エペソ2:11-22 『 エペソ4~主にある聖なる宮 』 2013/09/01 松田健太郎牧師

エペソ2:11~22
2:11 ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、
2:12 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
2:13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。
2:14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
2:15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
2:16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
2:17 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。
2:18 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。
2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。
2:20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。
2:21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、
2:22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

エペソ人への手紙を一緒に読み進めています。
このシリーズを聞いたり読んだりして下さっている皆さんは、この手紙のテーマは何かという事を覚えていただけているでしょうか?
エペソの手紙は、「クリスチャンとは何か?」という事と、「その集まりである教会とは何か?」について書かれている手紙です。
これまでに語られてきた事を、少しまとめましょう。
著者であるパウロは、クリスチャンとは神様に選ばれ、贖われ、聖霊によって助けられている事。
神の傑作品として創造されたけれど、罪によって穢れてしまったこと。
そして、神様に立ち返るとき、神様が計画されていた良い行いを、わたし達は行うことができるのだということです。

また、教会とは天井に上ってしまったキリストの代わりとして存在するものであり、地上でのキリストの体として働く存在であるという事。
そのために、わたし達はイエス様を頭とする必要があるということです。

今日の箇所の中で、パウロは教会を3つのものによって例えています。
ひとつひとつを確認しながら、ともに考えて見ましょう。

① 神の国の国民
第一に、パウロは教会を、国民として例えています。

2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。

国民とは、どこの国の国民でしょうか?
それは、神の国の国民なのです。

かつてイスラエルは、神様から選ばれた民として、特別な誇りを持っていました。
それは、自分たちこそ神の国の民であるという誇りです。
そしてイスラエル人は、自分たち以外の民族は汚れた民として軽蔑していたのです。

でも神様は、そんなことのためにイスラエルを選んだわけではありませんでした。
神様が選んだからイスラエルは偉いのでも、聖なる国なのでもありません。
神様は、他の人々を神様の下に導くためにイスラエルという民族を選んだのです。
しかし、イスラエルは選民意識に酔いしれて、その役割を果たそうとはしませんでした。

ところが、神様の計画はその先にあったのです。
神様はイスラエルという民族の中から、御子イエス・キリストを生まれさせ、イスラエルだけではない、全ての人々の主としました。
だから、イエス・キリストを自分の主として迎え入れる人は、誰もが神の国の国民となるのです。

この教会はインターナショナル・チャーチですから、いろんな国の人たちが集まっています。
でも、どの国から来た人であったとしても、イエス・キリストを主として信じているなら、わたし達の国籍は神の国にあります。
わたし達は、すべてひとつの国民とされたのです。

実はイスラエル以外にも、自分たちを神の国として特別な存在だと思い込んだ愚かな国がありましたね?
それは、自分たちを大日本帝国と呼んでいた時代の日本です。
わたし達日本人は、自分を特別な存在だと思い込み、他国に侵略し、勝ち目のないアメリカにまで戦争を挑み、敗北しました。
わたし達日本人も、選民思想を抱きやすい民族だと言えるでしょう。

この手紙の中にも書いてあるように、神様はわたし達を神の国の民として選びました。
でもそれは、わたし達クリスチャンが選ばれたから偉いとか、クリスチャンでない人たちは選ばれていないからダメだと言うことではありません。
イスラエルが、人々を神様の元に導くために選ばれていたように、わたし達も人々に福音を伝えるために選ばれたのです。

わたし達は、愚かな選民意識ではなく、誇りだけを持っていたいものです。

② 神の家族
第2の例えは、教会は神の家族だと言うことです。
19節をもう一度見てみましょう。

2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。

これは、ちょうど一年位前にメッシー・チャーチと言うシリーズでお話してきたことと重なります。
わたし達クリスチャンは、イエス様を通して神様をお父さんと呼べる関係になりました。
それは、わたし達のお兄ちゃんがイエス様であり、全てのクリスチャンが主にある家族になったと言うことです。
家族は、会社や軍隊のような組織とは違います。
お互いを結ぶのは、役職でも階級でもなく、愛です。
でも、家族の中には問題もたくさん起こります。
会社や軍隊なら、役割に徹することや、表面的な関係だけを保つことで、影口を言うくらいで済むようなことも、家族の間は喧嘩になることだってあります。
でも、家族だから仲直りし、わかりあうことだってできるのです。

キレイ事ばかりでもないのが、家族としての関係ですが、わたし達は現代に見られるような機能不全家族ではなく、愛によって結び合わされたひとつの家族となって生きたいものです。

③ 主にある聖なる宮
パウロの3番目の例えは、わたし達が主にある聖なる宮であるという事です。

2:20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。
2:21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、
2:22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

宮というのは、神殿のことです。
わたし達は、それぞれ違う個性や性質を持っていて、決して整った形とは言えないかもしれません。
しかし、違う形の石や、パーツが組み合わせられることによってひとつの建物が建てられるように、わたし達はそれぞれが神様の緻密な設計図によって組み合わされて、ひとつの教会となるのです。

神様がわたし達を、この宮につながる者として選んだのなら、わたし達の中に、ひとりとして不必要な人はいません。
もしかしたら皆さんの中には、「自分はクリスチャンとして何の役に立つこともできていないんじゃないか」とか、「教会には必要ないんじゃないか」と思っていたとしたら、それは違います。
「自分には楽器も弾けない。」「子供も得意じゃない。」確かに、教会の中の奉仕としては、できる事がないかもしれません。
でも、この教会の中で奉仕をするかどうかが問題じゃないんです。
みなさんが家に帰ったとき、そこにいる家族を愛し、職場で喜びを分かち合い、神の国をもたらすことができるのは誰ですか?
他の誰でもない、みなさんではないでしょうか?

キリストの体として生きると言うことは、教会で何をするかと言うことではありません。
むしろ、教会から出た後、わたし達が神様の体として生きるということです。
日曜日の礼拝は、そのために整える場所でしかないんですよ。
そのために、ともに神様のみなを賛美し、御言葉に耳を澄ませ、互いに祈りあい、家族の交わりを体験し、教会の外での霊的な戦いに備えるのです。

そうして、違う形と大きさのわたし達が組み合わされてひとつとなる時、そこに神様の聖なる宮としての教会があります。
神殿も、教会も建物のイメージが先行してしまいますが、そこには建物なんかよりもっと大きいものが表されています。

神殿とは、神様が住まう場所です。
神様は偏在される方ですから、この宇宙のどこにでもいるお方です。
でも、「今、わたしはあなたとともにいる。」という事を表すために、神様は神殿を建てさせたのです。
わたし達が積み合わされて宮・神殿になると言うこと。
それはつまり、わたし達教会の中心に、神様が住んでくださっているということなのです。
神様が、いつでもわたし達とともにいてくださる。
いや、わたし達の内に住んでくださる。
それほど心強い事が、他にあるでしょうか?

パウロは、他の手紙の中でこのようにも言っています。

Iコリント 3:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
3:17 もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。

わたし達は、神の国の国民であり、神の家族であり、聖なる神殿である。
だからこそ、わたし達の上には神様の守りがあります。
わたし達は、その事を信じて、平安の中にありたいものです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です