コロサイ1:15-20 『神の力を信じる』 2010/02/14 松田健太郎牧師
コロサイ1:15~20
1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
1:17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。
1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。
1:19 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、
1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。
昨年末、わたし達の教会はLoui Giglioの“How Great is our God”というメッセージを聴きました。
まだ観ていない方は、教会でDVDを貸し出していますので、ぜひ観てみて下さい。
わたし達はそこで、神様の力の偉大さと、きめ細かさを学びました。
そして、ただ大きくて、すごいというだけでなく、その神様がわたし達ひとりひとりの名前を知り、わたし達が自分を知る以上に知ってくださり、気にかけて下さる愛のお方だという事も学びました。
神様は、このわたし達を救うためにひとり子を送って、わたし達を救うために十字架の上で犠牲となって下さったのです。
わたし達の信じる神様は、それほど偉大で、素晴らしい神様です。
「神様はこの世界を統べ治める方です。」
このように聞けば、だいだいのクリスチャンは「アーメン! そのとおりです!」と応えるのではないかと思います。
ところが次の瞬間、わたし達が仕事を失ったとき、大きな病気を見つけたとき、わたし達が突然のトラブルに巻き込まれた時、自分の予定とは違う事が起こり始めたとき、わたし達はその言葉を完全に忘れてしまいます。
世界は途端に色あせ、人生は問題ばかりで、生きていく事の大変さばかりが重くのしかかって来るのです。
クリスチャンは、全知全能の神様、命を捨てるほどにわたし達を愛してくださっているイエス・キリストを信じていながら、しかしその多くが神様など知らないかのような希望のない毎日を送っています。
神学的な知識と、現実に対する認識の間のギャップがここにあります。
神様は全知全能であり、世界の創造主であり、すべての支配、権威、権力、主権の上におられる方だと知っていても、それが知識で留まってしまっているのです。
だから、それを自分の人生に適用をし始めた時に、問題が起こってしまうのです。
わたし達が福音に生き、地の塩、世の光としてこの世界にキリストを伝えるためには、わたし達はどうしてもこのギャップを埋める必要があります。
わたし達はどうすれば、このギャップを埋めて、信じているように生きる事ができるようになるのでしょうか?
① 知識ではなく関係
ある時、何人かの友人と話していて、あるマイナーなミュージシャンの話題になりました。
「あの歌うたっているあのミュージシャン、なんていう名前だっけ。」と話していると、すぐそばにいた別の友人が、「ああ、○○でしょ? オレあいつ知ってるよ。」と言って驚かされました。
僕たちが話していたのは、そのマイナーなミュージシャンの存在を知っているというレベルの話をしていたのですが、その友人は個人的にその人のことを知っていたのです。
しかも、高校時代の同級生で、今もよく会っているというんですね。
僕たちがそのミュージシャンを“知っている”というのと、その友人がその歌手を“知っている”というのでは、同じ“知っている”でも全然違います。
僕たちはその歌手を知識として知っていたけれど、その友人はそのミュージシャンの本名も、どんな人柄かも知っていて、一緒に歌った事さえあるのです。
わたし達は、この天地を創った神様を知っています。
でもそれは、「神様ってすごいよね。この世界の全てを創造したのは、神様なんだってー。」というレベルの話ではないのです。
神様は、わたし達が神様を知る前からわたし達のことを名指し知っていてくださり、わたし達のために御子を送ってくださり、救おうとして下さった。
わたし達がその救いを受け取ったとき、わたし達はイエス・キリストを通して神様の養子になったと聖書には書かれているのです。
今やわたし達と神様との関係は、創造主と被造物ではなく、親子の間柄です。
ここまで深い関係になっていながら、わたし達はシャイなのか、遠慮しているのか、その関係をなかなか深める事ができないでいたりするわけです。
わたし達は父親になった神様を横において、教理がどうだ、教義がどうだと議論したり、聖書の解釈がどうだとか、神学がどうだという事ばかり考えてしまいます。
あるいは、クリスチャンらしい言葉使いや、クリスチャンらしい行い、クリスチャンらしい生き方ばかり考えてしまっているのではないでしょうか。
皆さん、よく言われることですが、キリスト教は宗教ではありません。
少なくとも、イエス様がわたし達に与えてくださったのはそうではない。
キリスト教は、イエス様を通した神様との関係です。
わたし達が、宗教としてキリスト教をする事を止めて、ちゃんとした神様との関係を深く持ち始めたとき、神様の力も、その偉大さ、愛の深さも、もっと個人的なものとして実感できるようになるのです。
② 導きに従う
さて、車のレースのひとつでラリーという競技があるのをご存知でしょうか?
