マタイ5:6 『義に飢え渇いているものは幸いです』 2007/02/04 松田健太郎牧師
マタイ 5:6 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
みなさんは、飢えや渇きというものを経験した事があるでしょうか?
現代社会は、蛇口をひねれば飲み水が出る、石を投げれば自動販売機やコンビニに当る時代です。
だから、本当に飢え渇くということが、私達にはなかなかわかりません。
アメリカの統計では、肥満は貧困層に多いのだそうです。
裕福なアメリカ人で肥満に悩んでいる人は、実はほとんどいないのです。
それは、安くて手軽に食べられるものほど太りやすい食べ物だからです。
裕福な人たちは、美味しくて、太りにくいものを食べます。
さらに、エクササイズをして体を鍛える時間の余裕もあります。
貧しい人たちは生活するために一生懸命働いて、健康を考えている時間がありません。
おそらく日本も同じような状況にあります。
私達が生活している社会は、一昔と違い、飢えたり渇いたりするということが本当にない社会だということですね。
私達は、満足している事があたりまえの社会で生活しています。
飽食の世界、飽食の時代。
飢えと渇きがなくなった社会は、アフリカや一部のアジア諸国の様にききんに苦しむ人たちからしたら、何と恵まれた、幸せな社会でしょう。
しかし、そこにはひとつの落とし穴があることを忘れてはなりません。
私達は、本当のおいしさ、満たされる感動がわからない世界に生きているということです。
賛美にもなった詩篇にこのようなものがあります。
詩篇 42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、
神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
42:2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。
いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。
穏やかな歌なので、牧歌的な、やさしい感じの雰囲気に感じるでしょうが、実はそのような詩篇ではありません。
鹿は、喉が渇くと舌があごにくっついてしまい、窒息して死んでしまうそうです。
この歌は、自分の命をかけるほど必死に神様を求める、そんな様子が描かれているのです。
死と隣り合わせに生きる自然の動物達は、とても美しい存在です。
それは、飢えと渇きを経験する中で彼らの本能が研ぎ澄まされ、感動と、喜びと、本当の満たしを知るものだけに与えられた美しさなのではないでしょうか。
① 義人はいない
それでは、義に飢え渇くと言うのはどういうことを言うのでしょうか?
“義”という言葉自体が難しい言葉ですが、簡単に言えば正しさということですね。
英語で言えば、“righteousness”。
正義の義です。
正しい事に飢え、渇いているというのですから、正義に燃え、いつでも正しさを追い求めている人のことを指しているのでしょうか?
間違った事を赦さない。
悪を野放しにしておくことができない。
人の罪を指摘し、止めさせ、時には裁きを下す。
この世に正義をもたらさずにはいられないもの。
確かに私達クリスチャンは、神様から離れてしまわないよう互いに励まし、諭しあうべきです。
しかし、人を断罪するのは、私達の仕事ではありません。
パリサイ派の人々や、律法学者がまさにそうだった事も覚えているでしょうか?
ある日パリサイ派の人々と律法学者は、姦淫を犯した女をイエス様の元に連れてきました。
そして、モーセの律法に従って、裁くべきかとイエス様に問いただします。(ヨハネ8章)
姦淫の罪を犯したものは、石打ちの刑によって殺すというのが、律法の伝えていた事だったからです。
それに対するイエス様の答えは、「あなたがたの内で、罪のないものがまず石を投げなさい。」というものでした。
それを聞いた人々は押し黙り、一人ずつその場を後にしたのでした。
自分には罪がないと言えるものがひとりもいなかったからです。
「義人はいない、一人もいない。」(ロマ3:10)と聖書は言っています。
しかし、自分が罪人であるということなんか、誰も認めたくはないことです。
私達は自分が犯罪者ではないということや、他の人々に比べたら正しい事をしてきたという比較によって、自分を正しい人間だと思い込もうとしています。
でも、比較は聖書の価値観ではありませんでしたね。
人と比較してどれだけ優れていたとしても、自分が正しいということにはなりません。
人と比較して、自分が正しい人間だと信じている人たちに対して、イエス様はこんな話をしました。
ルカ 18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
パリサイ派の人々は、厳しい宗教の戒律を守り、人々からも尊敬を受けるような人々でした。
しかし、神様の前で自分の正しさを並べ立てたパリサイ派の人ではなく、自分の罪深さに打ち崩れる取税人が神様の前で正しいものとされました。
義に飢え渇いている人というのは、この取税人のような人です。
自分は罪深く、義がないと言う事を知っている人です。
しかし、だからと言って人間みんな罪人だと、開き直ってしまうのではない。
自分の中の罪に気づき、絶望的なまでの無力さを知り、それを嘆き、悲しみながら、なおも義を求める人、その人は幸いであるとイエス様は言っているのです。
② 満ち足りるようになる
そこでこの世の宗教者は、自分自身の義を高くするべきだと教えます。
