ガラテヤ1:11-24 『 ガラテヤ2~キリストの啓示 』 2013/05/12 松田健太郎牧師

ガラテヤ1:11~24
1:11 兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。
1:12 私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。
1:13 以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。
1:14 また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。
1:15 けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、
1:16 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、
1:17 先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。
1:18 それから三年後に、私はケパをたずねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間滞在しました。
1:19 しかし、主の兄弟ヤコブは別として、ほかの使徒にはだれにも会いませんでした。
1:20 私があなたがたに書いていることには、神の御前で申しますが、偽りはありません。
1:21 それから、私はシリヤおよびキリキヤの地方に行きました。
1:22 しかし、キリストにあるユダヤの諸教会には顔を知られていませんでした。
1:23 けれども、「以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている。」と聞いてだけはいたので、
1:24 彼らは私のことで神をあがめていました。

先週からガラテヤ人への手紙を、一緒に読み進めています。
ガラテヤ人への手紙は、使徒パウロがガラテヤにある教会に宛てて送った手紙です。

わたし達が手紙を受け取った時、「今日はここからここまで読みましょう」と決めながら読む事はあまりないと思います。
普通は一気にその手紙を読んでしまうのではないでしょうか?
でも、聖書に出てくる手紙は、なかなか一気に読み進める事ができません。
第一にパウロが描いた手紙は、長いという事。
第二に、面白くないという事。
聖書に出てくる手紙の多くは、教え、諭すための手紙ですから仕方がありません。
そして第三に、わたし達個人に宛てて書かれた手紙ではなく、不特定多数に向けて書かれた手紙であるという事。
書いてある内容を読み取り、理解するために時間がかかるのです。

だから私達は、この手紙を少しずつ分けて、なるべく自分の事として受け取る事ができるように読み進めていきたいと思います。
それでは、今日の部分を通して、パウロはわたし達に何を伝え、神様はどこに導こうとして下さっているのでしょうか?

① 宗教による攻撃
さて、先週のおさらいでもありますが、パウロはなぜガラテヤの教会に手紙を送ったのでしょうか?
それは、ガラテヤの教会は大きな攻撃にさらされていたからです。
何が攻撃にさらされていたのかというと、福音がもたらす、恵みと平安というものが攻撃を受けていたのです。
何によって、攻撃を受けていたのでしょうか?
それは、宗教によって攻撃を受けていたのです。
どの宗教ですか? ユダヤ教ですか? ギリシヤ神話、ローマ神話ですか?
それは外部の宗教からの攻撃ではなく、内側で起っている攻撃だという事なのです。

多くの場合、脅威というものは外部から来るものだとわたし達は考えます。
しかし、福音に対する最大の敵は、時としてキリスト教という宗教そのものになりうるのだという事を、わたし達は忘れてはならないのです。

ここで僕が宗教と呼んでいるのは、教えであったり、モラルであったり、しきたりのようなものであったり、守らなければならない儀式のようなものの事です。
一方、それに対するものとして、福音という言葉があります。
福音というのは元々、“良い知らせ”という意味の言葉で、イエス様の十字架による救いの事を表しています。
その福音が表している救いの本質は、この世界を創った創造主である神様との関係であり、そこから始まる他の人達との関係です。
それは、何かを守るとか、特定の行いをするという宗教とは、全く違う性質を持つものなのです。

しかし聖書にも、律法という宗教的なルールがたくさん書かれています。
それは全て、神様や他の人達との関係を表しているものなのですが、わたし達がそこに表されている関係を無視して、表面的な行いの部分だけを重要視して守るという選択をするとき、それはやはり宗教になっていってしまいます。
それこそが律法主義というものであり、福音にとって脅威となる宗教の世界なのです。

わたし達も、油断をすればすぐに神様との関係の事を忘れ、宗教の世界に入ってしまいます。
表面的な事ばかり気を配り、神様不在の良い行い、神様不在の祈り、神様不在の礼拝、神様不在の伝道をしてしまうのです。
わたし達はそのような状態になっていないでしょうか?
わたし達の中には、神様から離れようとする罪の性質がまだ残っていますから、いつの間にか神様不在の状態に陥ってしまいます。
そうであれば、わたし達はすぐに神様に立ち返る必要がありますね。