アフリカ大陸を何千キロも車で走ったりするレースですが、その車には運転手の隣にナビゲーターという役割の人が乗ります。
ナビゲーターは、地図を片手に運転手に道を指示したり、ペースを計ったりするのが役割です。
最近の車には、機械のナビゲーション・システムが付いていて道案内をしてくれたり、奥さんや子供に地図を見てもらって、ナビゲーションをしてもらう事もあるのではないでしょうか。
神様はわたし達の人生の車に一緒に乗ってくださり、わたし達の隣で人生のナビゲーションをしてくださる方です。
わたし達の行動の全てを管理するというわけではなく、時々隣で指示してくれるわけです。
「その罪から離れなさい。」
「あの人の事を赦し、愛しなさい。」
「あなたが今、するべきことは、それではなくこっちです・・・。」
そんな時、わたし達はこの様に思ってはいないでしょうか?
「その道は今まで通ったことのない道だし・・・。」
「いや、その道よりもこっちの道の方が近いんです。」
「その道ではなく、わたしはこっちの道を通りたいんです。」
神様がせっかくより良い道を示してくださっても、わたし達はそれを無視して、今まで通りの行き方をしようとしてしまうのです。
それでは、わたし達の人生が変わるはずもありません。
わたし達は、自分が思う人生ではなく、神様が示してくださる道を優先して選択する必要があります。
わたし達を創造し、わたし達の人生をわたし達以上に知ってくださる神様が、目的を持ってそちらに導いているからです。
その道から外れる事によって、わたし達は神様が見せようとしてくださっている奇跡や、与えようとしている祝福を見失ってしまいます。
そして、わたし達があまりにもコースから外れてしまうなら、神様はわたし達に何らかのペナルティを与える事もあるでしょう。
しかしわたし達が神様の導きに従うなら、わたし達は神様の偉大な力を豊かに経験する事ができるのです。
神様の導きに従って故郷を離れる事がなければ、アブラハムは信仰の父としてカナンの地を約束されることはなかったでしょう。
イエス様の言葉に従って網を降ろす事がなければ、ペテロたちは驚くような大漁を見て、イエス様の力を体験することはできなかったでしょう。
わたし達が信じなくても、神様の愛と力強さは変わりません。
しかし、わたし達が信じて神様の道を進むとき、わたし達はその御業を自分の人生の中で体験する事ができるのです。
③ 神様に信頼して委ねる
わたし達は、突然大きな問題に直面してしまう事もあります。
人間関係のトラブルに巻き込まれたり、突然職を失うことになったり、大きな病気が見つかったりした時には、少なからぬショックを受ける事でしょう。
どうして自分だけが、このような目にあってしまうのか。
自分の思っていた結果とは違う状況に直面したとき、わたし達は神様の力や愛を見失ってしまう事があります。
神様の視点はわたし達とはあまりにかけ離れ、神様の計画はわたし達の計画と全然違う事も少なくはありません。
その様な状況で、わたし達にすがる事ができるのは、やはり神様だけではないでしょうか。
先日、このような証を聞きました。
その家には、4歳の娘さんと1歳の息子というふたりの子供たちがいました。
ある冬、その町を大雪が襲い、お父さんは雪かきをするために車を動かしました。
しかしこの男性は、子供たちがドライブウェイで遊んでいる事に気が付かなかったのです。
父親の運転する車によって、4歳の少女の命は失われました。
娘は即死に近い状態だったという事が、何よりの慰めだったと彼は話しています。
この家族は、その事故が起こる3ヶ月前に教会に行き始めたばかりでした。
イエス・キリストを受け入れ、自分の聖書を手に入れて喜んでいた矢先に、このような事が起こったのです。
「この事故によって私が信仰を失ったと思われるかもしれませんが、そうではありません。」とこの男性は語っています。
その事故を悔やみ、悲しみに嘆く彼にとって、彼の心を支えるのは聖書だけでした。
彼はその事故から一年近くの間、聖書を抱きかかえないでは眠る事もできなかったそうです。
そのような悲劇が起こってから数年後、彼の家では近所の人たちが集まって聖書の学びが始められるようになりました。
そしてその働きを通して、彼の近隣の5つの家庭全てがクリスチャンになったのです。
彼は話しています。
「神様が娘を殺したとは思いません。また、5つの家族が救われた事によって、娘を失った悲しみが和らげられたわけでも決してありません。しかし私は、神様がこのような悲劇を通しても私の人格を導き、育て、20人の魂の救いのために用いてくださったのだと信じています。」
聖書にはこの様な言葉があります。
ローマ 8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
地上に縛られているわたし達に見えるのは、ほんのわずかなものです。
そんなわたし達には、とても納得のいかないような出来事に直面してしまう事も少なくはありません。
しかし、そんな時でも、神様にすがりつく時、わたし達は涙を喜びに、絶望を踊りに変えてくださる神様の御業を目にする事ができるのです。