ヨハネ15:1-13 『 「豊かな実を結ぶために」―「己生えの人生」から「キリストに接がれる人生」へ 』 2010/08/08 小西孝蔵

ヨハネによる福音書第15章1~13節
「わたしは、まことのぶどうの木であり、私の父は、農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、身を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」(1,2節)
「あなた方は、私があなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」(2節)
「わたしにとどまりなさい。わたしもあなた方の中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ枝だけで実を結ぶことはできません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(3,4節)
「わたしは、ぶどうの木で、あなた方は、枝です。人がわたしにとどまり,わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなた方は何もすることができないからです。」(5節)
「だれでも、もし私にとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられ、火に投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」(6節)
「あなた方が、私にとどまり,私のことばがあなたにとどまるなら、何でもあなた方のほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなた方が多くの実を結び、私の弟子となることによって、私の父は、栄光をお受けになるのです。」(7,8節)
「父がわたしを愛されたように、私もあなた方を愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もしあなた方がわたしの戒めを守るなら、あなた方は、私の愛にとどまるのです。それは、私がわたしの父の戒めを守って、私の父の愛にとどまっているのと同じです。」(9,10節)
「わたしがこれらのことをあなた方に話したのは、私の喜びがあなた方のうちにあり、あなた方の喜びが満たされるためです。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これより大きな愛はだれも持っていません。」(11~13節)

1.ぶどうの木のたとえ

皆さんはぶどう狩りに行ったことがありますか?
佐野のブドウ園、大きな幹(10~20cm)と長い枝(10~20m)、ぶどうの収穫―巨峰、甲州ブドウ、マスカット・・・楽しいものです。英語では、Bear fruit ―実を結ぶ、成果を上げるという意味も。世の中では成果主義が求められています。受験勉強の方、夏期講習の成果は?企業の収益目標で娘も成果を上げることに四苦八苦? イエスのいわれる「成果」「実を結ぶ」とはどういうことか、学んでみたいと思います。

「わたしは、まことのぶどうの木であり、私の父は、農夫です。」(1節)

―イエス様は身近なものをたとえに出される生活者の視点。イスラエルでは、古代から
ワインをつくるぶどうは至る所に栽培されていたので、誰にもわかるたとえ。
旧約聖書でイスラエルの民がぶどうにたとえられていることもご存じだったはず・

「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑をもっていた。彼はそこを掘を取り除き、そこにぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸のぶどうができてしまった。」
(イザヤ5-1~2)

―イスラエルの民が神から離れ、偶像崇拝に走ったことに対する神の裁きが預言されています。紀元前8C 預言者イザヤの時代、イスラエルの民は、偶像崇拝によって神に離反しました。賄賂による不正、貧しい人を顧みない、宴会に明け暮れ・・・のために、神の裁きにあい、アッシリアに滅ぼされました。

2.イエス様に接ぎ木

「枝がぶどうの木についていなければ枝だけで実を結ぶことはできません。」(4節)
「わたしは、ぶどうの木で、あなた方は、枝です。」(5節)

ぶどうの枝のように、イエス様につながっていなさいという有名な個所です。
しかし、よく読んでみると、同じぶどうの幹につながっていて、実を結ぶ枝は、切られてもまた生えてくる、実を結ばない枝は、切られて捨てられて終わりというは、なんとなくよくわからない。しかし、ぶどうなどの果樹は、昔から接ぎ木によって栽培されていたことを考えるとよくわかる。

接ぎ木(graft)ー台木に穂木が接がれると、穂木は、台木から樹液を吸収して台木の性質に変わります(写真参照)。多くの場合、病気に弱い穂木が、病気の強い台木に接がれています。病気に弱いキュウリは、病気に強いカボチャに接がれます。

これと同じように、私たちも、わたしたちの罪のために身代わりとなって十字架上で死なれ、復活されたキリストにつながることによって、キリストともに、古い自分に死に、キリストとともに生きることができます。

