ルカ8:40-48 『 ルカ33 けがれという絶望からの回復 』 2015/10/04 松田健太郎牧師

ルカの福音書8:40~48
8:40 さて、イエスが帰られると、群衆は喜んで迎えた。みなイエスを待ちわびていたからである。
8:41 するとそこに、ヤイロという人が来た。この人は会堂管理者であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願った。
8:42 彼には十二歳ぐらいのひとり娘がいて、死にかけていたのである。イエスがお出かけになると、群衆がみもとに押し迫ってきた。
8:43 ときに、十二年の間長血をわずらった女がいた。だれにも治してもらえなかったこの女は、
8:44イエスの後ろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった。
8:45 イエスは、「わたしにさわったのは、誰です。」と言われた。みな自分ではないと言ったので、ペテロは「先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです」と言った。
8:46 しかし、イエスは、「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから」と言われた。
8:47 女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した。
8:48 そこで、イエスは彼女に言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」

僕は久しぶりの礼拝メッセージになりますね。
ここ一カ月間、いろんな方にメッセージや証をしていただきました。
どうでしたか?
僕は、言う事ない位素晴らしかったと思いました。
別に、僕が休めたからという事ではなく(笑)。
でも、皆さんの証やメッセージが素晴らしくて、僕がメッセージをする必要はないように感じました。
今後もいろんな方にお話しいただきたいと思っていますが、たまには僕も話しておかないといけませんね。
今日は、ルカの福音書からの続きです。

ゲラサ地方から帰ってきたイエス様は、ヤイロという人物と出会います。
この人はユダヤ人の集会所であるシナゴーグの会堂管理者であり、裕福で地位の高い人でした。
そんなヤイロが、体裁も捨ててイエス様の前に、身を投げ出すようにひれ伏します。
12歳になる娘が病気になり、死にかけていたからです。
ヤイロは、噂に名高いこのイエス様なら、娘を癒す事ができるのではないかと思い、「ぜひ家に来て娘を癒してほしい」と願い出ます。
イエス様は承諾し、ヤイロの家に向かって出発しました。

さて、このヤイロの娘がどうなったかという事は、来週のメッセージでお話しします。
今日はヤイロの家に向かう途中に起こった出来事です。
イエス様はそこで、長血を患った女性と出会うのです。

① 長血という病
長血とは一体何でしょうか?
長い間血が出るという事ですが、これはたぶん、婦人病のひとつだと思います。
生理による出血が止まらないという病気ですね。
これはちょっと、男性である僕にはわからない苦しみでもありますが、伴う生理痛や違和感などを考えたら、とても辛い事だろうと思います。
この女性は、12年もの間出血が止まらなかったという事ですから、本当に長い間苦しんできたという事です。
人には相談しにくい、恥ずかしい病気。
しかもこの女性は、治療のために医者に全財産を使い果たしたが、それでも癒されなかったというのです。

しかし私たちは、それだけではこの女性の苦しみを理解する事ができません。
辛いだろうとは言え、どうしてこの女性が全財産をつぎ込んでまでこの病をいやそうとしたのか、そしてイエス様が、死にそうになっているヤイロの娘の癒しを後回しにしてまでこの女性と関わったのはなぜか、私たちの常識だけでは理解する事ができないのです。

ユダヤ人にとって、長血という病を患っている事は特別な意味を持つことでした。
レビ記15章を見ると、律法によってこのような事が定められていた事が分かります。

レビ記 15:25 もし女に、月のさわりの間でないのに、長い日数にわたって血の漏出がある場合、その汚れた漏出のある間中、彼女は、月のさわりの間と同じく汚れる。
15:26 彼女がその漏出の間中に寝る床はすべて、つきのさわりのときの床のようになる。その女のすわる全てのものは、その月のさわりの間の汚れのように汚れる。

長血を患っているという事は、この女性は単に病気であるというだけでなく、けがれている者として扱われたという事です。
そして自分がけがれている時は、自分が触れるものすべてがけがれてしまうから、不用意に人や物に触れる事もできません。
周りの人たちの反応は冷たくなり、どんな集まりにも呼んでもらえない。
彼女が頼った医者たちは彼女の病気を癒す事ができず、持っていたお金まですべて使い果たす事になり、治るどころかさらに悪くなる始末。
結果的に彼女は、誰にも触れる事ができない、誰からも触れられることがないという、寂しい、悲しい12年間を送る事になったのです。

② 信仰を持って触れる
そんな彼女が、どこかでイエス様の噂を聞きつけて、やってきました。
普段は誰にも会うことなく、家の中に引きこもっているか、人里離れたところで隠れている彼女です。
互いに肩がぶつかり合うような賑わった街中に出てくることは、かなりの勇気を必要としたでしょう。
それでもこの女性は、イエス様に希望を求めて、この街中にやってきました。
そして、イエス様の姿を見つけたのです。

