ヨハネ4:3-18 『命の水が尽きない井戸』 2005/7/17 松田健太郎牧師

ヨハネによる福音書4:3~18
4:3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
4:4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。
4:5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。

4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。

4:9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。――
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
4:11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
4:12 あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」

4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

4:15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
4:17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。
4:18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。

皆さんにとってのイエス様のイメージはどのようなものでしょうか?
何をやらせても完璧で、まったく隙のない、慈愛に溢れ、疲れを知らず、何者にも屈しない。そのようなイメージでしょうか?
イエス様は神様なのですから、そう考えればその様なイメージを持つのも当然の事です。
実際に、ヨハネは神としてのイエス様をこの福音書の全体を通して描き出しています。
しかし、その様なイエス様がここで見せる表情は本当に人間的で、驚かされてしまいます。
6節を見てみましょう。
そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。
神であるイエス様は、ここで疲れを覚え、井戸の傍らで腰をおろしていたというのです。
ここでの出来事は、イエス様が人間でもあるのだということをわたし達に思い出させてくれますね。イエス様でも疲れるのです。
長い旅に疲れたイエス様が、井戸のかたわらに腰を下ろして休んでいた。それは6時頃だったと書かれています。これは今の時間で換算すると、ちょうどお昼、正午の頃だそうです。

さて、そこにサマリヤ人の女が現れます。

ここからのことに関しては、当時のサマリヤとイスラエルの関係について補足しておかなければなりません。
ヨハネ自信も9節の最後に書いていますが、この当時ユダヤ人はサマリヤ人とは犬猿の仲で、まったく付き合うということをしませんでした。
お互いにユダヤ人、サマリヤ人ということがわかると、口をきくということもなかったのです。
これには歴史的な背景が関係してくるのですが、今は詳細について話すのはやめておきましょう。しかしユダヤ人とサマリヤ人がそれ程までに仲が悪かったのは、サマリヤ人が純粋なイスラエル人ではなく、異邦人との混血になってしまっていたことが原因でした。
ユダヤ人たちは純潔を失ってしまったサマリヤ人たちを軽蔑し、彼らをイスラエルの末裔だとは認めず、礼拝にも参加させようとしませんでした。サマリヤ人たちは純潔を失いながらも神様を礼拝することをやめるわけにはいかなかったので、ユダヤ人たちが礼拝しているエルサレムとは違う山に神殿を建て、そこで自分たちだけで礼拝を始めます。
サマリヤ人たちはサマリヤ人たちで自分たちを正統派とし、聖書はモーセが書いた5書だけを聖書として、またその中の地名を自分たちが礼拝している場所の名前に書き換えてしまいました。
イエス様の時代では、その状態が何百年も続いた後のことでしたから、決してお互いが赦しあって仲良くなるということは考えられなかっただろうと思います。
韓国の方や中国の方が、過去の日本に対して抱いている苦い思い以上の確執と断絶が、互いの間にあったのだと思っていて下さい。
イエス様たちはこの時、ユダヤからガラリヤに向かって旅をしていたのですが、ユダヤ人ならば、遠回りになってもサマリヤを迂回する道を選ぶのが普通でした。
しかし、この時イエス様はサマリヤを通らなければならなかったのだと4節には書いてあります。

さて、サマリヤの女が水を汲みに井戸にやってくると、イエス様はこの女性に語り掛けました。
「わたしに水を飲ませて下さい。」
サマリヤ人のこの女性には、一目でユダヤ人だと判る男性が自分に話しかけてくるということが驚きでした。それも女性を蔑視しているユダヤ人が女である自分に話しかけてきたのです。
この驚きは人として当然のものだったでしょう。しかし、この女性は、このユダヤ人の男性がただのユダヤ人ではないということをまだ知りませんでした。
もしイエス様が誰なのかということを知っていたとしたら、彼女の驚きは更に増していたでしょう。
今日読んだ箇所の後にでてきますが、この女性は5回も離婚し、今は結婚もしていない男性と一緒に住んでいるという、道徳的にはいかがわしい身元の女性で、そのことを自覚してもいました。
普通の家庭なら早朝に井戸に来て、水を汲みにくるはずなのに正午という、他には誰も来ないような時間を選んで水を汲みに来たのは、そもそも他の人たちと目を合わせるのがいただったからです。
そんな自分に、神様が直接、興味を持って話しかけたのです。
皆さんはご自分をどの様に見ていらっしゃいますか? わたし達が自分をどれ程低く評価していても、どのような汚いことをしてきたとしても、神様は直接、わたし達に話しかけてくださいます。

