ルカ18:9-14 『パリサイ人と取税人の祈り』 2008/09/07 松田健太郎牧師
ルカ 18:9~14
18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
人との比較
高ぶり 批判 裁き
悔い改め 自分の罪を認めること 罪の報告ではない
罪を犯してもいいのではなく、罪を認めて主の前に出ることを主は喜ばれる
私達には神様の救いが必要 心の貧しいものの幸い
祈りというものは、信仰生活の基本であり、奥義でもあるとある先生が言いました。
私達が祈りを本当に理解した時、私達の信仰は成熟したと言う事ができると思います。
そういう意味では、僕自身の信仰もまだまだこれからだなと思いますね。
皆さんと一緒に成長していく事ができたらいいなと心から思っています。
そんなわけで、今日は祈りのシリーズ第2回目です。
先週もお話しましたが、祈りというのは神様との対話であり、神様との交わりですね。
ところがうっかりすると、神様よりも他の人の事が気になって、神様の御前にいるという意識が希薄になってしまいます。
祈りとは神様に向けられるものであって、他の人たちに向けられるべきものではありませんというのが先週お話した事でしたね。
今日もまた、イエス様が話してくださったことの中から、私達はどの様に祈り、どんな祈りを避けるべきかという事を一緒に学んでいきたいと思います。
① 独り言の祈り
イエス様はパリサイ派のユダヤ人たちがする祈りから、こんな祈りを紹介しています。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
みなさん、この祈りは誰に向いていると思いますか?
このパリサイ人は“『心の中で』こんな祈りをした”と書かれています。
この人は声に出して、人に聞かせるために祈っているのではないから、ちゃんと神様に向かっているじゃないかと思うでしょうか?
確かに一見は、曲がりなりにも神様に向かって感謝している祈りのように見えるかもしれないですね。
しかし、実はそうではありません。 ここで『心の中で』と訳されている言葉をもう少し正確に訳すと、『自分自身に向かって』という意味の言葉になっているのです。
彼が祈っている内容をよく考えてみると、彼が見ているのは神様ではない事がよくわかってきます。
彼はそこに居合わせた取税人を始めとして、周りの人たちと比べて自分の信仰がいかに素晴らしく、立派なものかという事を挙げ連ねています。
つまりこのパリサイ派のユダヤ人は、神様に祈っているような姿勢を取りながら、実は自分を他の人と比較して、優越感に浸りながら満足を得ているだけなのです。
「パリサイ派のユダヤ人って、本当にどうしようもない人たちだなぁ。」と言って済ませてしまうなら、それは彼らがやっている事と何の代わりもありませんね。
このようなイエス様の言葉が聖書に残されているのは、「私達がパリサイ派の人たちのようでないから」と言って優越感に浸るためのものではもちろんありません。
私たちもやはり、この様な祈りをしてしまいがちなのです。
私達の祈りも、神様に祈っているようなかたちを取りながら、実は自分の言いたい事を言っているだけに過ぎないという事が多いのではないでしょうか。
何度も同じ事を繰り返すようですが、祈りとは、神様に向かっているものであって、他の誰に対して発せられる言葉でもありません。 それは、周りにいる人はもちろんの事、自分に対して発せられるものでもないのです。
それによって自分の気持ちはよくなったり、自分を暗示にかけたりする事はできるかもしれませんが、それは祈りではないのです。
私たちは祈る時、神様の臨在を感じるかどうかはともかくとして、主がそこにいてくださるという事を意識するべきです。 時には、神様を感じられるまで、心を静めて神様を求めて待つ事も必要かもしれませんね。
焦って言葉だけ発してしまえば、それは祈りではなく周りの人たちに聞かせる言葉や、自分に対する独り言になってしまうのではないでしょうか。
それが神様に向けられたものでなければ、神様からの答えがあるはずもありません。
そこに神様の臨在を感じないなら、神様の応答を聞くことも難しいのではないでしょうか。
神様の臨在を感じるという事は、何も神秘的な体験をする事とは限りません。
そこにおられるお方に、意識を集中するというだけの事です。
神様が私たちから遠ざかる事はなく、必ずそこにいて下さるのですから。
② パリサイ人の祈り
さて、もう一度パリサイ人の祈りを見てみましょう。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
このパリサイ人がここで祈ったひとつひとつの内容それ自体は素晴らしい事です。
彼は人をゆすったり、不正をしたり、姦淫するような事もなく、人が年に一度断食する所を週に二回も断食したり、十分の一の献金はいつでも厳密に行っています。
これはすべて、ひとりの信仰者としては確かに素晴らしいあり方だろうと思います。
でも、これを主の御前に誇る必要がどうしてあるでしょうか。
私達が神様の御前にあって、他の人よりも何をしたとか、何ができると言う事がどれ程の意味を持っているでしょう。 神様はすでに全てのものを持っていますし、私たちに全てを与えることができるのも神様です。
しかし、私達がそれを神様の前で誇る時、私達はそれが神様からのものではなく、自分の手柄としているのです。
また、この祈りから言えるもうひとつの事は、このパリサイ派の人は、良い事しか神様に伝えていないという事です。 全ての人の中には罪があります。
『義人はいない。』と聖書が書いている通りです。
しかし、「私はこんなに素晴らしい事をしました。」という良い報告だけをして、彼は都合の悪い事には触れようとしないのです。