しかし、当然ですがそこにはたくさんに人たちが周りにいて、近づく事すらできそうにありません。
人が大勢観ている前で話しかければ、多くの人たちの注目をかってしまう。
汚れている自分がこんな人の多いところに出かけてきたと知れれば、袋叩きにでもあうか、石を投げられて殺されてしまうかもしれない。
彼女はイエス様の後ろからこっそりと近づき、気づかれないようにその服の房に触れる事にしました。
こうしてこの女性が信仰をもってイエス様の服の房に触れた時、彼女は癒されたのです。
それは病の癒しだけではなく、けがれという永遠の絶望からの解放、回復でした。
そしてそれは、彼女自身の信仰によってもたらされたものなのです。

この街中で、イエス様に触れた人たちはたくさんいた事でしょう。
その中には、他にも病気を患った人がいたかもしれません。
しかし、その人たち全員が癒やされたわけではありませんでした。
イエス様を信じ、癒されるという信仰を持ったこの女性だけが癒やされたのです。

私たちが、心から求めてイエス様に触れる時、また触れていただく時、私たちの汚れはきよめられ、癒され、絶望から回復する事ができるのです。

③ 「だれがわたしにさわったのです」
さて、この女性は癒されたことが分かると、そのままこの場所を立ち去ろうとしました。
自分の様な者がこの場にいて、聖いイエス様に触れたなどという事は、できれば誰にも知られたくない事だったからです。
しかし、イエス様はそのままにはされませんでした。
イエス様は大きな声で、「誰が私にさわったのです。」と言いました。
誰が自分にさわって、癒されたのか、イエス様は知っていただろうと思います。
でもイエス様は、あえてこの女性が自分から名乗り出るように仕向けたのです。

少しでも早くこの場を立ち去ろうとしていた女性は、驚いて立ちすくみます。
ばれている。
もう逃げだす事もできない。
そこでこの女性は観念して、イエス様の前に出てひざまづきました。

8:47 女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した。

イエス様はなぜ、この女性をそのまま行かせなかったのでしょうか?
それは、この女性の信仰が、癒されただけで終わってしまわないためでした。
聖書にはこのように書かれています。

ローマ 10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

信仰告白した女性に、イエス様は優しく言います。

8:48 そこで、イエスは彼女に言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」

こうして、この女性の信仰は確立し、はっきりしたものとなりました。
彼女の癒しは、単なる体の癒しから、魂の癒し、心の解放となり、神様とともに歩む道を歩み始めるのです。

④ けがれとは?
さて、結局のところ、けがれとは何なのでしょうか?
それは、ある特定の罪や、特定の病気になった人だけに当てはまり、彼らはけがれているけれど、私は聖いのでしょうか?
律法を表面的にだけ捕え、宗教としてしまったユダヤ教の信徒たちの多くは、そのように考えていました。
私たちクリスチャンの多くもまた、同じように考えているかもしれません。
しかし、そうではないはず。
私たちもまた、深刻なけがれの中にある者であるはずではないでしょうか?

けがれとは、聖さとは正反対のものです。
聖いお方である神様に近づくためには、私たちは聖い者でなければなりません。
律法は私たちに聖い状態を示し、同時にけがれとは何かを教え、汚れている限り神様に近づくことはできない。
牧師なら、あるいは敬虔なクリスチャンなら、神様のそばに近づくことができるでしょうか?
いいえ! そんな事はありません。
「義人はいない。ひとりもいない。」のです。
私たちはみんな罪人であり、罪の汚れの中にあって、神様に近づくことはできない。
神様の御元に向かう道は、一生懸命にがんばって律法を守る事にあるのではなく、イエス様だけが唯一の道です。

今日の聖書箇所が教えているのは、「長血という病を患ったかわいそうな女の物語」ではなく、私たち自身の話です。
こういう人々を見下して、自分は聖いから大丈夫だと思いこむ私たちの方にこそ問題があり、みんな汚れているのです。
そんな私たちがけがれから癒されるためには、私たちが自分の力や努力に絶望し、信仰を持ってイエス様にその汚れを癒してもらい、自らの信仰を告白する必要があります。
それは、私たちがクリスチャンとなった後も同じです。
私たちは赦された罪人でしかなく、罪のけがれは、何度でもきよめられ、私たちは癒される必要があるからです。
主の前に、自らの罪を告白し、癒やされるために祈りましょう。
私たちが今日、安心して教会から出ていく事ができますように。

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