エペソ5:22-33 『 エペソ11~教会の奥義 』 2013/10/27 松田健太郎牧師

エペソ5:22~33
5:22 妻たちよ。あなた方は、主に従うように、自分の夫に従いなさい。
5:23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。
5:24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。
5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
5:28 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。
5:29 だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。
5:30 私たちはキリストのからだの部分だからです。
5:31 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」
5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。
5:33 それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。

エペソ人への手紙を通して、パウロはこれまで、キリストの体としての教会について書いてきました。
わたし達がキリストの体となるために何が必要なのかというと、わたし達が古い体を脱ぎ捨て、新しい自分を着るという事でした。
偽りを捨てて、真実を。
怒りを捨てて、赦しを。
盗む事を捨てて、分け与える事を。
悪い言葉を捨てて、人を立て上げる言葉を。
無慈悲を捨てて、親切を。
けがれを捨てて、清さを。
酒に酔う事を捨てて、聖霊に満たされることを。
そしてその最後にパウロは、このように薦めています。

5:21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。

互いに従うとは、どういう事なのでしょうか?
パウロは、さらにその具体的な例を、ここから3つ書いています。
一つは夫婦の関係の中において、一つは親子の関係の中で、そしてもう一つは奴隷と主人の間の関係です。
今日はその中で、夫婦の関係について見ていきたいと思います。

① 妻たちよ
パウロはまず、妻たちに向けてこのように薦めています。

5:22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。
5:23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。
5:24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。

わたし達はこの言葉を見ると、妻は夫にかしずいて、絶対服従しなければならない様に感じるかもしれません。
でもこの言葉、実は原文には“従う”という言葉はないのです。
だから本来は、「妻たちよ。あなたがたは、主に対するのと同じように、夫にもしなさい。」というのが正しいのだと思います。
前後関係から言っても、実際の内容から言っても“従う”という言葉を補うことは間違っていないのですが、少し印象が違って聞こえるのではないでしょうか?
それは単に、召使のように何でもいう事を聞きなさいという事ではなくて、ちゃんと自由意思が認められた中で、愛を持って従っていくという事です。

パウロは、夫婦の関係を、キリストと教会の関係と対比して描いています。
キリストが頭であり、教会が体であるのと同じように、夫が頭となり妻がその頭に従っていく必要があるという事なのです。
でもこれは、夫が妻より偉いのだとかそういう事ではありません。
家庭の中では夫が頭となり、判断、決断して、妻はそこに従うのだという話しです。
また、単に表面的に言う事を聞いていればいいという事ではなく、人格的に心から従っていくという事なのです。

しかし現実には簡単なことではありませんね。
「こんな夫を頭にするなんて、ありえない。」と思う事もあるかもしれません。
基本的に、女性の方がしっかりしていたりするものですし、自己主張もありますから、そう思うのも無理はないでしょう。
しかしそれでも、妻はイエス様に対するように愛と尊敬を持って、夫に接していくことが望ましいのだと思います。
男性は、尊敬されることによって自尊心を立て上げ、成長していくことができる性質を持っているからです。
妻が夫を見下したりないがしろにしたりして居場所がなくなってしまうと、男性はますます力を発揮できなくなってしまいます。
あるいは、力を発揮する場所を他に探してしまったりするのです。

そういう意味では、夫を活かす事ができるかどうかは、妻にかかっている事でもあるのです。
もしも、「うちの夫はダメだ。」と思うとしたら、それは奥さんに原因があるかもしれませんよ。
聖書には、男の助け手として女が作られたと書かれていますが、それはそういう意味なのではないでしょうか?

② 夫たちよ
夫婦関係を築くために求められているのは、妻たちに対してだけではありません。
夫に対しても、キリストが教会を愛するようにしなさいと薦めています。

5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。

男性が立て上げられ、敬われて成長していくことができるように、女性は愛される事によって力を得、より輝いていくことができるようになる性質を持っています。
良き夫になれるかどうかが妻の責任でもあるように、魅力的な妻となるかどうかは、夫次第という事もできるのです。
そういう面から見ても、この言葉はとても大切な真理をわたし達に教えてくれています。
でもこの言葉も、“愛する”という言葉ではなく“キリストが教会を愛するように”という言葉に焦点を当ててみると、そこに求められていることの重みがわかってきます。

