ルカ5:17-26 『中風の人を癒す』 2009/02/15 松田健太郎牧師

ルカ5:17~26
5:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていた。イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。
5:18 するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。
5:19 しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真中のイエスの前に、つり降ろした。
5:20 彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。
5:21 ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」
5:22 その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。
5:23 『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。
5:24 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。
5:25 すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。
5:26 人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、「私たちは、きょう、驚くべきことを見た。」と言った。

僕は小さい頃、喘息をもっていました。
気温が変わるとすぐに発作が出てしまうので、両親も大変苦労したそうです。
物心ついた時から、喘息の治療のために色々な病院に行き、いろいろな手を尽くしましたが、何をやっても決定的な効果はなく、月日だけが過ぎていく感じでした。

さて、僕が小学校三年生のとき、隣の家の猫が子供を産んだというので、その内の一匹を引き取る事になりました。
常識的に考えれば、猫の毛はアレルゲンになるので、喘息があるなら本当は猫なんて飼ってはいけないんです。
しかし、僕がお願いにお願いを重ねて、その猫を飼ってもいいという事になりました。
僕はその猫を、自分の妹のように大事にして、世話をしたんです。

すると不思議な事に、あれだけ何をしても治らなかった喘息が、その時からピタッと治ってしまったんです。
本来なら、喘息の原因になりかねない猫を飼う事によって、僕の喘息は治りました。
それは、僕の喘息は心の問題が原因であって、体の問題ではなかったからです。
だから体をどれだけ治療しようとしても、意味がなかったんですね。
猫を飼う事が僕の心にとって大きな力となり、それによって喘息が完全に治ってしまったのでした。

さて、わたし達は色んな事柄において、物事の本質を見誤るという事があります。
問題の表面的な部分だけを見て解決しようとしても、根本的な解決にはなりません。
例えばわたし達は、安定した収入があれば、自分を愛してくれる配偶者がいれば、あるいは自分の物欲を満たしてくれる何かがあれば自分は幸せになれると思ったりします。
しかし、その様な表面的な必要がどれだけ満たされたとしても、わたし達は本当の意味で幸せになれるわけではありません。
わたし達の本当の問題は、もっと本質的な部分にあるのです。
そして、神様はわたし達以上に、わたし達が本当に必要としているものをご存知なのです。

① 中風を患っている人
さて、先週のお話でもそうでしたが、イエス様はとっても有名になっていたので、たくさんの人たちがイエス様の元へと押し寄せるようになっていました。
この時イエス様は、神様の力によって人々の病を癒していたんですね。
「あの、イエスという人の所に行けば、どんな病でもたちまちにして癒されてしまう。生まれつき目の見えない人の目が開き、歩けない人が踊りだし、死人まで蘇る。」
そんな噂を聞きつけて、我も我もとたくさんの病人が、イエス様の元を訪れるようになっていたのです。

さてそこに、中風という病を患った人を連れて、友人たちがやってきていました。
中風という病を、皆さんはご存知でしょうか?
これは、脳卒中や脳出血の後遺症として表れる症状で、体が思い通りに動かなくなる事。
つまり、全身あるいは半身麻痺の状態をいうんですね。

体が動かないので、この人は床に寝たままの状態で、友人たちに運ばれてきました。
彼の友人たちは、イエス様の噂を聞きつけて何とか癒してもらえないかと思ってやって来たわけです。
しかし、そこにはあまりにも多くの人たちが集まっていて、イエス様の目の前にたどり着くことが困難でした。
せっかくここまで連れて来たのに、このままでは順番が来る前に一日が終わってしまう。
友人たちは思いを巡らして、ひとつの方法を思いつきました。
彼らは中風の友人を連れて、その家の屋上に登ったのです。

この当時のイスラエルの家は、多くの場合屋根の部分が平らになっていて、登る事ができる作りのものもありました。
彼らはそうして屋上に上ると、なんと家の屋根に穴を開け、そこから中風の友人をイエス様の前に吊り降ろしたのです。
当時のイスラエルの家は簡単な作りでしたから、穴を開ける事も、また直すのも簡単ではあったでしょうが、それにしても何と非常識で迷惑な話でしょう。
しかしわたし達は、彼らのこの行動から3つの事をうかがう事ができます。

ひとつには、彼らには信仰があったという事です。
イエス様なら癒してくれるという確信がなければ、人の家の天井に穴を開けるなどという迷惑だけど大胆な事は、とても出来なかった事でしょう。

ふたつ目に、彼らは必死だったという事です。
穴を開けて友人を吊り下ろすまでに、彼らはたくさんの罵声を受けたでしょうし、妨害もされたかもしれません。
しかし、彼らはどんな非常識な手段に訴えてでも、何としてもイエス様に癒してもらいたいという思いがあったのです。

そして三つ目に、彼らは中風を患ったこの友人を愛していたという事です。
愛さえあれば人に迷惑をかけてもいいという事ではもちろんありません。
でも、愛があったからこそ、彼らにはこれだけの行動が起こせました。
愛は私たちに行動を起こさせるのです。

彼らの愛と信仰が、困難を突破させて中風の友をイエス様の元へと連れて行きました。
わたし達が、愛と信仰をもって行動するときにも、突破口は必ず開かれます。
わたし達は、時には失敗する事もあるかもしれませんが、このような信頼と大胆さをもってイエス様の元に行きたいものですね。

② あなたの罪は赦されました
さて、これほどの想いをもって友人をイエス様の前に吊り降ろすと、イエス様は怒るでもなく、その信仰をよしとされました。
そしてこの中風の人に向かって、このように言ったのです。

5:20 彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。

「あれ? いやいやちょっと待ってください。」と、彼らは思ったかもしれません。
彼らは、中風を癒してもらうためにここまで来たのです。
罪を赦してもらうためではありません。
イエス様はどうして「罪を赦す」なんて言われたのでしょうか?