「もしわたしたちが、キリストにつぎ合わされて(united together)、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。・・・もし私たちが、キリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」   (ローマ人への手紙6章5,8節)

3.わたしから離れては何もできない

「人がわたしにとどまり,わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなた方は何もすることができないからです。」
(5節)

イエス様から離れては何もできなかったが、イエス様に接ぎ木され、イエス様につながることによって、実を結ばせて頂いた例を二つ紹介させていただきます。

わたしの学生時代の挫折―人生の目標を失って、半年間落ち込む。放浪の旅、焦りと恐怖。それまで、神様の存在は信じていたが、自分の努力だけで生きてきました。イエスを離れては何もできないことを痛感。その後、キリスト教の学生寮で人生の師に出会いました。そのままでいいんだよと呼びかけてくださるイエスの愛を教えられて、平安を取り戻し、自分のミッションを与えられた。

種がこぼれて、そのまま芽が出た植物を「己生え」という。自分の力のみに頼って生きる人生は、「己生え」で、預言者イザヤのたとえで言えば、酸っぱいぶどうの実を結んだイスラエルの民のようなもの。イエスに接ぎ木され、すべてを主の御手に委ねることにより、私たちは生かされ、豊かな実を結ぶことができます。

もう一つの例として、先日VIP霞ヶ関の講師としてお招きした澤田冨美子さんの証しをご紹介したいと思います。彼女は、レコード大賞新人賞を取った元アイドル歌手、今では、百戦無敗の不動産投資家。角川書店から彼女の自伝が好評発売中。波乱万丈の生涯。妊娠中、最愛の夫が癌で亡くなり、失意のどん底に。5年間は子育てはするものの無気力な毎日。部屋に閉じこもって泣いてばかりいたそうです。
夫の死後4年経ったある日、友人のママ友の女性からもらった牧師のテープを繰り返し聞くうちに、「恐れるな、恐れるな」という言葉を耳にこびりつく。その後Ⅰ年ほど経ったある日、自殺を決意して玄関で泣きじゃくっていたところ、テープを送ってくれた友人の女性がたまたま訪ねてきて出会って、抱きしめてくれた。その時、「恐れるな、恐れるな」という声が再び聞こえてきた瞬間、なんともいえぬ喜びが爆発的に湧いてきた。その友人が、彼女の頭がおかしくなったのではと思ったほどだった。そして、その友人に誘われるがままに教会に行き、受洗した。
彼女は、まさに、キリストにつながったので、喜びに満たされたのです。それから、もともと好きだった、不動産投資を仕事にして、港区を中心にいくつものビルを所有するという実を結ぶことになるが、彼女が得た最大の実は、神様に愛されている喜びを人に伝えることにありました。

4.刈り込みによってもっと多くの実を結ぶ

「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、身を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」(2節)

ぶどうの枝は、収穫の後、8~9割まで刈り込みされます。それは、翌年に備えて、余分の物を切り落としておく必要があるからです。実をつけるための刈り込みは、う可決なのです。

自我の強いうちは、神は試練を与えて人間を鍛えられる。厳しい職場環境で、新しい仕事で、大きな成果を求められ、自分の知恵や力に頼ろうとしても、不安が募ることもある。病気や人間関係で行きづまることもある。気がついてみると何もできない、イエスというぶどうの木から離れて何もできない自分に気づかされます。しかし、こうした試練を通じて、神様は、私たちを鍛えてくださいます。そして、必ず解決の道を備えてくださいます。

「すべての懲らしめは,その時は喜ばしい物ではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に義の実を結ばせます。だから、弱った手と衰えたひざとをまっすぐにしなさい。」(ヘブル12-11~12)

澤田さんも夫の死という大変な試練を通して、イエスにつながり、枝は刈り込まれたけれど、さらに豊かに実を結ぶことができるようになったのです。

わたしたちは、どのような実を結ぶことができるのでしょうか? 実を結ぶとは、自分の欲望が満たされるということではなく、単にこの世の成功そのものを意味するのではありません。

