ルカ9:27 『 ルカ39 神の国を見る 』 2015/11/29 松田健太郎牧師
ルカの福音書9:27
9:27 しかし、わたしは真実をあなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます。』
聖書の言葉は、時として解釈がとても難しく、自分一人で読んでいると訳が分からなくなる部分もたくさんあります。
今日の聖書箇所もまた、解釈が難しいとされる御言葉のひとつです。
解釈が難しいという事は、解釈をする人によってこの言葉の理解が分かれるという事でもあります。
この御言葉をどのように理解するのか、注解書をなどを読んでいると、本当に色んな解釈がある事がわかります。
そうして色んな注解書などを見ているとわかってくることですが、この御言葉を理解するためのカギは、“神の国”という言葉をどう理解するかという部分にあるようです。
神の国とは何でしょう?
マタイの福音書では、“天の御国”と言う言葉が使われていますが、同じものを表しています。
神の国、天の御国については、これまでもすでに、メッセージやバイブルスタディで何度もお話ししてきました。
神の国や天の御国をどう理解するかという事は、聖書を理解していく上でとても大切な事のひとつだからです。
そこで今日は、復習を兼ねて、“神の国”“天の御国”に焦点を当てながら、今日の御言葉について考えてみたいと思います。
① 天国
皆さんが、“神の国”“天の御国”という言葉を聞いてまず考えるのはどんなものでしょうか?
神の国、天の御国と聞いてほとんどの方が連想するのは、死んでから行く場所、「天国」ではないかと思います。
イエス様が神の国の話をする時、確かに天国の事を差して話している事があります。
マタイ 13:47 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引網のようなものです。
13:48 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てられるのです。
イエス様が神の国、天の御国という言葉を使って天国を表す時は、入る事ができる人たちと、できない人たちを対比して話しがされます。
そこで語られているポイントを集約すると、ひとつは罪人は神の国に入ることができないという事。
もうひとつは、神様は人々を天の御国に招くのに、多くの人たちはそれに応えようとせず、天の御国に入ることが語られています。
さて、私たちがやがて、死んだ後に入ることになる天の御国は、実は現時点では存在していないのをご存知でしょうか?
私たちが今死んでも、すぐに天国に行く事も地獄に行く事もなく、準備室のようなところに行く事になります。
救いを受け取って神様との関係を回復した人たちは、アブラハムのふところと呼ばれると所に行きます。
そして、神様の招きを拒絶して裁き受ける事を選んだ人たちは、黄泉(ハデス)と呼ばれるところに行くのです。
やがて、イエス様がもう一度地上に帰還される時、アブラハムのふところにいた人たちがイエス様の再臨と同時に蘇ります。
彼らが王となる千年王国が、地上に興されるのです。
しかし1000年が終わった時、地下に閉じ込められていた悪魔や悪霊たちが開放され、千年王国を治める人々と神様に最後の戦いを挑み、最終的な決着がつきます。
神様が勝利した時、黄泉に下っていた人たちも蘇り、悪魔や悪霊とともに最後の審判を受ける事になります。
それと同時に、救いを受けた人々は新しい天、新しい地に移され、そこで永遠の時を、神様とともに過ごす事になると、黙示録には描かれています。
ここで最後に出てくる新しい天、新しい地(新天新地)こそ、イエス様が話している神の国・天の御国、天国です。
仮に、復活が起こる千年王国から天の御国と呼ぶとしても、イエス様の再臨までその時は来ないのです。
そう考えてみると、今日の聖書箇所で語られている神の国は、天国の事を表しているわけではないという事がわかりますね。
彼らが神の国を見るためには、少なくとも2000年は生きていないといけない事になるのですから。
② 神様がご自身を表されるところ
神の国、天の御国という言葉が表している第二のものは、神様の支配が及ぶ所の事です。
アダムとエバの時代から、私たち人間は神様から離れ、神の国に帰る事ができなくなっていました。
この世界はむしろ、悪魔の力がおよび、人々は自覚もないまま、悪魔の支配の中にあったのです。
だから人々は、神様を見る事も、聞く事も、感じる事もできません。
この世界には物理法則だけがあって、私たちはその中に、ただ生まれ出てきただけの様にさえ感じることがあります。
しかし神様がご自身を表される時、全ては変わります。
そこには神様の力があり、神様の支配があります。
神の国では、病気も、飢える事もありません。
