マタイ5:7 『あわれみ深い者は幸いです』 2007/02/11 松田健太郎牧師

マタイ 5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。

この御言葉を聞いて、何を受け取るかということは人によって様々のようです。
日本語というものは難しいもので、伝えられるべき意味がうまく伝わらない事もあります。
そこで、まず皆さんに質問してみたいと思います。

皆さんは、憐れみを受けたいと思いますか?
憐れまれることは、好きでしょうか?
多くの皆さんは、憐れみを受けるなんて嫌だと思われるのではないでしょうか?
憐れまれるよりは、憐れむ方の立場にいたい。

憐れまれる事は、私達のプライド、自尊心が傷つくからです。
自分が憐れまれなければならない時、それは自分自身が落ちぶれて、自分の過去の栄光も、実績も、すべて失われてしまった状態です。
もう、誰かの憐れみにすがるのでなければ、生きていけない。
誰がその様な状況に陥ったり、その様な扱いを受けたいと思うでしょうか?

イエス様が言われる“憐み”とは、そういうものではありません。
“憐み”という言葉をなるべく簡単で、わかりやすい言葉として言い換えるなら、“同情心”ということができるでしょうか。
相手の立場に立ち、共に悲しみ、共に痛みを担う。
そして、ただ「かわいそうに」と言うだけではなくて、その人を助けるために実際的な行動を起こすこと。
それがイエス様の言われる憐みではないかと思います。

今日は、この憐みに関して一緒に学び、神様の恵みをいっぱいに受け取っていきたいと思います。

① 憐み深い人
イエス様は、憐みを表した具体的な例として、このようなたとえ話をしています。

ルカ 10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

強盗に襲われた人を見た多くの人たちは、気の毒に思い、同情はしたかもしれませんが、何もせずに通り過ぎてしまいました。
しかし、このサマリヤ人は憐み深い人でした。
ユダヤ人は、彼らサマリヤ人にとっては敵であったのにも関わらず、苦しんでいるこのユダヤ人を見て黙って通り過ぎることができなかった。
彼は手当てをし、看病し、さらに必要な費用を負担しました。
憐み深い人とは、このような事を喜んでできる人のことを言うのです。

私達は、はたしてこの様な憐みを持つ事ができているでしょうか?
私達は正直に自分の心を見つめた時、憐れみを持つ事に対して難しさを感じます。
行動としては、それを真似る事ができるかもしれない。
でも、これを心から、喜んでできるかと言えば、私達にはそのような憐みが足りない事を実感します。
場合によっては、ひとかけらも無いということを思い知らされるのです。

相手が自分の大好きな人であればできるかもしれない。
あるいは、相手を助けてあげたら、相手が自分に感謝を示してくれると言うなら話は別でしょう。
でもそんな保障はどこにもありません。
私達が自分を犠牲にして、身を粉にして、必死の思いで助けてあげても、相手は私たちを利用するだけ利用してゴミのように捨ててしまうかもしれない。
その様な状況で、私達がどれだけ人に親切にしてあげられることができるでしょうか?

しかし、よく考えて見てください。
これはすべて、神様が私達のためにして下さった事なのです。
私達はこれまで、神様の敵として生きてきました。
神様の存在を無視し、時には意地悪で、気まぐれで、疎ましい存在として感じていました。
それでいて自分の都合のいいことばかりをお願いし、祈りが聞かれれば自分の手柄とし、聞かれない時には神様のせいにしてきました。
私達は、利用して踏みにじるような扱いを神様に対してしてきたのです。

それでも、神様は私たちへの憐みを失いませんでした。
それでも、神様は私たちを愛し続けたのです。
それどころか、敵である私達のために、ご自分のひとり子を送ってくださいました。
イエス様が、十字架にかかって私達の命を贖って下さったのです。

みなさん、神様は私たちを憐れんで下さっています。
そして人類の歴史を見る中で、イエス様こそ本当の憐み深さを持った方です。
正義を貫き、その両手を広げ、私達の罪の身代わりを申し出て、私たちに憐みを注いで下さった方です。
その様な素晴らしい憐みの元に私達は生きているのです。

② 私達が憐みを受けるとき(杉原千畝《すぎはら ちうね》)
神様の憐みを心いっぱいに受け取ったとき、私達はどうなるしょうか?
結論を先に言うと、憐みを受けた私達は、憐み深くなることができるのです。

信仰があるなら、行動として表れるというのと同じです。
私達は憐みを受けているから、憐み深くなることができる。
赦されているから、人を赦す事ができるようになる。
愛されているから、人を愛する事ができるようになるのです。

みなさんに、神様の憐れみを受け、憐れみ深い人となったひとりの人を紹介したいと思います。
色々なテレビ番組で取り上げられたようなので、ご存知の方も多いと思いかもしれません。
元ソビエト連邦のひとつにリトアニア共和国という独立国がありますが、リトアニアにある日本の総領事官に杉原千畝さんという人がいました。

1940年、当時すでにヨーロッパでは始まっていた世界大戦の中、ナチスの迫害を逃れるため、5000人ものユダヤ人がこの領事館に詰め掛けました。
リトアニアにも戦火が広がり、ナチスの影響を受けるのは時間の問題だったのです。
まずはリトアニアから国外に逃れるため、「日本にはいるためのビザを発行して欲しい。」と言うのが彼らの希望でした。

