音が伝わり、その人が変えられるという事もあるはずです。
私たちがしつこくし過ぎて、福音に対する印象を悪くしてしまえば、その人はもっと頑固になるかもしれません。
そして第三に、私たちが逆に、その人たちの影響を受けてしまうかもしれないからです。
罪の力は大きいものです。
ミイラ取りがミイラになってしまうことも、少なくはありません。
この世の人々に福音を伝えるんだと言って、この世の価値観に飲み込まれ、福音から外れてしまう人たちがたくさんいます。
だからは、『狼の中に小羊を送り出すようなものだ』とイエス様は言っているのです。
私たちは、彼らのために祈りながらも、決してその価値観に飲み込まれてしまわないように気を付けていく必要がありますね。
何よりも、私たち自身が平和の子でなければ、福音を伝えることはできません。
私たち自身が、イエス様との関係を深め、その愛の中に留まり続け、内にいてくださる聖霊の守りの中を歩みましょう。
福音が、この世界を変えていくことを信じて。