ルカ9:1-9 『 ルカ35 弟子は送り出される 』 2015/10/18 松田健太郎牧師
ルカの福音書9:1~9
9:1 イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。
9:2 それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。
9:3 イエスは、こう言われた。「旅のために何も持って行かないようにしなさい。杖も、袋も、パンも、金も。また下着も、二枚は、いりません。
9:4 どんな家に入っても、そこにとどまり、そこから次の旅に出かけなさい。
9:5 人々があなたがたを受け入れない場合は、その町を出ていく時に、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。」
9:6 十二人は出かけて行って、村から村へと回りながら、至る所で福音を述べ伝え、病気を直した。
9:7 さて、国主ヘロデは、この全ての出来事を聞いて、ひどく当惑していた。それは、ある人々が、「ヨハネが死人の中からよみがえったのだ」と言い、
9:8 ほかの人々は、「エリヤが現われたのだ」と言い、さらに別の人々は「昔の預言者のひとりがよみがえったのだ」と言っていたからである。
9:9 ヘロデは言った。「ヨハネなら、私が首をはねたのだ。そうしたことがうわさされているこの人は、いったいだれなのだろう。」ヘロデはイエスに会ってみようとした。
さて、今日からルカの福音書も9章に入りますね。
イエス様の宣教も中盤に差し掛かり、この頃から新しいステージに入っていきます。
どういうステージに入っていくのかというと、働きがイエス様から弟子たちへと移されていくステージです。
これまではどうだったかと言うと、イエス様ご自身の働きが中心となっていました。
イエス様が、自分の存在をこの世界に表していく事が目的だったわけです。
それは、神の国を人々に示し、人々をご自身の元に導く働きでした。
イエス様が福音を伝え、人々を癒し、悪霊を追い出し、蘇らせる。
しかしここからは、イエス様は弟子たちに、同じ事をするようにと命じていくのです。
そして、イエス様の後について来ているだけだった弟子たちは、イエス様によって、色々な場所に遣わされていくようになるのです。
① 弟子たちの派遣
9:1 イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。
9:2 それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。
そもそもイエス様は、どうして弟子たちを遣わされるのでしょうか?
第一に、イエス様がひとりで関わる事ができる人は限られているからです。
イエス様の働きは、人との関わりがとても大切です。
単に文書にして回し読みすれば良いものではありません。
しかし、人間になったイエス様が関わる事ができるのは、ほんの一部の人だけです。
弟子たちがイエス様によって遣わされることになれば、もっと多くの人たちが癒やされ、悪霊を追い出され、福音を聴くことができるようになるのです。
第二に、イエス様が活動できる時間が限られているからです。
イエス様は、ご自分がもうすぐ十字架に架けられることを知っていました。
イエス様がいなくなったら、その働きも終わってしまうのでは困ります。
弟子たちが訓練され、遣わされ続けたからこそ、現代に生きる私たちもイエス様を知る事が出来、弟子となる事ができたのです。
第三に、ひとりひとりが、成長していくためです。
ここに集められていたのは、単に信じている人たちではなく、弟子たちだという事を思い出しいただきたいのです。
弟子とは、師から学び、師と同じようになっていく人たちです。
これまでの自分とは変わり、イエス様に似た者となっていくわけですから、大変な訓練が必要となる事でしょう。
イエス様が色々な所に弟子を派遣するのは、それ自体がトレーニングでもあるのです。
皆さんはどうでしょう?
皆さんは、イエス様の弟子ですか?
そうであって欲しいと思います。
なぜなら、イエス様が私たちに求めているのは、信者になる事ではなく、弟子になる事だからです。
イエス様は、私たちにこのように命じています。
『それゆえ、あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。(マタイ28:19) 』
イエス様は、私たちに『信者を作りなさい』とは言っていないんです。
神様が私達に求めているのは、単なる信者になる事ではなく、弟子となる事だからです。
そしてそのために、イエス様は弟子たちを教え、整え、訓練し、それぞれの働きをするために送り出すのです。
② 何も持たず
さて、弟子たちを送り出す前に、イエス様は注意点としてこのような指示をしています。
9:3 イエスは、こう言われた。「旅のために何も持って行かないようにしなさい。杖も、袋も、パンも、金も。また下着も、二枚は、いりません。
9:4 どんな家に入っても、そこにとどまり、そこから次の旅に出かけなさい。
9:5 人々があなたがたを受け入れない場合は、その町を出ていく時に、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。」
こちらは第一に、何も持たないでいくという事ですね。
でもこれは、文字通りに手ぶらで行きなさいという事とは少し違います。
実は、イエス様のこの言葉、別の箇所では「杖を持っていきなさい。」と矛盾する事を言っているので、どういう事かと大騒ぎする人たちもいるのです。
この言葉を簡単に言うと、「特別に準備をするのではなく、いつもと同じ格好で行きなさい。」という事がポイントです。
それが特別な働きだと意識すると、いつもの自分の力が発揮されません。
いつもの、ありのままの自分として送り出されるという事が、大切な事なのです。
第二に、「どんな家でもそこに留まりなさい。」と言われています。
弟子たちは遣わされた街で、出会った人々の家に滞在してそこを拠点としてました。
その家は金持ちである事もあれば、貧乏な家だという事もあったでしょう。
しかし弟子たちは、選り好みをせず、そこで出会った人たちの家に滞在するようにと言われたのです。
預言者エリヤが、貧しいやもめの家に滞在して養われたように、神様が私たちを支えるために用意している人たちは、時に私たちの思いもよらない人たちだったりします。
そしてこの体験を通して、私たちは全てを神様に委ねるという事を学んでいくのです。
第三は、受け入れられない時には、出る時に足のちりを払い落として出るという事です。
足のちりを払うとは、ユダヤ人が異邦人に対してよくした行為で、「私はこの人たちとは無関係である」という事の意思表示です。
私たちは、そこで受けれられることなく、否定されたなら、その事をいつまでも思い煩うのではなく、足を払って先に進みましょう。
私たちが伝えるべき事を伝えたなら、その後はその人たちと神様との問題なのですから。
③ 世に遣わされているという事
さて、私たちがイエス様の弟子であり、弟子が送り出されるのであれば、私たちもまた、神の国を宣べ伝えるために送り出されるようになるはずです。
どこに送り出されるのでしょうか?