② イエス・キリストの啓示
さてパウロは、自分の使徒としての選びは人によるものでなく、神様によるのだという事を主張していたというのが先週のお話でした。
今日の個所で話しているのは、自分が述べ伝えている福音もまた、人からのものではなく神様から与えられたものだという事です。

1:11 兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。
1:12 私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

神様から与えられた言葉やビジョンを、“啓示”と呼びます。
ここで、パウロが伝えているものが人から来たのではなく、啓示であるという事を強調したのは、それが神様の権威によるものだという正統性の主張のためです。
でもそれと同時に、人から来るものは宗教であり、本当の福音は神様から来るものなのだという事も、わたし達は読みとることができます。

先週も言いましたが、そのままのわたし達の中に、恵みや平安という発想はありません。
正しい事を求めていても、必ず宗教的になり、律法主義的になり、わたし達を窮屈にしていきます。
ユダヤ人達が聖書を読んでいながら神様から離れてしまったのと同じように、わたし達も神様を信じていながら宗教的になってしまいます。
人の思想、教えと言うものはそういうものです。
福音は、神様との関係がその中心にありますが、だからこそ、神様との関係の中から生まれてくるものなのです。

さて、そう考えた時、実はこの“啓示を受けるという事”はわたし達にとっても重要なものだという事になってきませんか?
だってそのままのわたし達は神様から離れる性質を持っているのですから、わたし達が福音の中に留まるためには、わたし達もまた神様からの啓示を受けなければならないという事なのです。

わたし達は“啓示“と聞くと、パウロとか、使徒たちとか、預言者のような何か特別な人達だけが受けるものだと感じるかもしれません。
確かに、そういう特別な人達だけに与えられる啓示もあります。
聖書はそのようにしてできたものであり、これ以上付け足す事はできないものです。
でも、もっと身近な形でわたし達が受ける啓示と言うものもあるのです。

わたし達が聖書や信仰書を読む時、メッセージを聞いている時、他の人達との会話の中で、神様の導きのようなものを感じた事はないでしょうか?
あるいは、後から振り返って考えた時、自分の人生の中に神様の導きがあった事に気付いたりするかもしれません。
そこにわたし達は、神様の啓示を受けているのです。

わたし達が聖書や信仰書をどれだけ読んでいても、礼拝に参加し、メッセージを聞いていても、そこから神様の声を受け取らなければ、それは単なる宗教的な知識かもしれません。
それだけでは、表面的で、律法主義的な行いなってしまいます。
しかし、わたし達がその中にある神様の声に耳を傾ける時、わたし達はその関係の中で福音的なメッセージを聞くと言うだけでなく、福音に生き始めるのです。

③ 福音に生きる
わたし達が宗教や律法主義ではなく、福音に生きる時、いったいどんな事がおこるのでしょうか?
福音の世界を知るまでのパウロは、熱心にクリスチャンを迫害していました。

1:13 以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。
1:14 また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。

信仰に熱心であるという事だけからみれば、パウロはこの時も変わらずに熱心でした。
そして、神様に従っているつもりでもありました。
しかし、結果的には全く正反対の事をしていたのです。

この後、パウロは幻の中でイエス様と出会い、彼の人生は大逆転します。
宗教的な信仰から、福音的な信仰へ。
律法を守る信仰から、神様との関係に生きる信仰へと変わったのです。

そこから彼がどんな人生をたどっていたかという事を、わたし達は使徒の働きの学びの中で見てきました。
もしかしたらそれを見て、大変そうだなぁとわたし達は思うかもしれません。
確かに大変な部分もたくさんあるでしょう。
でも、考えてみて下さい。
神様がわたし達に伝えたい事は何ですか?
神様がわたし達をどれだけ愛しているか、わたし達を「わが子」と呼び、わたし達の重荷を背負い、わたし達を励まし、立て上げ、力づけようとなさっているのではありませんか?
だからこそパウロは、喜びの中で全ての働きをし、神様に仕えたのです。

1:24 彼らは私のことで神をあがめていました。
パウロの変わっていく姿を見た人々は、それによって神様をあがめたと書かれています。
ねがわくは、わたし達の近くにいる人達が、わたし達の人生を見る事によって、神をあがめるようになりますように。

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