エペソ1:15-23 『 エペソ2~キリストのからだ 』 2013/08/18 松田健太郎牧師
エペソ1:15~23
1:15 こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、
1:16 あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。
1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
1:20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。
さて、先週からエペソ人への手紙を読み進めているわけですが、先週はどういうお話だったか覚えているでしょうか?
手紙ですから、挨拶の言葉から始まっているわけですが、パウロはこの手紙を神様への賛美と共に初めていました。
神様を賛美する3つの事がありましたが、それは神様がまずわたし達を選んで下さっていた事、第二にイエス様が十字架にかかって下さった事による罪の贖い、第三に、聖霊を通して与えられている神様からの保証です。
神様が選び、罪を清め、欠けた部分を補って下さているわけですが、こうして見ると三位一体の神様が描かれているんですよね。
前回メッセージを準備している時には、気付きませんでした。(笑)
父なる神、子なる神、聖霊なる神の働きが重なり合って、わたし達にクリスチャンとしての新しい歩みを歩ませて下さる。
そこに、神様への感謝と賛美があるという訳です。
パウロの言葉は本当に奥が深いですね。
それだけに、難しくてわかりにくい部分があるのも確かな事です。
でも、だからこそ面白いんです。
一緒に読み進めて行く中で、その面白さも伝わるとイイナと思います。
それでは、本分に戻って行きましょう。
① 神を知るための知恵と啓示の御霊
神様への賛美の次に、パウロが書いているのは、この手紙を読んでいる人達のために祈る祈りの言葉です。
この祈りの中でパウロは、異邦人クリスチャンたちにとって最も必要だと思われる事に関して祈っています。
それは、わたし達が本当に神様の事を知って、理解するようになる事です。
1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
まず最初に、パウロは神様が、『神を知るための知恵と啓示』を与えて下さるようにと祈り求めています。
わたし達が神様を正しく知り、理解することと、神様からの直接の言葉である啓示を受ける事が大切なのです。
これはそのまま、わたし達が求めるべきもっとも大切なものという事ができます。
なぜなら、わたし達クリスチャンが成長するという事は、わたし達と神様との関係が深くなるという事だからです。
人間関係も同じですが、わたし達は相手を知る事と、対話することなしに関係が深まる事はありえないのです。
わたし達は、罪人となって神様との関係が完全に切れてしまった状態にありますから、わたし達の内に住んで下さる聖霊の助けなしに、神様を理解する事はできません。
でも、クリスチャンであっても、神様の事を正しく理解せず、対話ができることさえ知らない方も少なくはありません。
わたし達はまず、神様を正しく知る事です。
だからわたし達は、神様を知る事がまず大切なのです。
神様は、わたし達ひとりひとりを完全なものとして作った事。
その神様に背き、全てを台無しにしてしまったわたし達を、それでも神様は愛して下さっているという事。
神様は、わたし達と対話して、仲良くなりたいと思っている事。
神様は世界を創られた方だから、わたし達の問題の全てを解決する事ができる力を持っている事。
神様はやがてこの世界を終わりにし、全てを新しくしようと計画されている事。
神様は怖くてイジワルな存在だと思っていたら、そんな神様に心を許す事なんてできないですよね。
いつも何かに心配していきなければなりません。
わたし達は、何を信じているかによって価値観や行動が変わって来る生き物です。
わたし達の生き方や目標、精神状態も、わたし達が何を信じているかという“信仰”によって生きているのです。
皆さんが座っているイスが、『こわれるかもしれない』と信じていたら、くつろいで座っている事なんてできないはずですよね。
だから私たちにとって、神様を正しく知り、正しく信じる事はとても大切な事なのです。
わたし達が神様の偉大さ、素晴らしさを知れば知るほどに、わたし達は愛と、喜びと、平安を持って生活していく事ができるようになります。
自分の幸せを第一に求める必要もなくなり、人のために仕える事の素晴らしさを知る様にもなっていくでしょう。
そしてそれは、聖霊が与えて下さる知恵と、啓示によって与えられるものなのです。
わたし達は、心からそれを求めたいと思います。
② 教会はキリストのからだ
さて、その事を前置きとして、パウロはいよいよこの手紙の本題である、『教会とは何か?』という部分に入っていきます。
1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。
23節の、『教会はキリストのからだ』という言葉は、今日のメッセージのタイトルですが、この手紙の最大のテーマでもあります。
教会とは何か? と問われれば、ひとつ言えるのは、教会とはキリストのからだであるというのが答えなんです。
では、教会がキリストのからだであるというのはどういう事なのでしょうか?
それは、わたし達教会のかしらはイエス・キリストなんだという事です。
教会というと、わたし達にはどうしても、建物のイメージがありますが、建物は教会堂なのであって、教会の本質ではありません。
では、教会とは何でしょう?
クリスチャンの集まりでしょうか?
ある教団では、数人規模の集まりは伝道所と呼び、会員が一定数以上になって初めて教会と呼ばれるようになります。
でも、そんな事は聖書には書かれていませんね。
2人でも3人でもクリスチャンが集まる所に主はいて下さり、それが教会になりえます。
でも、ただクリスチャンが2~3人でもいれば、それが教会なのかと言うと、それはそれで違うような気がします。
では何なのかと言えば、キリストをかしらとしているかどうかという事なのです。
牧師がかしらではないんです。
また、脳みそはイエス様だから、わたし達は何も考えなくてもイイという話しではありません。
それではカルトになってしまいます。
考える能力が与えられているのですから、もちろんわたし達も考えるのです。
かしらであるイエス様は、指令を出し、からだであるわたし達はかしらに従うんだという事なのです。
イエス様が地上に来られた時、イエス様は貧しい人達と話し、病人を癒し、苦しむ人達を慰め、人々に神の国について教えました。
しかし、天に挙げられて父なる神様のもとへと帰ってしまった今、この地上にイエス様はいません。
その役割を果たすのが、僕たちなのです。
そのために、わたし達には聖霊が与えられ、神様の声を聞き、その働きをするために必要な力が与えられたのです。
もちろん、わたし達はひとりでイエス様と同じ力を発揮する事はできません。
だからわたし達は集まり、協力し合って神様のための働きをします。
それが、教会です。
クロスロードとか、○○教会とか、部分としての名前がついてはいますが、教会と言うのは本来、世界中の全てのクリスチャンがひとつとなって、初めてからだとしての役割を果たす事ができると僕は信じています。
そして、わたし達がかしらに従って行動を起こす時、そこには世界を創造し、わたし達を救ってくださった神様の力が満ち満ちているのだと、パウロは言っているのです。
逆に言えば、どれだけ大きな教会堂で、どれだけ沢山の人達が集まっていたとしても、キリストをかしらとしていないなら、それは教会ではなく、そこには神様が満ちないのです。
わたし達は、キリストをかしらとしているでしょうか?
そして、お互いに体としての繋がりを持っているでしょうか?
それは全て、神様を知る事から始まります。
栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、みなさんに与えて下さいますように。
アーメン。