マタイ5:8 『心のきよい者は幸いです』 2007/02/18 松田健太郎牧師

マタイ 5:8 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。

「ああ、なんと幸いな人たちだろう。
ああ、なんと祝福の中にいる人たちだろう、心のきよい人たちは。
その人たちは、神を見るであろう。」

みなさんは、きよい心の持ち主でしょうか?
それは、どの程度のきよさですか。
神様を見ることができるほどに、きよい心を持っているでしょうか?

私達が伝道する時、このように言う人たちがいますね。
「神がいるなら、見せてみろ。神を見たら信じてやる。」
そういう人がいたら、今度からこう答えたらいいですね。
「あなたの心がきよかったら、見る事ができますよ。」

聞いた人を煙に巻いてしまうような言葉ですが、きよいとはどういう意味でしょうか。
神を見るとはどういう事をいうのでしょうか。
今日は山上の説教、6つ目の幸いである、「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」という言葉を一緒に考えながら、そこにあふれている神様の恵みを共に受け取りましょう。

① 清くされてキリストを見る
清さというものを表現している宗教は、もちろんキリスト教だけではありません。
神道において、自分の体を清めるためにみそぎをしたり、仏教における悟りというものは、少々強引な言い方かもしれませんが仏の位まで自分自身を清くするということではないでしょうか?

あるいは宗教を持ち出さなくても、倫理的な清さはどんな社会であっても奨励される事でしょう。
悪い事をしない。
自分をあらゆる誘惑や煩悩から遠ざけ、清貧な生活をする。
パリサイ派のユダヤ人たちが目指していたのも、そのような生き方でした。
だから、多くの人々に尊敬され、大きな発言力、影響力も持っていたのです。

ところで、神様が見るのは表面的な行いの正しさではありません。
私達が表面的にどれだけ立派であっても、うまくいっているように見えても、その様な事はあまり関係がありません。
私達人間には表面的なことしか見えませんから、人からどう見えるか、体裁を整えようとしてしまいます。
しかし、イエス様が問題にしていたのはあくまでも内面的な清さ、心の清さでした。
そして内面的な清さということを考えた時、私達は自分自身に絶望させられる事になるのです。

「正しいものはいない。ひとりもいない。」
それこそ、聖書が教える私達の現実です。
私達は自分の内面を直視した時、神様の前に清いとは、決して言う事ができません。
それは、私達の中に罪があるからです。
苦行難行でどれだけ自分自身を変えようとしても、変わるのは表面的な部分ばかりです。
清く正しい人間のようにふるまう術は覚えられても、あるいは短期間ある種の誘惑に対して強くなれたとしても、本当の意味での清さには遠く及びません。
ましてや、神様を見る事ができるまでとなれば、それこそ絶望的な清さです。
だからこそ、私達には神様の側からの救いが必要なのです。

使徒パウロは、自分の罪深さ、清さを追及してきたパリサイ派のユダヤ人だった彼が味わった絶望をローマ人に宛てた手紙の中で表現しています。

ローマ 7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

誰が、パウロを罪にまみれた死の体から救い出してくれたでしょうか?
それこそ、イエス・キリストです。
そしてイエス様は、パウロだけでなく、私たちをも救い出し、罪の汚れから解放して下さる事ができるのです。

みなさん、聖人とはどの様な人とはどの様な人々を指すと思いますか。
マザーテレサとか、アッシジのフランシスコのような人こそ、聖人だと思われるでしょう。
しかし聖書には、私達すべてのクリスチャンを指して、聖徒と書かれているのです。
私達、すべてのクリスチャンが聖なる人です。
それは、私達の罪がイエス様の十字架の血によって清くされたからです。

そして、イエス様は言いました。
「わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ 14:9)
私達が神様の御前に清いものとされ、イエス様を見上げる時、私達はイエス様の中に神様を見ます。

イエス様を通して、神様の愛を。
イエス様を通して、神様の憐れみを。
イエス様を通して、神様の優しさを、私達は知ることができます。
見えない神様の形(コロサイ1:15)として来られた方こそ、私達の救い主、御子イエス・キリストだからです。

② 神を経験する
しかし、イエス様の十字架の血潮によって清いものとされたとは言っても、それは清いものとして扱って下さるというだけのこと。
私達の心は、相変わらず汚いままで、罪を犯し続けています。
これでは、私達の心が清くされた事にはなりません。
そこで、イエス様の話される「清さ」について、もう少し深く考えて見ましょう。

