エペソ3:1-13 『 エペソ5~光栄になる苦しみ 』 2013/09/08 松田健太郎牧師
エペソ3:1~13
3:1 こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。
3:2 あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。
3:3 先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。
3:4 それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。
3:5 この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。
3:6 その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。
3:7 私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。
3:8 すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、
3:9 また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。
3:10 これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、
3:11 私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。
3:12 私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。
3:13 ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。
エペソ人への手紙から、5回目のメッセージになります。
実を言うと、今日の箇所からお話をするかどうかという事で、少し悩みました。
今日の箇所は飛ばしてしまおうかとも思ったんです。
と言うのは、今日の箇所はこの手紙の本題から離れた、脱線の話だからです。
どうやらこうして話を脱線してしまうのは、パウロに限らず昔からイスラエル人の癖だったようで、話の本筋から離れてぜんぜん違う話になってしまうことも少なくはないんです。
そんなわけで、この部分は飛ばしてしまおうかとも思ったのですが、そうは言っても、これも手紙の一部ですから、もちろん意味があって書かれているわけです。
さらに今日は、知保子コストナーさんがゲストとしていらしている事もあって、今日だけいらっしゃる方もいるでしょうから、そう考えるとむしろこれまでの話から独立した話の方がいいかも知れないと思いました。
そのようなわけで、パウロが話の本筋から脱線してまで、この手紙の中で書きたかったことは何だったのか、一緒に考えていきたいと思います。
① 苦難の中で強いクリスチャン
パウロはこの脱線の部分を、このような言葉で書き出しています。
3:1 こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。
これは、この手紙のシリーズが始まった時にもお話したことですが、この手紙はパウロが牢獄から書いた手紙です。
クリスチャンでも、牢獄に入るんですね。
この時代は、キリスト教が迫害されていた時ですから、指導者でもあったパウロは見つかれば捕まってしまうのは当然の事でした。
それにしても、神様を信じていたパウロにも、こういう大変な状況は起こったわけです。
神様は守って下さらなかったという事でしょうか?
わたし達の人生には、いろんな問題が起こります。
それは、クリスチャンになっても同じことですよね。
教会によっては、「クリスチャンになったら祝福がある。」「悪い事が起こるのは祈りが足りないからだ。」と言うような人たちもいますが、残念ながら聖書はそんな事を言っていません。
パウロはこうして牢に閉じ込められ、最後には殺されました。
イエス様のほかの弟子たちも、それぞれ迫害を受け、大変な最後を遂げています。
何より、イエス様ご自身も、人々から裏切られ、十字架にかけられたではありませんか。
多くの日本人は、何かお願い事があったり、災いが起こらない様にお参りに行くわけです。
その宗教観から考えると、災いがなくなるわけでもないのに信じるなんておかしいんじゃないかと言うことになるかもしれません。
皆さんはどう思われるでしょうか?
しかし、パウロがこの事をどう考えていたかと言う事を見ていただきたいのです。
3:13 ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。
パウロは、自分自身に起こっているこの苦難を嘆き、悲しんでいたでしょうか?
この手紙を通して、エペソの人々に助けを求めていたでしょうか?