私たちは、世に送り出されるのです。
日曜日の礼拝に出席する事が、最終目的になってしまっていはいないでしょうか?
皆さんは、イエス様によって、この世に送り出されているイエス様の弟子なのです。
一見、とても熱心で素晴らしい信仰を持っているように見えるクリスチャンがいます。
色んな集会に出席し、色んな場所で聖書を学び、ネットなどでたくさんのメッセージを聴いている。
聖書の事に詳しく、よく祈り、正当な教義や教理を身に着けている。
ところがそこに実践が伴わず、人と関わる事も、愛する事もなく、身近なクリスチャンの人とだけ付き合い、教会の中だけで信仰生活を送ることになっているなら、その知識は何のための知識でしょうか?
目的を失い、教会に行く事や、知識を身に着ける事、熱心なクリスチャンとしての生活を送る事が最終目的となってしまうなら、信仰は自己満足でしかなくなってしまうのです。
しかしそんな話をすると、精神的に著しく負担となると反論される方も出てきます。
「私たちは世の中で一生懸命に働いて、世の中で疲れているのです。癒しを求めてクリスチャンになったのに、教会が癒やしの場になってはいけないのでしょうか?」
いいえ、教会が癒やしの場である事に何の問題もありません。
そして、今までの仕事や人との付き合い以外に、クリスチャンとしての働きを増やして下さいと言っているのではないのです。
少し考えてみて下さい。
皆さんが世の中で働き、色んな人との付き合いを持っているのは、何のためでしょうか?
もし私たちが、自分の生活のためだけに働き、楽しみのためだけに世の人と付き合っているのだとしたら、それは世の人と何も変わりません。
でも、私たちが仕事をし、人との付き合いがある時、それは私たちがその人たちに対して送り出されているのだと考えてみたら、私たちの物事の見方は少し変わってくるのではないでしょうか?
私たちがどのような意識を持って教会に来て、どのような意識で世の中にいるかという事そのものの問題なのです。
「え? じゃあ、会社の人たちや、近所の人たちに伝道しろという事ですか?」
そうしたければそうしても良いですが、そういう事を言っているのでもありません。
私たちが会社で働く時、会社のためや上司のため、お金のために働くのではなく、神様に遣わされた者として、それぞれの場で人に仕えているのだと考えてみて頂きたいのです。
近所の人たちや、ママ友と立ち話をする時、神様がその人たちを愛するために遣わしているのだと考えてみて頂きたいのです。
その様に意識すると、私たちの仕事の仕方、人との付き合い方は変わってくるのではありませんか。
私たちが聖書の中で学び、メッセージを受け取り、礼拝の中で神様と交わる中で受けてきた経験が、仕事や人との付き合いの中に反映されていくはずです。
私たちはなぜか、普段の生活と信仰生活と言うものを、あまりにもかけ離れたものとして考えてしまう傾向があるように思います。
それは、長い間キリスト教会が、知識偏重の頭でっかちな教育をしてきてしまったせいかもしれません。
でも、クリスチャンとして生きるという事、イエス様とともに生きるという事は、もっと身近で当たり前なものであるはずです。
そうして信仰生活の意識が変わってくると、今度は日曜日の礼拝や、聖書の学びも変わってくるはずです。
私たちはもっともっと心から神様の御前に祈り、賛美し、礼拝するようになります。
もっと真剣に御言葉を受け取り、それを自分の状況に当てはめ、世に派遣されるためにますます整えられていくのです。
さあ、もっとイエス様の弟子らしく生きようではありませんか。
そして、イエス様が遣わして下さる場所に行きましょう。
失敗しても大丈夫。
そこには、いつでもイエス様の助けがあるのですから。