「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」
(ガラテヤ5章22節)

他方、イエスに完全につながっている場合には、神はわたしたちが何が必要かご存知であるので、何でもほしいものを祈り求めれば与えられます。

「あなた方がわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなた方のほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(7節)「あなた方が多くの実を結び、私の弟子となることによって、私の父は、栄光をお受けになるのです。」(8節)

わたしたちの持っているタラントは様々。それを成長させていただいて、神の御用のために用いる、各自に与えられた賜物を神の栄光のために用いることができれば、それも豊かな実を結ぶことになります。若い人たちも大いに勉強して、自分に与えられたタラント、能力を伸ばして、神様の栄光のために用いてください。遠慮することはありません。大胆に祈り求めればいいのです。財産や社会的地位もそれを与えて下さった神様に栄光を帰し、神様の御用のためにささげるのであれば、豊かな実を結ぶことができます。

5.愛のうちにとどまり、互いに愛し合いなさい。

「父がわたしを愛されたように、私もあなた方を愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もしあなた方がわたしの戒めを守るなら、あなた方は、私の愛にとどまるのです。」(9,10節)
「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これより大きな愛はだれも持っていません。」(12、13節)

律法のうちで最も大事な戒めは何かと問われたイエスは、2つの戒めを上げられました。

「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして汝の神を愛せよ。」
「自分と同じように、汝の隣人を愛せよ。(マタイ22-36~39)

夫婦、親子、職場の上下関係、友人に対して、キリストは、互いに愛し合いなさい、仕えなさいという戒めを与えられた。仲のいい友人は愛せても、もっとも身近な存在である妻、夫を愛することがなかなか難しい人が多い。友のためにいのちを捨てることが最大の愛であるとされているということは、夫や妻のためにいのちを捨てるのは、イエスの与えられた愛の戒めに含まれる重要な部分です。
愛するとは、何かをしてあげる行為の前に、相手の身になって、相手の気持ちや状況を理解し、泣くものとともに泣き、喜ぶものとともに喜ぶことです。澤田さんの友人も彼女が自殺を試みようとした時にも彼女がいてくれた。澤田さんの悩みをそのまま聞き、受け入れてあげたことが、彼女の心を解放させたのです。

自己中心の自分が、どうしたら、隣人を愛せることができるのでしょうか。

「私たちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでにわたしたちを愛して下さったのなら、私たちも互いに愛し合うべきです。」 (Ⅰヨハネ4-10,11)

このような自己中心の罪びとでも、神様は、ひとり子をこの世に遣わして救ってくださった。その愛のうちにとどまり、その愛の大きさに触れるとき、私たちも、少しずつではあるが、人を愛する者に変えられていきます。そして、イエスの戒めを守って、隣人を愛することにより、神の愛をより深く感じることができる。神様との愛の関係と隣人との愛の関係とは、相互に循環しているのです。

イエスは、今日取り上げたぶどうの木のたとえ話を十字架につけられる前の最後の晩餐の席でお話になりました。その目的を次の言葉で表されました。

「わたしがこれらのことをあなた方に話したのは、私の喜びがあなた方のうちにあり、あなた方の喜びが満たされるためです。」(11節)

イエスにつながって結ぶ最大の実は、私たちの心に愛と喜びが満たされることにあります。
最後に、感謝と喜びを語るパウロの言葉で終わりたいと思います。

「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエスキリストの名によって父なる神に感謝しなさい。キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」(エペソ5-20,21)
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(ピリピ4-4)

今週も、日々祈りを通じて、キリストに接ぎ木され、つながることによって、新しい生命を頂き、生きる喜びと感謝をもちながら、過ごそうではありませんか。そして、家庭において、教会において、職場や友人関係において、イエス様から頂いた限りない愛と喜びを分かち与えようではありませんか。

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