ここで使われている、「清い」という意味のギリシャ語「カサロス」には、3つの意味があります。
まず第一は、けがれていない、汚れていないということです。
知性に穢れのない人、感情に汚れのない人、意志に汚れのない純粋な人、しかしそんな人はこの世にいるはずがありません。
第二に、清いということは嘘がない、偽りがないことです。
まがい物ではない、間に合わせではない純正の心、清いという言葉にはそんな意味も含まれています。
そして第三には、かげひなたがない、二心がない、裏表がないという意味もあります。
まさに一枚の心、ひとつの心こそ、清い心だと言うそのような意味もあるのです。
この3つの意味合いが、聖書で使われる「清い」という言葉には含まれています。

コロラドに住んでいた頃、山奥に星を見に行った事がありました。
それは美しい湖の畔で、風のない日、星の姿が澄んだ水に映りこんで、どこからどこまでが空かわからない、まるで宇宙の真っ只中に放り出されたような、そんな経験をしました。
一方で、今住んでいる家の近くの公園にある池は、ヘドロでにごり、月の姿さえ映すことがありません。

私達の心は罪というへどろでにごり、清さを失った私達の心は月さえも映し出す事ができないかもしれません。
しかし、聖書の言うような、清い、澄んだ心をもって神様を見上げるなら、その心には神様が映し出されるでしょう。

私達の心が神様を見る。
私達は神様の御声を聞き、御心を知り、神様の意志を知ることができます。
私達は地上に生きながら、神様を経験する事ができるのです。

信仰がなければ偶然だと決め付けてしまうようなことの影に、神様の御手の働きを見たことはないでしょうか?
普通の人にとってはラッキーでしかないこと、そこに神様からの祝福を感じた事はないでしょうか?
私達が神様を見るなら、たとえ不幸が訪れても、逆境の中にいても、私達は神様の見ての中で平安を得、感謝する事ができるのです。
今の私達のピンチも、神様の計画の中にあると信じることができるからです。

二心のない、素直で純粋な思いによって神様を求め、イエス様を信仰する人は幸いです。
その人は神様の御声を聞き、御心を知り、意志を知り、神様を経験する事ができるからです。

③ 顔と顔を合わせて神様を見る
そう考えたとき、私達が心清くされるために必要なものがあるとすれば、それは信仰だと言うことができます。
嘘のない純粋な思いを持って神様を求めること、それが信仰です。
そのような信仰を持つとき、聖霊によって、そこに心の清さが与えられていくのです。

そろそろ話をまとめていきましょう。

詩篇 51:10 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

と、イスラエルの王ダビデは祈りました。
表面的に、人から認められるような正しい行いをすることによって清くされるのではなく、自分をこの世の罪から離し、修道僧となって修練することによって清くされるのでもなく、私達は心を神様に向ける信仰によって、清い心が造られていきます。

そして清い心に映し出された神を、私達は見る。
アブラハムが、神様の契約を聞いたように。
モーセが、燃え尽きない柴の中に神様を見出したように。
私達もまた、神様をこの肌で毛穴から感じ取り、神様が与えて下さる祝福のひとつひとつに感謝し、試練をともに乗り越え、祈りによって語り合う事ができます。

確かにこれは私たちに与えられた幸いです。
素晴らし経験です。
それでもなお、このようなことはこれから起きようとしている事に比べれば、まったくの無に等しい事なのです。
それを、パウロが手紙の中で話しています。

Iコリント 13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

私達が見る神様の栄光も、今はどこか不鮮明で、覆いがかかっているようです。
私達は時に神様の御心を見失い、神様の導きがどこにあるのかわからなくなり、神様から遠く離れてしまったように感じてしまう事もあります。

しかし、私達が希望を失う必要はありません。
私達はやがて、顔と顔を合わせて神様を見るときが来ます。
かつてイエス様が、弟子達の目の前で天に昇っていったのと同じように、私達の元に戻ってくる時が来ます。

その時には、私達がこれまで理解できなかった謎のすべてが明らかにされます。
私達はもう、飢える事も、渇く事もありません。
私たちからすべての重荷、痛み、苦しみが取り去られるのです。

私達はその時が近いことを信じ、希望にもち、心待ちにして生きようではありませんか。
黙示録の最後のところで、主ご自身が約束してくださっています。

「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来て下さい。
主イエスの恵みが、皆さんと共にありますように。

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