ルカ9:18-22 『 ルカ37 岩の上の信仰 』 2015/11/01 松田健太郎牧師

ルカの福音書9:18~22
9:18 さて、イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちがいっしょにいた。イエスは彼らに尋ねて言われた。「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」
9:19 彼らは、答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い、またほかの人々は、昔の預言者のひとりが生きかえったのだとも言っています。」
9:20 イエスは、彼らに言われた。「では、あなたがたはわたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えて言った。「神のキリストです。」
9:21 するとイエスは、このことをだれにも話さないようにと、彼らを戒めて命じられた。
9:22 そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日後によみがえらねばならないのです。」

私たちは、いつもたくさんの選択をしています。
朝起きて、何を食べるか、何を着るか、どの道を通ってどこに行くか?
私たちは平均して、毎日1万から2万回の選択をしているのだそうです。
人生を左右するような選択は、それほど多くはないかもしれませんが、人生を大きく変えてしまうような決断も、時にはあるものです。

今週から来週にかけてのメッセージでは、私たちの人生、そして永遠の時を左右するような、ふたつの大きな選択について、一緒に考えていきたいと思います。

① イエスとは誰か
ある時、イエス様はひとりで祈っていました。
そして、イエス様はそばにいた弟子たちに、このように尋ねました。
「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」
イエス様は、一体何を聞こうとしているのでしょう?
イエス様が自意識過剰になって、「みんな、私の事をどう思っている?」・・・という事を聞いているわけではありません。
イエス様は自分自身のためにこの質問をしたのではなく、弟子たちに考えさせるためにこの質問をしているのです。

弟子たちが、イエス様の真意をどれほど理解していたかはわかりませんが、彼らは色んな人たちから耳にした事を、イエス様に伝えました。

9:19 彼らは、答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い、またほかの人々は、昔の預言者のひとりが生きかえったのだとも言っています。」

イエス様は、預言者のひとりであり、最高の預言者の再来。
それが、多くの人たちが考えるイエス様の姿でした。
多くの人がイエス様を素晴らしいと思い、高く評価しています。
でもそれは、過去にあったものの繰り返しでしかありません。
かつていた人々であり、神様によって創られたもの、という事です。

イエス・キリストという人を尊敬し、素晴らしいと思っている人はたくさんいます。
宗教者のひとりとして、あるいはソクラテスのような哲学者として、偉人や賢人、聖人としてイエス様を讃えている人たちはたくさんいるのです。
日本では、イエス・キリストというこども用の偉人伝が発売され、世界の偉人を紹介していた『知ってるつもり』という番組の最終回では、イエス・キリストが紹介されました。
キリスト教と敵対しているように見えるイスラム教でも、イエス様は預言者のひとりとして尊敬されています。

しかしそれでは、イエス様をちゃんと認識している事にはなりません。
それは、イエス様を一人の人という枠の中でしか見ていないからです。
例えその中で最大、最高であったとしても、結局は『One of us』でしかありません。
イエス様は人である、という信仰なのです。

それが違うのだとしたら、イエス様は一体何者でしょうか?
「あなた達はどう思うか?」という問いに、ペテロが答えます。

9:20 イエスは、彼らに言われた。「では、あなたがたはわたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えて言った。「神のキリストです。」

マタイの福音書では、「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と記されています。
いずれにしてもペテロが言いたかったのは、イエス様は単に優れた人、預言者、賢者ではなく、神様からのキリスト、つまり救い主だという事だったのです。

② 岩の上の信仰
私たち人間は、神様によって素晴らしい完璧な存在として、この世界に創造されました。
人間は神様に愛され、神様を愛する存在として創られ、この地上のを管理していました。
私たちは神様とともに、創られた通りに生きていれば本当に幸せに生きる事ができていたのです。
でも私たちは、ある時神様に背き、神様なしに生きる道を選んでしまいました。
命の源である神様から離れた事によって、私たちの霊は死に、私たちは神様が創って下さったままの完璧な状態とは程遠い、滅びるべき、呪われた存在となってしまいました。
でも神様は、そんな私たちを滅びるままにはしておかなかった。
私たちが罪に堕ちた次の瞬間から、私たちを救い、私たちとの関係を回復するための道を作り、私たちに命を与えるという約束をして下さったのです。