神の国では、悪霊の力も及ばず、死さえもその力を表す事がないのです。
でもそれは、私たちが天に挙げられた時の話。
イエス様が再臨し、最後の審判が起こるまで、そのような世界を経験することはないのではないかと、人々は思っていました。
でもそれは、死後の世界だけの事ではなかったのです。
イエス様がキリストとして活動を始めた時、人々は神の国がどのようなものかという事を目の当たりに経験しました。
医者では癒やせない病気が癒やされ、5つのパンで5000人の空腹が満たされ、悪霊は逃げ出し、死んだ人が蘇り、生まれつき盲目の人が見えるようになり、立てない人が踊り出すのを、イエス様の周りにいた人々は体験したのです。
これこそ、神の国でした。
神の国は、確かにそこにあったのです。
イエス様ははっきりと言ってます。
ルカ 11:20 しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。
人々はまさに、イエス様を通して神の国を体験したのです。
しかし、「ここにいる者たちの中には、神の国を見る者がいる」と言われた神の国は、この事でもない事がわかります。
彼らはすでに、イエス様を通して神の国がどのようなものかを見ていたのですから。
③ 聖霊の働き
では、ここでイエス様が言おうとしていた“神の国”とは、一体何だったのでしょうか?
死んだ後の事でも、今現在の事でもないならば、弟子たちはいつ、どのようにしてこの神の国を見ると言っていたのでしょうか?
弟子たちが生きている間に起こり、神の国が来たと言えるほどインパクトのある出来事は何だっただろうかと考えてみると、その答えが見えてきます。
やがてくる、新天新地ではなく、今イエス様を通して見るのではない神の国、それは彼ら自身が彼ら自身を通して体験する神の国です。
イエス様の再臨がまだ来ていないのに、彼らはいつ、どうやってそれを体験したでしょうか?
それは、イエス様が十字架にかかり、三日後に蘇り、天に帰った後に起こりました。
五旬節のという収穫の祭りがあったその日、弟子たちの上に聖霊が下ったのです。
使徒 2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2;3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させて下さるとおりに、他国のことばで話し出した。
その日、自分たちの国のことばで福音を訊いた3000人の人々が、イエス様を救い主としてして受け入れ、クリスチャンとなりました。
彼らはイエス様を王とし、神様を神様としました。
そこには神様の支配があり、それは観念的な事だけではなく、イエス様を通して起こったのと同じように奇跡が起こり、神様の力が及びました。
そして何よりも大きかったことは、そこに愛に根差した神の家族として関係があったという事です。
そこには、確かに神の国がありました。
神の国は、死んでからのものではなく、イエス様だけに起こるものでもなく、自分自身を通して世に表わされるものとなったのです。
この日を境にして、世界は確かに、これまでとは違うものになりました。
自らに裁きを下したユダを除いたすべての弟子たちは、神の国が力を持って自らの内に臨むのを目撃し、体験したのです。
それは、今も変わらず、イエス様の弟子となった私たちの内に起こります。
私たちがイエス様を自分の王として、神様を本当の意味での神様としてその支配の中に入る時、私たちは神の国に入ります。
そして神の国には、神様の力が及ぶのです。
イエス様は神の国について、このようなたとえ話をしていました。
マルコ 4:30 また言われた。『神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。
4:31 それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、
4:32 それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」
私たちの内に植えられた神の国の種は、からしだ根の様に小さなものです。
でもそれは、信仰とともに私たちの内に増え広がり、大きな力とともに私たちを動かすのです。
その私たちが集まって教会となり、教会はこの地上で神の国を広げ、多くの人たちに影響を与えていきます。
私たちが今生きるこの時代も、そこから2000年続いている教会の時代です。
神の国は、聖霊によって、私たちを通して教会に、教会を通してこの世界に伝わり、広がっていきます。
皆さんもまた、この神の国を見る事ができます。
体験する事ができます。
信仰をもって、神様に従い、神の国に入りませんか?
神の国は今、私たちとともにあるのですから。