ルカ24-13-32 『エマオへの道』 2009/04/19 松田健太郎牧師
ルカ 24:13~32
24:13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。
24:14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
24:15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
24:16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
24:17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。
24:18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」
24:19 イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。24:20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。24:21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、24:22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、24:23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。24:24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」
24:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。24:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」
24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
24:28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
24:29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。
24:30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
24:31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
24:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
ある事柄に関して、祈り続けているのにどうも思うとおりには行かない事があります。
癒されるようにと祈り続けている病が治らない。
家族の救いを何年も祈り続けているのに、ますます離れていくばかりだ。
希望する進学先や仕事に就く事ができない。
そういう思いをした事がないクリスチャンは、たぶん祈った事がない人なのではないでしょうか。
わたし達の思いは神様の御心から離れているので、思いの通りにはいかない事の方が多いのです。
祈っている内容にもよるでしょうが、わたし達は思い通りに行かない時に、落胆したり非常に悲しい気持ちなったり、場合によっては絶望したりするのではないでしょうか?
2000年前、イエス様の周りいた人たちの多くも、そんな絶望感を味わう事がありました。
彼らは、イエス様こそがメシヤであり、ユダヤ人たちの王になる方だと信じていたのです。
「やがてイエス様がイスラエルの真の王として立ち、ローマ帝国の圧制からユダヤ人を解放してくれる。
そしてイスラエルは、神によって統治される国となり、これから世界が変えられていくこととなるはずだ。」
これが、この当時のユダヤ人たちが一般的にもっていたキリストのイメージです。
しかし、彼らのその思いも虚しく、イエス様はローマ帝国に捕らえられ、十字架にかけられて死んでしまいました。
その時に彼らが感じていた失望、落胆、絶望。
これから全てが良い方向に進むと思っていたのに、神様がやっとその御顔を見せてくださったと思っていたのに・・・。
① エマオに向かう弟子
さて、イエス様の弟子たちがふたり、エルサレムから11km離れたエマオという村へと向かっていました。
この弟子のうちのひとりは、クレオパという人であったと書かれています。
僕は長い間、このふたりの弟子たちと言うのは、二人とも男だっただろうと勝手に思っていました。
しかし、ある画家が書いたこのシーンでは、ふたりの内のひとりは女性として描かれているんですね。
さらに言うと、このふたりの弟子たちは夫婦だったのではないかという話もあります。
それは、この話の終わりのほうで、彼らが自分たちの家にイエス様を招待しているからです。
ふたりは一緒に住んでいたという事だろうと思えるんですね。
そうしてこのシーンを想像してみると、イメージが更に膨らむのではないでしょうか。
彼らはイエス様をメシヤと信じて、自分の一生をイエス様に捧げたいと思って仕えていました。
他の人々と同じ様に、このイエス様が全てを変えて下さるという希望を持っていたのです。
しかし、イエス様が十字架にかけられて、葬られたとき、彼らの全てが終わりました。
これまで抱いてきた自分の思いは砕かれ、夢は敗れ去った。
そんな絶望感の中を、この夫婦は重い足取りで、自分たちの家があるエマオへと向かって歩いていたのです。
エルサレムを出る前に、彼らはひとつの噂を耳にしていました。
それは、マグダラのマリヤが墓に行った所、イエス様の体が墓の中からなくなっていたと言う話です。
しかも、御使いたちが現れて、「イエス様は生きている。」と言ったらしい。
そんな馬鹿なことはないにしても、どうやら墓の中からイエス様の遺体がなくなったことは本当のようだ。
では、いったい誰がそのお体を持ち出したりしたのだろう。
誰がそんなひどい事をしたのだろう。
そんな風に、この夫婦は話し合っていたのです。
そこにひとりの人が近づいてきて、ふたりに声をかけました。
それは何と、復活した本人であるイエス様だったんです。
しかし、ふたりはそれに気がつきません。
そこでイエス様は「わたしなら大丈夫。心配をかけたね。こうして生きているよ。」って声をかけてあげればいいだろうと思うのですが、イエス様は、「そこで話しているのは何のことですか?」と声をかけました。
そしてイエス様は、それがイエス様だと気がつかない弟子たちとともにしばらく一緒に歩きながら話をしたのです。
ここで何が起こっているかわかりますか?
イエス様は、彼らにいたずらをしているんです。
まるでドッキリカメラみたいですよね。
神様って本当にオチャメというか、ジョークやいたずらが好きなのです。
気がつかない弟子たちを、イエス様は一体どんな表情で見守っていたのでしょうか。
わたし達は夢が破れて辛い時、苦しい時こそ笑いが必要です。
神様は、わたし達にそのような喜びをもたらしてくださいます。
詩篇 30:11 あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。
あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。
わたし達の神様は、本当にジョークがわかるユニークな神様だから感謝です。
② 私の思いと神様の計画
さて、それにしてもこの弟子たちはどうして、そこにいるのがイエス様だとは気がつかなかったのでしょうか?