いいえ。
そうではなく、この手紙を読んでいる人たちに、自分が牢獄に繋がれてしまったからといって落胆しないでほしいと励ましの言葉を送っています。
「神様のために一生懸命に働いてきたのに、どうしてこんな目にあわなければ行けないんだ」なんて一言もつぶやきません。
それどころか、この手紙の冒頭では、神様を賛美する言葉で紙を埋め尽くしているくらいです。
ここに、クリスチャンの真髄はあるのではないかと思うのです。
良い事があって喜ぶことなんて、誰にだってできますよ。
しかし、悪い状況の中で平安を保ち、喜び続けることは、信仰がなければできない事なのではないでしょうか。
② なぜ強いのか
悪い状況、苦しい状況で喜ぶからと言って、別に苦しみそのものを喜ぶという事ではありませんよ。それでは、変態の世界です(笑)。
苦しい状況そのものを喜んでいるのではなくて、その中にあっても苦しみに負けてしまわない希望を持つことができるということなんです。
そこにある希望が何かと言えば、第一に「この命が尽きて肉体は滅んでも、その先にはより良いものが待っている」と信じているからです。
わたし達が今生きているこの世界より、もっと素晴らしい天国が待っているわけですよ。
今の苦しみが苦しみのままで終わってしまうだけなら救いがないですが、今の苦しみの先には永遠の楽園が待っているなら、わたし達は今の苦難にも耐える事ができるのです。
第二に、わたし達は「この苦難にも意味がある。」という事を信じる事ができるからです。
わたし達は、どんな苦しいことでも、そこに意味があるなら耐える事ができるのです。
でも、それがそれほど大変な労働でなくても、意味のないことには耐えられません。
だから旧ソビエトでは、囚人にひたすら穴を掘らせてそれを埋めるという作業を何日もやらせる事が、拷問にもなりうるわけです。
聖書にはこのような言葉があります。
ローマ 8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
パウロにとって、今囚われの身となってしまった事は、彼が異邦人に福音を伝えると言う使命を全うしたことの結果です。
そして、彼が囚人となって直接の伝道ができなくなってしまった事によっても、彼はじっくり考える時間が与えられてこの手紙を書く事ができたわけですから、意味を見出す事ができる困難だったわけです。
わたし達が経験することの中には、もっとその意味が見出しにくい困難もあります。
しかし、神様が万事を益としてくださる方だと信じているなら、わたし達は平安の中にいる事ができるのです。
第三に、困難の中でも神様がともにいて下さると信じる事ができるということです。
苦難の何が一番苦しいかと言えば、その苦しみを他の人に理解してもらえないときが一番苦しいのではないでしょうか?
それどころか、時には「自業自得だ」くらいの事まで言われたりすると、わたし達はその困難を耐えて乗り越えることは著しく難しい事となってきます。
しかし、例え独りぼっちになってしまったように感じるときでも、決して見捨てない神様が共にいてくださり、その状況を知ってくださっているのだと、わたし達は信じる事ができるのです。
神様は、乗り越えることのできない試練を与えない方です。
その神様が、この状況を知っていて、それでも助けの手を伸ばさないと言うことは、わたし達はまだ大丈夫だと言うことであるはずです。
そして、本当に助けが必要なときには必ず助けの手を伸ばしてくださる事を、わたし達は信じているのです。
③ 信仰が力
お気づきかもしれませんが、これは全て“信じる”という不確かな物の上に立っています。
わたし達が、苦しみの中に希望を見出す力の源は、信仰なのです。
信仰とは何でしょう?
聖書にはこのように書かれています。
ヘブル 11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
わたし達は、「イエス・キリストを信じます」と言うことはできるのですが、実はそれだけではこの希望を見出せないという事です。
信仰を持つと言うことは、単に宗教に属すると言う以上の事を指しているのです。
こういう話があります。
19世紀後半に活躍した、ブロンダンというフランスの綱渡り師がいました。
彼は、ナイアガラの滝の上に張50メートルに張った340メートルの綱の上を見事に渡りきりました。
歓声の中、ブロンダンは観客に向かってこのように言ったんです。
「みなさんは、わたしがもう一度やってもこの成功すると思いますか?」
観客は大きく拍手しました。
「それではみなさんは、わたしが荷車に人を乗せても、ナイアガラを横断できると思いますか?」
観客は激しく拍手して叫びました。
「もちろんできるとも!」
「それでは、誰かこの荷車に乗ってください。」
すると観客はざわざわし始めて、誰も手を上げようとはしませんでした。
パフォーマンスとして観るのはいいけど、自分が当事者にはなりたくなかったんです。
神様が持つ荷車に乗る事が信仰です。
わたし達が、神様に信頼して、永遠の命を信じ、この困難にも意味がある事を信じ、神様が共にいてこの困難を知っていてくださるなら大丈夫だと信じる事が信仰なのです。
それは、決して簡単なことではないでしょう。
しかし、それでも勇気を持って荷車に乗るとき、わたし達はそこに平安を見出し、その先にある希望を見出し、ついには喜び続ける事ができるようになっていくのです。
もしブロンダンを信じて、荷車に乗ったら、どんなに素晴らしい景色を見る事ができ、どんなに素晴らしい体験をする事ができたでしょう。
神様の荷車に乗ることは、それよりももっと素晴らしい体験です。
勇気を持って、信じてみませんか?
全てを預け、委ねてみませんか?
その先には、素晴らしい光景が広がっています。