でもそれは、ただで与えられたわけではありません。
永遠の滅びからの救いが私たちに与えらえるためには、大きな犠牲が必要とされていたのです。
イエス様は、自分が救い主である事のしるしとして、これからご自身の上に起こる事を弟子たちに告げました。

9:22 そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日後によみがえらねばならないのです。」

ここでイエス様が言われた“人の子”こそが、イエス様でした。
イエス様が、私たちの罪を贖うために十字架にかかり、いのちを投げ出して下さった結果、私たちは救いの道が与えられたのです。

これは、ペテロが自分自身で悟る事ができるような知識ではありませんでした。
実際に、他の福音書を見ると、この直後に「イエス様は死ぬべきではない」と発言してイエス様に叱られています。
すべては、神様ご自身がこの真理を明らかにし、ペテロに語らせた事だったのです。

さて、ペテロのこの信仰告白は、私たちにとっても大切な事です。
マタイの福音書には、この信仰告白についてイエス様が言われたことが記されています。

マタイ 16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。

この岩とは、ペテロがこの時にした信仰告白の言葉です。
「イエス様こそが、生ける神の子キリストである」という真理。
その信仰の岩の上に、教会である私たちは建てられているのです。

最近、土台の支柱をごまかしたために傾いてしまったマンションの話がもちきりですが、土台がしっかりしていないと、私たちもまた簡単に傾いてしまうのです。
イエス様のたとえ話にありますが、砂の上に家を建てるのは簡単ですが、すぐに崩れてしまいます。
一方で、岩の上に土台を築き、家を建てるのは大変ですが、岩を土台とした家は、ちょっとやそっとでは傾くことがありません。

キリスト教を、偉い宗教者の教えとして理解する事は信じやすいかもしれませんが、そんなものは簡単に折れてしまいます。
イエス様が生ける神の子として信じる事は、容易い事ではないかもしれません。
しかし、その岩の上に建てられた信仰は、簡単な事では倒れることがありません。
私たちという教会は、そのような信仰の上に建てられるのです。
そしてその信仰は、悪魔の砦であるハデスの門さえも打ち砕き、この地上を悪魔の支配から解放するのだとイエス様は言うのです。

③ 大きな選択
さて、いよいよ今日の本題に入っていきたいと思います。
私たちに求められている人生の決断、永遠の時に関わる選択がここにあります。
それは、私たちがイエス様を受け入れるかどうか?
受けれるとして、どのような方として受け入れるか? と言う決断であり、選択です。

私たちはイエス様を、受けれるでしょうか? それとも拒絶するでしょうか?
また、私たちはイエス様をどのような方として受け入れるのでしょうか?
賢者、聖者、宗教の創始者としてでしょうか?
それとも、神の御子、救い主としてでしょうか?

先ほども言った通り、私たちは神様から離れ、創られたままの自分として生きる事もできず、滅びに向かうものとして生きていました。
しかし、イエス様が救い主として地上に来て下さり、十字架で死ぬ事によって私たちの罪を贖って下さったと信じるなら、私たちの人生は確かに違うものとなるのです。
滅びへと向かうだけの人生から、神様との関係を回復し、永遠の時を主とともに過ごす人生へと転換するのです。

では、どうやってその決断を自分のものとすれば良いのでしょう?
パウロはこのように言っています。

ローマ 10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

私たちが心で信じ、口で告白した時、イエス様は私たちの心を柔らかく開き、救いへと導かれるのです。

それでは、イエス様がペテロに訊ねた問いの言葉をもう一度見てみましょう。

9:20a,b イエスは、彼らに言われた。「では、あなたがたはわたしをだれだと言いますか。」

私たちにも、この問いが問われているのです。
私たちは、イエス様を誰と言うでしょうか?
私たちにとって、イエス様とは誰なのでしょうか?
イエス様は一人の人ですか、それとも私たちの神であり、救い主なのでしょうか?

この選択をどのように答えるかによって、私たちの人生は大きく変わるのです。
砂地に建てる家のように、簡単に揺らいでしまう人生を歩むのか?
それとも、岩を上に信仰を立て上げ、決して倒れない人生を歩むのかです。
祈りましょう。

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