このふたりもイエス様の弟子だったわけですから、イエス様の顔を見た事があったはずです。
それにもかかわらず、イエス様の復活の噂まで聞いていながら、そこにいるのがイエス様だと気がつく事ができなかったのはなぜなのでしょうか。
第一に、それは彼らがイエス様の復活を信じることができなかったからです。
わたし達がイエス様の復活を信じる事ができないなら、わたし達の霊的な目は盲目です。
霊的に盲目の状態であれば、霊的に復活を遂げたイエス様を見ても、そうと認識する事ができないのです。
多くの人たちが、「見れば信じる。」と言いますが、霊的に盲目である以上、実際には「見ても信じることはできない。」のです。
復活のイエス様というのは、死んだ人がただ蘇生したというものではなくて、霊的な復活でもあるのだという事なのです。
彼らがイエス様を認識する事ができなかった第二の理由は、彼らが自分の思いや問題に目を捕らわれていたからです。
これと同じ事が、わたし達にも良く起こります。
わたし達は問題の中にあるとき、解決法を自分で決め付けてしまうあまり、神様が与えて下さる導きや答えを見る事ができなくなってしまう事があります。
祈っていても、自分の中で答えを決めてしまっているので、それ以外の結果を答えとして見出だす事ができない。
自分の考える解決とは違う神様の声を、自らシャットアウトしてしまうのです。
結果として、祈りの答えを聞く事ができなくなってしまっているのではないでしょうか?
神様はこの様に言っています。
イザヤ 55:8 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――
55:9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
わたし達は、自分が考える答えに執着するのではなく、もっと神様を信頼するべきです。
そして、もっと素直に御声に耳を傾けなければならないのです。
③ 共に歩んでくださる主
人々が、政治的なメシヤを求めて、社会的な変革を求めていたとき、神様の計画は霊的な変革を人類にもたらすということにありました。
その様に自分の思いに捕らわれて主の計画を見る事ができなかった弟子たちに、イエス様は哀れみをこめてこの様に言いました。
24:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
24:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」
でもイエス様は、怒ってそう言ったのではありませんし、軽蔑の思いによってこの様に言うのではありません。
だからイエス様は、そんな弟子たちを見捨ててしまうのではなく、エマオまでの道のりを共に歩み、その間ずっと聖書の中に何が書かれているかを語って下さったのです。
これと全く同じ事が、わたし達の人生にも起こっています。
わたし達の思いを遠く超えた神様の計画が、わたし達の上にもあるのです。
しかし、わたし達はそれを悟る事ができないで嘆いている。
そんなわたし達を主は叱って下さり、それだけではなく、共に歩んでくださるのです。
共に歩んでいながら弟子たちにはそれがイエス様だと気づく事ができなかったように、わたし達もイエス様が一緒に歩んで下さっているとは思えないかもしれません。
しかしイエス様は、こんなわたし達と共に歩んでくださり、わたし達に語り続けてくださっているのです。
後になって、それがイエス様だったと気がついてから、ふたりの弟子たちはこう言ってこの出来事を振り返っています。
24:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
今、耳を澄ましてください。
イエス様は今もわたし達に語り続けてくださっているはずです。
イエス様の声が、皆さんの心の内にも熱く燃えているのを感じないでしょうか?
以前にもお話しましたが、“足跡の夢”という有名なお話で、今日のメッセージを閉じたいと思います。
『足跡の夢』
ある晩、ひとりの男が夢を見た。
彼は、砂浜の上をイエス様と一緒に歩いていた。
後ろを振り向くと、そこにはふたりの足跡がついていた。
空には、彼の今までの人生のいろいろな場面が映し出されていた。
彼が足跡をよく見ると、ところどころひとり分しか足跡がついていない場所があることに気がついた。
しかもそれは、彼が最もつらく、最も悲しく、最も寂しいときに限ってそうなっていた。彼は不安になって、主イエス・キリストにこう尋ねた。
主よ、あなたは私があなたを信じて歩むなら、どんなときでも一緒にいてくださると約束してくださったではありませんか。
それなのに、私が一番つらく、一番悲しく、一番寂しかった時、足跡がひとり分しか見えないのです。
私があなたを一番必要としていた時、どうしてあなたはわたしから離れてしまわれたのですか?すると、主は彼に答えた。
我が子よ、私はあなたを愛し、あなたから離れたことは一度もない。
あなたが最もつらく、最も悲しく、最も寂しかったその時、私はあなたを抱いて歩いたのだよ。