驚いたサマリヤの女にイエス様は彼女に水を求めて話しかけた、本当の理由を明らかにします。
「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
これこそ、イエス様がこのサマリヤの女に話したかった本題でした。
これは福音の本質です。
わたし達はイエス様が誰なのかを知らなければ、自分には何の関係もないものだと考えてしまいますが、イエス様を知るとき、それが自分にとっていかに重要なものなのかを知り、それを求めようと思います。そして、求めるものには与えれらるのが救いなのです。

サマリヤの女はこの言葉を聞いた時点ではまだその事に気がついていません。
彼女はイエス様があくまでも水の事を話しているのだと考えて、話を続けています。ここで、サマリヤの女の言葉を良く考えて見ましょう。

4:11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。 4:12 あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」

サマリヤの女は、この章の冒頭で紹介されていたヤコブの井戸に固執している事が判ります。
ヤコブというのは、イスラエルの祖先に当たる人物です。まずアブラハムがいて神様と個人的な契約関係を結び、その子イサクに契約は引き継がれ、さらにその子供ヤコブにいたるまで、神様はイスラエルという民族ではなく、個人との深い関係を持ってきました。
ヤコブは後に、神様からイスラエルと名づけられ、ヤコブの12人の子供たちがやがてイスラエルの12部族へと成長していきます。
この井戸はヤコブがわたし達のために残した井戸なのだ。
ユダヤ人は我々サマリヤ人を異邦人のように扱っているけれど、わたし達もイスラエルの一部なのだというプライドのようなものがあったのかもしれません。
「あなたは生ける水とやらを与えるというけれど、ここにある歴史深い、伝統あるヤコブの井戸はとても深いものなのです。あなたはそれを汲むものさえ持っていないのに、どうやってそれを手に入れようというのですか?」と、サマリヤの女は皮肉っぽく答えています。
私達はどうでしょうか?
私達は自分の国の文化や伝統というものに固執していないでしょうか?
あるいは社会的な知恵や習慣に固執してはいないでしょうか?
あるいは自分の経験や本で得た知識に固執してはいないでしょうか?
わたし達が本当に求めるべきものがどこにあるのか、もう一度見直して見てください。

ヨハネ 4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

私達はみんな、心に渇きを持っています。
私達はそれを色々なもので満たそうとしているのです。
伝統や、宗教的な儀式で心の渇きを満たすことはできません。
職業や、学歴や、財産や、趣味や、異性や、快楽で癒した心は、すぐにまた渇いてしまいます。
しかし、イエス様が与える水を飲むものは誰でも、決して渇く事がありません。
イエス様に与えられた水は、私たちの中で泉となり、そこから永遠の命への水が湧き出るのだとイエス様は言います。
せっかく永遠の命の泉が与えられているのに、そこから飲まないで結局他のものから渇きを満たそうとはしていないでしょうか?
心の満たしをどこから得ようとしているのか、もう一度見つめなおして見てはいかがでしょうか?

イエス様はサマリヤの女のような、道徳的にも罪深い人間に自らが興味をもって語り掛けました。
イエス様は旅に疲れているそのような時でも、彼女と直接的な、親しい交わりを持ってくださいました。
この後にサマリヤの女は信仰告白をしています。

ヨハネ 4:15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
イエス様は振興を持ったわたし達全員に、決してつきない永遠の命の泉を与えて下さいます。
命の泉が与えられたサマリヤの女がこの後どうなったか、少しだけ見てみましょうか?

ヨハネ 4:28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。
4:29 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」
他の人たちと目を合わせたくなくて、他の人たちとは違う時間に水を汲みに行っていたこの女性は、町に戻って彼女の身に起こった事を人々に語りました。

ヨハネ 4:39 さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った。」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。
その女性の話を聞いて、多く人々がイエス様を信じ、彼らも救いに入ることができました。

皆さん、「わたしなんかには何もできない」って思っていませんか?
イエス様は言っています。

マルコ  9:23 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

心に永遠の命の泉を得たとき、わたし達にはすべてのことができるようになるのです。

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