ルカ6:43-49 『 ルカ22 高原の説教IV(岩の上に家を)』 2015/06/14 松田健太郎牧師

ルカの福音書6:43~49
6:43 悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。
6:44 木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。
6:45 良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。
6:46 なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。
6:47 わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。
6:48 その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。
6:49 聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」

高原の説教のシリーズ、最終話です。
最後の話なので、この説教の総まとめ、とても大切な部分です。

高原の説教は、イエス様が弟子たちに対して話された話でしたね。
ただついてきただけではなく、ただ信じただけではなく、イエス様を師としてついていこうと願う人たちを集めて、イエス様はここで話されたのです。

貧しい者は幸いだとか、あなたの敵を愛せだとか、イエス様の話はどれも私たちの常識をひっくり返すような話しばかりでしたね。
それは、私たちが神様の御心からどれだけ離れているかを教えてくれましたが、それと同時に大きなチャレンジでもありました。
今日は、どんなチャレンジを与えて下さるのでしょうか?

① 良い木か、悪い木か
イエス様は、こんな話をしました。

6:43 悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。
6:44 木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。
6:45 良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。

皆さんはどう思いますか?
皆さんは、良い木でしょうか、それとも悪い木でしょうか?

この話を、私たちはどのように受け取るかによって、クリスチャンの生き方が変わってくるように思います。
もしもこの話を、道徳的な行いの話として受け取るなら、私たちは良い木になるために一生懸命善い行いをしようということになるかもしれません。
実際に、そう思っているクリスチャンも、少なくないのではないでしょうか。
でもイエス様は、あなたが良い木なら良い実を結び、悪い木な悪い実を結ぶと言ったのであって、良い木になるためにがんばりましょうとは言っていないのです。

私たちが良い木なら、私たちは良い行いをするでしょう。
では、良い行いとはどんな行いでしょうか?
人を助けたり、優しくしたり・・・。
でも、話の流れからすると、それだけでは十分ではないようです。
よい行いとは、貧しい時や悲しい時に幸いだと喜び、敵を愛し、迫害する者のために祈り、自分の罪を思い人の罪を赦すような、そんな行動、生き方です。
どうでしょう?
私たちはそんな行いができているでしょうか?
良い実をならせているのでしょうか?

残念ながら、そうではありませんね。
私たちは幸せを感じるために思うままの条件を決め、気に入った人は愛するけれど、敵は憎み、自分の罪には目をつぶるけれど、他人の罪を許せない、そんな人間です。
・・・と言う事は、残念ながら私たちは悪い木なのです。
エレミヤ書には、私たちがどのような状態にあるかという事をこのように記しています。

エレミヤ 2:21 わたしは、あなたをことごとく純良種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わったのか。

神様は、私たちを素晴らしい木として創りました。
でも神様から離れて、私たちは悪い木となってしまった。
私たちが、自分自身で成らせる実があるのだとしたら、それは罪の実でしかないのでしょう。
だから私たちは、良い実を成らす事はないのだと言っているのです。

② イエス様に繋がる
では、どうしたらいいのでしょうか?
どれだけがんばったところで、良い木になることができないのだとしたら、私たちには何の可能性もなく、あきらめるしかないということでしょうか?
ある意味ではその通りだと、僕は思っています。
私たち自身には、何の可能性もないからです。

でもそこで、イエス様が別のところで言っている、この御言葉を考えて見ましょう。

ヨハネ 15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

イエス様は、まことのぶどうの木です。
まこととは、真実という事であり、完全だという事です。
イエス様こそが本当に良い木なのです。
そして、私たちに必要なのは、“私たちが良い木になろうとする”事ではなく、“良い木であるイエス様に繋がる”という事なのです。
そして私たちが接ぎ木のように、イエス様と繋がった時、私たちを通してイエス様の良い実がなっていくのです。

③ 岩の上に家を建てる
そうは言っても、どう考えても良い実を実らせているように見えないクリスチャンもたくさんいるじゃありませんか。
教会に通う人、洗礼を受けてクリスチャンになった人が全て良い実を成らせているならわかり安いのですが、必ずしもそうは言えない事も決して少なくはありません。
ただクリスチャンだけでなく、リーダーシップをとっているはずの牧師までもが、不祥事を起こして悪い実を成らせるという事もたくさんあるのです。

では、イエス様に繋がるというのはどういう事なのでしょう。
私たちはどうすれば、イエス様に繋がって良い実を成らせる事ができるのでしょうか?
イエス様は続けて、このように言っているのです。

6:46 なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。
6:47 わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。
6:48 その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。
6:49 聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」

ただ「私は信じた。」と言って教会に通い、「主よ、主よ。」と言っても、それだけでは良い実を成らせる事はないのです。
ここに、イエス様に本当に繋がった人と、信じたように見えても良い実を成らせる事がない人たちの違いが描かれています。
何が違うのか?
それは、私たちがイエス様の言葉に従っているかどうかという事なのです。

僕が大工さんだったとしましょう。
そして皆さんは僕に、「けんたろさんは腕のいい大工さんだから頼りになります。信じています。」と言ったとします。
そこで僕が言うんです。「ありがとうございます。それでは、今できたばかりのイスがここにあるので、座ってみてください。」
もしもその時、皆さんが「イヤ~…」と言って座るのを躊躇するなら、それはたぶん、さっきの言葉が単なるお世辞で、本当は僕の事を信用していないという事ではないでしょうか?
信じる事には、必ず行動が伴います。
信じているなら、座るんです。

イエス様の言葉は、確かにそのままでは従う事に不可能だと思うような事ばかりです。
だから私たちは、イエス様に繋がり続ける必要があります。
そこから、御言葉というたくさんの栄養を受けて、成長します。
その中で、イエス様の言葉に従おうとし続ける事です。
貧しい時、涙を流す時、迫害を受ける時にそこにある幸いを受け取ってみる。
敵を愛し、その人の祝福を祈ってみる。
自分の罪を認め、相手を赦してみる。
勇気がなくて踏み出せないなら、正直に告白し、祈る事です。
その中で、神様は私たちを剪定して、余分なものを刈り取って下さいます。
それは時に痛い経験ですが、それによって私たちは、より素晴らしい実を結ぶ事ができるようになるのです。

そういう生き方が、決して簡単なものでない事は言うまでもありません。
私たちにとって、普通の事ではないのですから、初めは違和感もあるでしょう。
でもそのような生き方をする時、私たちは自分の土台を岩の上に据えるのです。
家を建てるまでにはえらく苦労もしますが、立ち上がった物は、決して倒れることがありません。

全ての事が不安定で、先行きが心配な状況は、この頃の弟子たちだけの問題ではなく、現代を生きる私たちが直面している問題でもあります。
私たちも、この揺るがない土台の上に自分自身を立てようではありませんか。
イエス様がそれを、可能にしてくれます。

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