ルカ5:12-16 『 ルカ14 イエス様の心 』 2015/03/22 松田健太郎牧師
ルカの福音書5:12~16
5:12 さて、イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」
5:13 イエスはてを伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに、そのツァラアトが消えた。
5:14 イエスは、彼にこう命じられた。「だれにも話してはいけない。ただ祭司のところに行って、自分を見せなさい。そして人々へのあかしのため、モーセが命じたように、あなたのきよめの供え物をしなさい。」
5:15 しかし、イエスのうわさは、ますます広まり、多くの人の群れが、話を聞きに、また、病気を直してもらいに集まって来た。
5:16 しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。
世界には色々な病気があります。
昨年はアフリカでエボラ出血熱が大流行して、世界を恐怖させました。
エイズは、治療する方法が見つかったとされていますが、それでもその拡大は留まる事を知らず、どんどん広がっていると言います。
癌と言う病気は、日本ではもうふたりにひとりがかかると言われるくらい、当たり前の病気になってきました。
聖書には、ツァラアトという病気が出てきます。
今日は、このツァラアトについて少しお話ししながら、ツァラアトを患った男性との出会いの中で、イエス様は何をしたのか、一緒に学んでいきたいと思います。
① ツァラアト
ツァラアトは、旧約聖書の時代から出てきて、人々を恐れさせていた思い皮膚病です。
何度かお話ししている事ですが、これは以前まではらい病と訳されていた言葉ですね。
皆さんが持っている聖書には、まだらい病と書かれているかもしれません。
この言葉がらい病と訳されていたために、たくさんのらい病患者が差別を受けたという悲しい歴史があります。
その事もあって、新改訳聖書の第三版からはらい病ではなく、原文をカタカナで表記したツァラアトと言う言葉に変わりました。
実際、この病気はらい病とは全然違うものとして描かれているように思います。
この皮膚病に冒されるとその場所が白くなると表記されていますし、布や皮、家の壁にツァラアトができた時には・・・と書かれいるところもあるからです。
こういう表現を見ていると、カビか何かの一種のようにも思えますが、ツァラアトとは結局何なのか、結論は出す事はできていないようです。
まぁそれがどんな病気であったとしても、この病気は恐ろしい病気として描かれています。
ツァラアトは、治療する方法がなく、治る見込みも全くない病気でした。
他の人たちから完全に隔離され、死を待つしかないという絶望的な病気だったのです。
でも聖書では、この病気は肉体を冒す恐ろしい病気だっただけでなく、霊の死に至る病として、罪を象徴的に表している病気でもありました。
だから聖書には、この病が癒される時に「治る」という言葉ではなく、「きよくなる」という言葉が使われているのです。
しかしそのために、この病を患った人には、肉体的な病気の苦しみだけに留まらない悲劇が待っていました。
彼らは霊的に汚れたものとされ、その汚れは触っただけでも移ってしまうものとされました。
そのため、誰からも触られる事がなく、人々は近づく事さえも嫌がり、彼らは忌み嫌われ、呪われた者たちとされたのです。
どれほどの孤独、どれほどの悲しみを彼らは背負ったことでしょうか?
今日、イエス様の元に来た人は、全身がこのツァラアトに冒された人でした。
ツァラアトに冒されている人は、隔離されていなければならなかったのですから、この人がこの町に来てイエス様に会おうとするのは、明らかな律法違反です。
しかも全身が白いもので覆われているのですから、人前で隠し通す事もできません。
人々からは嫌がられ、白い目で見られ、露骨に嫌な顔をされた事でしょう。
彼がイエス様と会うために、大勢の人たちのいるところに出てくることは、大変な勇気を必要としたはずです。
しかし彼の内には、イエス様の元に行けば自分は救われる、癒されるという信仰がありました。
この出来事があったのは、イエス様が活動を始めてまだ間もない頃でした。
噂が広がっていたとは言え、これほど強い確信を持って、行動に移すほどの根拠はなかったはずです。
なぜこの人は、これほどの信仰を持つことができたのでしょうか?