イエス様は、わたし達教会をどのように愛したでしょうか?
わたし達を守り、教え、励まし、そしてわたし達のために死んでくださいました。
夫もまた、妻を守り、教え、励まし、死ぬことが求められているのです。
まぁ、文字通り死ぬ事ではなく、自己犠牲的な愛が求められているという事です。

現代社会の価値観に影響を受けている私たちは、この愛というものを誤解している傾向があります。
テレビを一日中つけていれば、愛なんて言う言葉は何百回と言われているし、歌われているでしょう。
でも、そこで言われている愛は、 “大好き”という言葉を言い換えただけの感情的な愛ではないでしょうか。
感情というものは不安定なものですから、今はあっても、やがてなくなってしまうかもしれません。
そして、愛の感情が強いからこそ、問題が起こった時、それが憎しみの感情になってしまう事も少なくありません。

多くのカップルが結婚する時に自分たちの土台とするのは、このような感情的な愛です。
愛の感情も強力なので、愛さえあれば何でもできるような気がしますが、残念ながらその力は長続きしません。
だから、感情がなくなれば別れた方がいいという事になってしまうのです。

しかし、聖書が教えている愛は、感情が伴わなくても、大好きな人にするのと同じようにする決意の心です。
感情を土台としていたら、その感情はやがてなくなってしまいますが、その心を土台にしていると、いつまでもその感情が蘇ってくるような関係を築くことができるのです。
もちろん、いつでも感情が伴うわけではありません。
でも何十年経っても、ふとした時に相手を愛おしいと思う気持ちも起こってくるのです。

③ 教会の奥義
わたし達は多くの場合、自分が幸せになりたいという思いから結婚をするのではないでしょうか?
だから、結婚相手の条件をいろいろ決めて、慎重に考えるわけです。
でも、神様がわたし達に求めているのは、わたし達が幸せになる事ではありません。
実は神様って、私達を幸せにしようとはしてないじゃありませんか?
私たちに求められているのは、実は自分が幸せになることではなくて、相手を幸せにしようとすることなのです。
自分の幸せよりも、他の人達の幸せを優先することの中に、愛の本質があるわけです。
そしてわたし達は、お互いに相手を幸せにしたいという思いを持つことによって、共に幸せになることができるのです。
そこに神の国があり、それが教会の奥義なのです。

理屈ではわかっても、それは簡単にできる事ではありません。
普通に考えたら、できる事ではないですよ。
でもわたし達は、神様の愛を知っているじゃありませんか。
わたし達が神様に背き、愛される価値もないときから愛を注いでくださり、わたし達のために命を投げ出してくださったその大きな愛を知っています。
わたし達を決してあきらめる事なく、支え、励まし、導いてくださっているその愛を受けています。
そのような愛をわたし達が知っているなら、そのような愛でわたし達が愛されているからこそ、わたし達もまた、互いに愛し合うことができるはずなのです。

お気づきになられた方もいらっしゃるかもしれませんが、ここで語られているのは、クリスチャン同士の結婚です。
クリスチャンと言っても、宗教的にキリスト教に属している人たちのことではありません。
そういうレベルでの話なら、クリスチャンのカップルとそうでない人たちのカップルの離婚率は同じですから、大した意味はありません。

でも神様の愛を本当に受け、キリストの体として生き始めているカップルであれば、互いを幸せにし合う関係を築いていくこともできるでしょう。
結婚の中にある奥義とはこのようなものであり、その愛の関係が闇に覆われた世界の中で、地の塩、世の光となる力を持っているのです。

実際には、片方がクリスチャンではない、キリストの体となっていないという家庭が大半だろうと思います。
そういう家庭は大変です。
自分がどれだけ愛を注いでも、それは一方通行になったりするのですから。
でもそれは、だから従わなくてもいいとか、愛さなくてもいいという事ではなく、やはりイエス様であるかのように接し、イエス様のような愛を注いでいく必要があります。

わたし達は、相手に神様との愛の関係にある本当の愛を夫や妻に知ってもらう事で、イエス様のもとへと導いていくしかないのだと思います。
祈りなしにはできる事ではありません。
主にある家族の助けや、励ましがなければできる事ではないでしょう。
わたし達は、教会の中にこそそのような愛の関係によって、お互いを支え合い、励まし合う関係が必要なのです。

そして何よりも、神様の愛を受け続ける必要があります。
愛の使徒と呼ばれたヨハネがこう書いています。

Iヨハネ 4:19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
神様の愛が、皆さんの上に満ち溢れますように。

その愛によって、わたし達が互いに愛し合うことができますように。

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