確かに神様は、わたし達が望むものを望んだとおりにかなえて下さるとは限りません。
わたし達は自分にとって本当に大切なものが何か、自分が思っているほどはよく知らないからですね。
わたし達は自分の中の欲望に任せて、むしろ自分に害を与えるものを求めてしまう事があります。
包丁でちゃんばらごっこをしたいという子供に親が包丁を渡さないのと同じように、神様がわたし達に望むものを何でも与えてくれるわけではないという事はあります。
しかし、この場合はそうではありません。
イエス様はこの時、問題の表面的な事ではなく、本質を示してくださったのです。

わたし達は忘れてしまいがちですが、わたし達にとってもっとも大切な事は、わたし達の罪が赦されるという事です。
わたし達にとって、神様に罪を赦していただくこと以上に重要な事はありません。
イエス様はそのために地上に来られたのであり、そのために十字架の上で死んでくださったのです。

わたし達の病気、人間関係の問題、労働の苦しみ、そして死。
これらはすべてわたし達の中にある罪から起こった問題です。
罪が赦される事によって、罪から起こる問題の全てが直ちに取り除かれるというわけではもちろんありませんが、わたし達は何にも優先して、まず罪の赦しというもっとも本質的な問題を解決する必要があるのではないでしょうか。

しかし実際には、多くの人達がこの罪の赦しというものをちゃんと受け取れないでいます。
自分の罪を認めたくないからです。
多くの場合、わたし達は自分を被害者だと思ってしまっているのではないでしょうか?
「どうして自分がこんな目に合わなければならないんだ。」
「あいつがちゃんとしていれば、こんな事にはならなかったのに。」
親のせいにしたり、上司のせいにしたり、恋人や配偶者のせいにしたり、時にはアダムとエバや、神様のせいにしたりしてはいないでしょうか?
神様に背いてきたわたし達自身の罪を思えば、わたし達が受ける苦しみはむしろ当然の結果です。
その事を理解せずに、自分の罪を認めることなく、痛みや苦しみだけを取り除こうというのは、あまりに虫のいい話ではないでしょうか・・・。

聖書にはこのように書かれています。

Iヨハネ 1:5 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。
1:6 もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。
1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
1:10 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

わたし達が自分の罪を認めれば認めるほど、罪が赦された喜びも増します。
一方で、自分の罪を認めない限りは、わたし達が問題の本質から本当に離れる事も決してないのです。
わたし達は、喜びをもって罪の赦しを受け取ろうではありませんか。

③ 罪を赦す権威
さてその時、「あなたの罪は赦された。」という言葉を聞いて、異常なまでの反応を示した人達がいました。
イエス様がどんな教えをしているかを見張るために来ていた、パリサイ派の人々と、律法学者たちです。

5:21 ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」

彼らは、人の罪を赦す権威をもっているのは神様だけだという事を理解していました。
だからこそ、イエス様が「あなたの罪は赦された。」などと言うのは聞き捨てならなかったのです。

彼らの中にその様な思いが起こっているのを知ったイエス様は、この様に言いました。

5:22 その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。
5:23 『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。

さて、皆さんはどう思われますか?
「あなたの罪は赦された。」と言うのと、「起きて歩け。」と言うのと、どちらがやさしいでしょうか?
これはまぁ、色んな考え方があると思うんですね。
罪を赦す権威は神様だけのものですから、「あなたの罪は赦された。」なんて事を誰でも簡単にいう事はできないでしょうし、健康な人ではなく全身麻痺の人に対して「起きて歩け。」なんて事も言えるものではありません。
どちらも、神様の力なしには不可能な事です。
でも、罪が赦されたという事に関しては、何か目に見えて変化が起こるようなことではありませんね。
言葉だけで何とでもごまかす事ができるようなものでもあります。
しかし、全身麻痺の人に対して「起きて歩け」というのは、その結果が確認できる事です。
実際に起きて歩く事がなければ、言ったイエス様はすぐに嘘つきだという事になります。
そういう意味では、「あなたの罪は赦された。」と言うのは口だけで何とでも言えることですが、「起きて歩け。」というのは容易く言うことができない事なのです。

イエス様はこのように続けます。

5:24 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。
5:25 すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。

先週も言った事ですが、イエス様はただみんなが頼むからとか、かわいそうだからと言う理由だけで奇跡をなさる方ではありません。
イエス様が起こした奇跡のほとんどは、イエス様が神様であると言う事の証明です。
イエス様は、その言葉がすべて真実であり、偽りがないという事を通して、「あなたの罪は赦された。」という言葉も嘘ではないという事を示しました。
その奇跡を通して、イエス様が罪を赦す権威を持っている神そのものだということを証明して見せたのです。

罪の赦しは、この人たちだけに与えられたのではなく、今を生きる私たちにも与えられているものです。
皆さんは、自分の罪を認め、その罪の赦しを受け取られているでしょうか?
そのほかのどの様な奇跡にも優って重要な罪の赦しを、ひとりでも多くの方が受け取る事ができますように。
そして、この出来事を通して人々が主の御名をあがめたように、私たちと共に限りない主への畏れがあふれますように。

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