それは、彼が嘘をついて体裁を整えようとしているという事もあるかもしれません。
でも恐らくは、彼自身が罪を認めようとしていないのです。
このパリサイ人に限った事ではなく、この世界にあって多くの人たちは自分自身の中にある罪を認めようとはしません。 だからこそ、人との比較の中で自分より劣る者を見つけて優越感に浸ったり、逆に優れている人を見つけては劣等感を抱くという価値観の中にいるのです。
自分の罪を認めないから、私達は自分が得るべき権利だけを主張し、果たすことができていない義務は見ようともしません。
そして自分の中に罪を認めようとしないなら、私達には神様から恵として与えられる救いなんて必要としません。 イエス様が十字架にかかるような事をしなくても、私達は自分の行いによって自分を救う事ができると考えるのです。
でも、聖書にはこの様に書かれています。
Iヨハネ 1:5 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。
1:6 もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。1:10 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。
もし私達が、本当に神様と共に歩む道を歩き始めるのなら、私達は神様の光に照らされて、私たちがあるべき姿からどれ程離れているかという事がわかるはずです。
例えば有名な聖書箇所、Iコリント13章の愛に関する言葉を見てみましょう。
Iコリント 13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
この言葉を読んで、もし私達が「自分は人々をこの様に愛している。」と思っているとしたら、何と言う傲慢と言うか身の程知らずというか、自分が判っていないとしか言いようがないのではないでしょうか。
それが真理であり、素晴らしい事だとわかっていてもなお、それでも私達にはできないというのが事実であるはずです。
私達には自らの敵を愛して、彼らのために祈る事もとても難しいと感じます。
私たちは表面的には犯罪を犯した事がなかったとしても、心の中では常に人を傷つけ、殺し、姦淫し、神様を罵倒する存在なのではないでしょうか。
私達はどんなに人から尊敬されていたとしても、神様の正しさの前では、ただひとりの罪人でしかないのです。
③ 取税人の祈り
もう一方の、取税人の祈りを見てみましょう。
取税人というのは、彼らと同じユダヤ人ではありましたが、ローマ帝国に雇われて、帝国に支払う税金を取り立てる、下請け集金人の事です。 彼らは自分の仲間達を裏切り、ローマ帝国の手先となった人々でした。
彼らは、力のあるローマ帝国の威をかって仲間達から搾取し、しかもその額をごまかして大金をせしめるという事でみんなから嫌われていました。 実際、誰の目から見ても金の亡者で、酷い悪人達だったのです。
しかし、この取税人はこの様な祈りをしたのだと、イエス様は話しました。
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
取税人の祈りは、祈りとしてのかたちさえもなさないような、ひとつの呟きでした。
自分の罪深さに打ちひしがれて、神様の前にただ小さくなるしかなかった祈りです。
取税人はお金持ちでしたし、ローマ帝国の権威の下に権力も持っていました。
でも、神様の前ではそんなものは何の意味もないという事を、彼自身も理解していたのです。
素晴らしい行いをして、祈りとしても体をなしていたのはパリサイ人の祈りでした。
多くの人たちから尊敬され、神様に近いと思われていたのもパリサイ派のユダヤ人たちでした。
でもイエス様は、この様に言ったのです。
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
私達は、神様の前に自らの罪を明らかにするように導かれています。
皆さんは祈りの中で自らの罪を告白していますか?
罪の告白というと、カトリックの懺悔を思い出す方が多いようです。
元々は同じものだったのでしょうが、少し意味が変わってきているようにも思いますね。
私達が罪を告白しなければならないのは、神父や牧師というような人に対してではありません。
私達は神様の前に自分が犯した罪を認め、それを明らかにする時、自分が神様から与えられている救いを必要とするのだという事を告白するのです。
また、先ほど読んIヨハネの1章9節にはこの様に書かれています。
Iヨハネ 1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 私達は神様の前に自分の罪を明らかにするとき、その罪がもう赦されたという事を確認するのです。
ですから、自分の罪を認めてそれを告白するという事は、自分が罪深くてダメだといって落ち込む事ではありません。 罪の告白を通して、私達はその罪が赦された喜びに満たされるのでなければ、罪を主の前に告白する意味はないのではないでしょうか。
私達はそこで赦されている事を確信するのでなければ、やはり神様の救いを拒絶しているのです。
さて、今日はこれから聖餐式ですが、聖餐式は私達がパンとぶどう酒を分かち合う事を通して、イエス様の十字架を通して与えられた罪の赦しを思い出し、確認するためのものです。
この聖餐式を前に、いま少し静まって自分の中にある罪を見直し、私達がイエス様の十字架を必要としている事をもう一度見直す機会にしたいと思います。
この時間を通して、皆さんが抱えている罪という肩の荷を降ろし、罪赦された喜びを新たにして礼拝を終えることができるようにと願っています。
それでは静まって、それぞれに罪を告白する祈りをしましょう。