聖書にはその理由が書かれていません。
でも、僕はこの人が、救いと癒しを神様に祈った結果なのではないかと思います。
ツァラアトという絶望的な病は、彼から全ての可能性を奪い、彼は神様に頼るしかない状況に陥りました。
しかしその状況は、彼に神様を求め、探し、叩き続ける信仰を与えたのです。
彼の祈りに対する答えは、ナザレのイエスの元に行くという導きでした。
彼は神様の導きに、従順に従ったのです。
私たちが心から求める時、神様は私たちが進むべき道を示して下さいます。
そして、私たちがそれに従うなら、道は拓けていくのです。
私たちに与えられている苦しい状況は、もしかしたらこの人のように、心から神様を求めるためなのかもしれませんね。
② お心ひとつで
ツァラアトに冒されたこの人は、イエス様を見ると、ひれ伏して願いました。
5:12c 「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」
この人の言葉には、イエス様を神として信じ、神様の御心だけを求める姿勢を見る事ができます。
しかし、「どうしてこんな目に合わせるのですか」と、神様を責めるような態度もありません。
罪の中にある自分がこのような事になるのは、当然の事として受け止めている。
それでも、この状況はあまりに辛く、苦しい。
このまま、病の中で学ぶべきことがあるというなら、それも甘んじて受け入れる。
でも、こんな私を主が助けて下さるなら、そのお心一つで私は癒されます。
全ては、主のお心次第。
どうかそのお心を示して下さい。
そんな思いが伝わってくるような気がします。
こうして、純粋に御心だけを求めるツァラアトの人に、イエス様はどうしたでしょうか?
5:13 イエスはてを伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに、そのツァラアトが消えた。
イエス様は、この人に手を伸ばし、彼に触ったと書かれています。
この人を癒すために、イエス様はわざわざ触れる必要があったでしょうか?
いいえ、イエス様はこの人が言うように、お心一つでこの人を癒す事もできたでしょう。
でも、イエス様は手を伸ばし、わざわざこの人に触れたのです。
こういう所に、イエス様の優しさが現われてきますよね。
恐らく長い間、誰にも触れられたことがない、忌み嫌われた存在となってしまった彼に、何年、何十年ぶりかに自らの手で触り、言葉だけではない神様の愛を届けたのです。
その時、彼を長年悩ませていたツァラアトが、彼の体から消えました。
彼は癒され、ツァラアトという呪いから、完全に解放されたのです。
③ きよくなれ
さて、ツァラアトは重い皮膚病であるというだけでなく、罪という病を表している事をお伝えしました。
という事は、この話はツァラアトと言うわけのわからない病に冒された人だけの話ではないという事です。
罪という病は、私たちのものでもあるからです。
私たちはみんな、罪という、深刻な、死に至る病を患っています。
私たちは何をする事が罪で、何をする事は罪ではないかという考え方をしてしまいがちで、そのように考えると自分はそれほど悪くないのではないかと思うかもしれません。
でも罪の問題は、その行いそのものにあるというよりも、神様との関係の中にあります。
私たちは創造主である神様から離れ、神様が創って下さったような素晴らしい生き方ができなくなってしまいました。
私たちが互いに争ったり、搾取したり、裏切ったり、傷つけたり、破壊したり、問題が起こり続けてしまうのは、神様から離れている事が原因なのです。
そして、いのちの源である神様から私たちが離れたという事は、私たちの内に命がなく、死と滅びの道を歩んでいるのだという事を意味しているのです。
パウロは罪による支配とその呪いについて、このように記しています。
ローマ7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
7:19 私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。
7:20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
そして、その呪いによる苦しみをこのように訴えているのです。
ローマ7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
罪のみじめさ、罪がもたらす死の呪い、この苦しみから私たちを癒し、きよめ、私たちを自由にしてくれるのは、イエス様なのです。
皆さんは、イエス様によって、この病をきよめていただいたでしょうか?
厄介な事に、私たちの心はせっかく罪から解放されても、その次の瞬間にはそこに戻ってしまうという弱さを持っています。
私たちは、必要であれば何度もイエス様の元に行き、癒され、きよめられる体験をしながら、神様が歩ませて下さる道に従っていく必要があるのです。
私たちにとって何よりの希望は、神様から離れて罪の呪いの中にある汚れた私たちが、そのままでいるのではなく、癒しきよめられる事が主の御心だという事です。
主は、こんな私たちにも手を伸ばし、触れて下さり、私たちの心を温めて下さいます。
皆さんは、その事を信じるでしょうか?
イエス様の元に行きませんか?
そして、何度でも、何度でもきよめていただこうではありませんか。