杉原千畝さんは、その時の総領事だったのです。
杉原さんは日本の外務省に問い合わせました。
しかし当の外務省は、ドイツのヒトラーと迎合しすでに協定を結んできたので、「ビザを発給してはならない。」というのが彼らの返事でした。

杉原総領事は、それでも幾度となく外務省に打電して、人道上の問題としてビザの発給の許可を取ろうとしました。
しかし何度掛け合って見ても、その度に出される答えはノーでした。

さて、いよいよナチスの影響がリトアニアの中にも入ってきた頃、もうこれ以上待っていたら、ユダヤ人たちはビザを持っていても国外に逃げることが叶わなくなってしまうというその時、彼はひとつの決断をしました。
杉原総領事は独断で、この行き場を失った5000人、まさに捕らえられてガス室に送られようとするこの人たちにビザを発給したのです。
これを受けて、5000人の人々はアメリカを始めとする各国に逃亡する事ができました。

やがて戦争が終わると、杉原総領事は日本へ呼び戻され、あらゆる公職を剥奪されました。
そして彼は、民間に勤めながら、終戦後の時代を生きたのです。
飢えと、屈辱を忍びながらこの人は生きながらえ、1986年その生涯を閉じられました。
これが、日本のシンドラーとして知られる、杉原千畝さんの生涯です。

聖書が示す「あわれみ」が、彼の働きの上に表されています。
杉原千畝という人は、5000人の人々が行き場を失って苦しんでいる時、単にかわいそうだと思ったのではありませんでした。
彼がしたのは、ただビザを発給したというだけのことではありません。
「彼らが死ぬのであれば、私も一緒に死のう。」
「わたし一人の死によって5000人が救われるのなら、私はそれを選ぼう。」
そう言って、彼はビザ発給の決断をしたのです。

人々の命を救うため、自分の立場が危うくなる事もおそれずに決断した彼の愛。
それは、東方正教会に属していた彼が、神様の愛と憐れみをしっかりと受け、内側から変えられていった結果なのです。

③ 憐みが無いわたしたち
では、すべてのクリスチャンが憐れみ深くないのはなぜなのでしょうか?
他のクリスチャンを持ち出すまでもないでしょう。
私達が、これほど神様に愛され、神様の憐れみを受けているにもかかわらず、憐れみ深くないのはなぜなのでしょうか?

イエス様は、マタイ18章で1億円の借金を免除されたしもべのたとえ話をしています。
必死にお願いして、一億円の借金を免除された人が、その帰り道に1000円貸している人に出会って、その1000円を返さなければお前を殺すというなら、それは明らかにおかしいですね。
それはその人が邪悪なのか、借金を免除された事がどういうことか理解していないのかどちらかです。

結局私達は、神様の愛や、憐れみというものを理解していないのです。
憐れみを、完全に受け取る事ができていない。
神様を信頼しきれていなくて、心のどこかで神様の憐れみを拒んでいる。
神様の愛を信じられない。
あるいは、神様に与えられている愛や憐れみを、自分の行いで買い取ろうとしている。

神様がどれだけ私たちを愛し、憐れんでも、私達がそれを受け取らなければ何もならないのです。
イエス様が、「憐れまれるものは幸いです。」と言わなかった理由がそこにあります。
憐れまれても、受け取っていなければ何もならない。

しかし、神様の憐れみをいっぱいに受け取っていれば、私達も憐れみ深いものになることができます。
憐れみ深い者は幸いです。
それは、憐れみ深い者こそ、神様の憐れみをいっぱいに受け取った者だからです。

皆さんは、憐れみ深いでしょうか?
自分には憐れみが足りないと感じるなら、もっと憐れみ深くなろうとはしないでください。
まずは、神様の憐れみを心から受け取り、信じることです。

そのために私達は、心貧しくならなければなりません。
心の貧しい人は、自分の罪を悲しむ心をもちます。
罪に悲しむ者は、慰めを受け、心が柔和にされます。
心が柔和な者は、義に飢え乾くようになります。
そして義に飢え渇くものは、憐れみなしには生きていくことができないのです。

生まれたばかりの赤ちゃんが、ただひたすらお母さんの愛情を受けて育つように、皆さんが神様の愛と憐れみをいっぱいに受けて、成長する事ができますよう心からお祈りいたします。

天のお父様、
あなたの愛はあまりに大きく、その恵みはあまりにも不可思議で、
私達は、なかなかあなたの一方的な愛を、受け取る事ができません。

私達人類の罪ゆえに、私達があまりにも無知で無関心だったために、
主よ、あなた御自身が十字架にかかり、私達の罪を贖って下さった事をありがとうございます。
十字架の上で、あなたはこの様に執り成して下さいました。
「父よ、この者たちをお赦しください。何をしているのかわからないのです。」と。
あなたがもうそのような執り成しをしなくてもいいように、
私達があなたの憐れみを理解できるようにしてください。

私達があなたの愛と、赦しと、憐れみとでいっぱいになった時、私達の心からも憐みがあふれ出してきますように。
私達があなたから受けた憐れみを、少しでも多くの人々にお裾分けする事ができますように、お導き下さい。

心からの感謝の願いを、私達の救い主、主イエス・キリストを通して、御前におささげします。
アーメン。

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