私たちに義はない。だから苦行をこなし、修行せよ。
正しい事をせよ。
罪から離れて、正しい人間になりなさい。
残念な事ですが、キリスト教を信じる人にも同じように考える人たちはいます。
しかし、自分自身を高める事によって神様から受け入れてもらえようとするのはまったくの誤りです。
そんな事ができるなら、イエス様が十字架にかかる必要など最初からありませんよね。
自分の努力によって自分を正しい人間にすることができると言う事は、自分が正しい人間であるといっていることと何の替わりもありません。
罪人である私達には、神様の正しさに届く事は絶対にできない。
だからこそ、イエス様が私達の罪を背負い、私達の代わりに裁きを受け、私たちを贖う必要があったのです。
ロマ 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
ですから、私達が満ち足りるようになるのは、義人になることによって満ち足りるということではありません。
義に飢え渇く人が、自分の罪に絶望し、それでも義を求め続けた先で何に出会うのでしょうか。
それは、義人となった自分などではなく、救い主イエス・キリストです。
イエス様が私達にもたらして下さった救い、永遠のいのち、愛、喜び、平安。
イエス様が私達のために十字架にかかり、流して下さったその尊い血潮。
それが私たちを満たします。
イエス様は、何千人もの人々の空腹を満たす事ができる、2匹の魚と5つのパンです。
イエス様は、決してつきない、命の泉が湧き出る井戸です。
イエス様は、私達のよき羊飼いです。
イエス様こそ、闇の中に輝く光です。
イエス様に出会った人たちの人生がどれ程変わり、どれほど変えられたかという事を話したら、枚挙に暇がありません。
それは聖書の時代だけの話しでなく、歴史上多くの人々がイエス様と出会い、心新しくされました。
そしてイエス様は、今を生きる私達の人生をも変え続けているのです。
皆さんは、イエス様と出会った喜びの中にいるでしょうか?
イエス様に内側から新しくされ、満ち足りているでしょうか?
誰もがその幸いを手にする事ができます。
イエス様はこのように言っているのです。
マタイ 7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
7:8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
③ 飢え渇くように求め続ける事
最後に、義に飢え渇き、イエス様によって変えられた代表的な人物を紹介しましょう。
私達がよく知っている聖書の登場人物に、パウロという人がいます。
パウロはかつてクリスチャンを迫害するパリサイ派のユダヤ人でしたが、ダマスコで復活した後のイエス様と出会い、人生が一転しました。
彼はその後キリストの使徒として、異邦人たちに福音を述べ伝え、多くの人々を救いに導いたのです。
パウロは人間的な正しさ、宗教的な正しさということではすごく自信のある人でした。
彼はイスラエル人として正統な、生まれて8日目の割礼を受けており、民族的にはベンヤミン族の末裔であるという系図も持っていました。
信仰は熱心な事で知られるパリサイ派のユダヤ人でしたし、ガマリエルという有名な学者の生徒でした。
そして、不穏分子だったクリスチャン達を迫害していたことが、宗教的な正しさを求める彼の情熱を証明していました。
この様に、当時のユダヤ人としては確固とした自信をもっていて、誰からも尊敬を受けるような“義”を、彼は持っていました。
それが彼のプライドであり、すばらしい事だと信じていたのです。
キリストと出会うまでは。
ピリピ 3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
イエス様と出会ったとき、パウロの価値観は完全にひっくり返りました。
イエス様から恵みによって救いを受け取った時、パウロはこれまで自分の得だと思っていたものを、“ちりあくた”と思っていると書かれています。
“ちりあくた”とは、上品な訳し方をしたものですが、これは原文そのままに訳せば“動物の糞”つまり“うんこ”という言葉です。(聖書にはふさわしくないということで“ちりあくた”と訳されたのでしょう。)
これまで自分によって獲得してきた義、人間的な正しさなど、キリストの義の前には“うんこ”同然だと、パウロは大胆に語っているのです。
パウロは、これまで築き上げてきた人間的な正しさに価値を見出すことなく、かなぐり捨て、イエス様を求めました。
イエス様にこそ真実があると確信したからです。
そしてイエス様以外には何も価値がない、何も知らない、何もいらないと心に決めました。
パウロはまさに、飢え渇く野生の鹿のように義を求め、イエス様の義に満たされたのです。
イエス様は言います。
マタイ 6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
私達は、これまでの自分の成果に満足したり、人から評価を受けることばかりが気になってしまってはいないでしょうか?
人間的な義は一見大切な事のように思えても、私たちを完全に満たす事は決してありません。
そのような中途半端な満たしが私達の飢え渇きを打ち消し、魂を鈍らせ、人間性を失わせているのです。
神の義に飢え渇くこと、そして求め続ける事、そこに秘訣があります。
求めるなら与えられます。
義に飢え渇くものは、満ち足りるのです。
私達が、自分の必要や、幸福に飢え渇くのではなく、神様の義に飢え渇くことができますように。
いつも、義を求め続ける信仰を持ち続ける事ができますようにお祈りします。