エペソ2:1-10 『 エペソ3~神の傑作品 』 2013/08/25 松田健太郎牧師

エペソ2:1~10
2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
2:7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

エペソ人への手紙は、2章に入ってきました。
皆さん、エペソ人への手紙のテーマは何だったか、覚えているでしょうか?
大きく言えば、「クリスチャンとは何か?」「教会とは何か?」のふたつでしたね。
その中で先週は、「教会とはキリストのからだである」という話をしました。
これは、この後にもまだ出てきますし、エペソ人への手紙全体の中で語られている課題でもあるので、わたし達はこの事を念頭に置いてこの手紙を読んでいかなければなりません。

この流れの中で、わたし達は「では、教会を構成している私たちはどのような存在なのか?」という話を通して、もうひとつのテーマである「クリスチャンとは何か?」という事を考えて行く事になります。
一体、私たちクリスチャンとは何なのでしょうか?

① 神の作品
この答えを一言でまとめてしまうなら、今日のメッセージのタイトルになっているこの言葉に尽きます。
「わたし達は、神の作品である。」

こうして、単に“作品”と言ってしまうと、ただ神様に創造されたというだけの事に思えますが、わたし達はただそれだけの存在ではありません。
この“作品”と訳されている言葉は、“傑作”と訳す事のできる言葉でもあります。
私たちは、ひとりひとりが神様の“傑作”なのです。

でも、多くの翻訳では、この言葉を“傑作”と訳していませんし、私たち人間が神様の“傑作”であると本当に思う事ができる人も、決してたくさんはいないようです。
わたし達人類がこの地上でしている事を思えば、確かにそう思う事は難しいかもしれません。
戦争を繰り返し、自然を破壊し、肉欲にまみれ、互いに憎み合い、傷つけあい、「人類は地球の癌細胞だ」と言う人さえ少なくはありません。
一体何が起っているのでしょうか?

パウロはこの様に説明しています。

2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

神様が最初世界を創造した時、この世界は完璧でした。
全知全能の神様が、この世界をみてそれを「良かった」と言われたんです。
そして、自分の姿に似せて人間を創造した時、神様は「とても良かった」と言われ、創造の業を休まれました。
人間のいるこの世界は、神様にとって最高に素晴らしい状態だったのです。

しかしその後、わたし達人間は神様から離れ、反逆し、自分が神になろうとしました。
それからのわたし達は、罪によって神様の前に死んだ者となりました。
それだけでなく、空中の支配者と呼ばれている悪魔“サタン”の奴隷だったのです。

神様から離れて、罪にまみれた自分の思いと、悪魔のささやきに従ってきたわたし達のしてきた事は、神様が創造したこの世界と、最高傑作であるわたし達自身を破壊する事に他なりませんでした。
そして挙句の果てに、この全てを「こんな風に創った神が悪い」と神様のせいにしたりするわけです。
そんなわたし達は、神様の怒りを受けてしかるべき存在だったのです。

② 恵みのゆえに、信仰によって
神様は、罪を怒り、憎みます。
罪の存在を許しておくことができず、滅ぼさないではいられません。
罪はわたし達人間を傷つけ、滅びに向かわせるものだからです。

しかし神様は、罪人であるわたし達を憐れみ、愛しておられるのです。
神様の正しさ(義と言います)は、罪をいい加減に見過ごしておく事はできません。
しかし神様の愛は、罪人であるわたし達を決して見捨てておかず、救いだそうとして下さっているのです。

2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
2:7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

これは、わたし達がガラテヤ人への手紙を通してさんざん学んできた事ですから、もう一度話す必要がない事かもしれません。
わたし達の救いは、わたし達の行いによるのではなく、神様からの一方的な恵みによります。

2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
わたし達はただ、それを信じる信仰によって恵みとして、神様からの救いという贈り物を受け取ったのです。

③ 良い行いをするために創られた
ところがパウロは、続けてこの様にも書いているのです。

2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

救われるために良い行いをするのではありません。
しかし、救われたわたし達は良い行いをするのです。
一瞬、混乱してしまいそうですが、救われるためにする良い行いと、救われた後にする良い行いとでは全く違うんです。

救われる前のわたし達は、つまり神様との関係が断絶した状態にあるわけです。
神様との関係が断絶していれば、神様の御心を知る事も、求める事も出来ません。
神様との関係が断絶した状態のわたし達には、そもそも良い行いができないのです。
罪と言うのは、もともと「的外れ」という意味の言葉だというお話をした事がありますが、神様との関係が断絶した状態のわたし達がする事は、例えわたし達が良いと思っている事であったとしても、実はまったくの的外れなのです。

一方で、神様はわたし達を創った時、元々良い行いをさせるために創っていました。
それは、この地球を管理することであり、神様を愛することであり、互いを愛する事です。
そしてさらに、わたし達ひとりひとりに与えていた使命と言うものもたくさんある事でしょう。
そして、わたし達がひとりでは果たす事の出来ない、神様のからだとして果たすべき働きもたくさんあるのです。

わたし達が、神様との関係を回復し、クリスチャンとして成長するという事は、わたし達が本来創られた本当のわたし達に近づき、戻っていくという事です。
それによってわたし達は、“神様があらかじめ備えていた良い行い”をする事ができるのです。

そこには、神様が備えていた良い行いをしている、という自覚が伴うとは限りません。
わたし達は、自分がしている事にどのような意味があるのか分らなかったとしても、神様が示して下さるひとつひとつの事に忠実に従っている時、神様が備えられていた良い行いの中にあったりするのです。
という事は、そこに目に見える成果や、達成感があるとは限らないという事です。

聖書はこの様に教えています。

Iコリント 3:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
3:7 それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。

わたし達のからだの全てが、刈り取りをするとは限りません。
種まきをした人は、その種がどうなったかを知らないままなのかもしれません。
わたし達は、目に見える成果ばかりを気にするように教育されてしまっていますが、実際には成果が見えない事の方が多いでしょう。
必要なのは、満足感がそこにあるかどうかではなく、わたし達が今、神様に従っているかどうかという事なのです。

パウロはこうも言っていますよね。

ローマ 8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

わたし達に備えられている、良い行いとは何でしょうか?
それは、神様がご存知です。
小さな事から従っていきましょう。
その時わたし達は、神様が本来わたし達に与えていた、神様の傑作としての生き方に近づく事になるのです。
その成果を、今は観る事ができないかもしれません。
でもそれが、実際にどんな素晴らしい働きだったのかという事を、わたし達は天国で知る事になるはずです。

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