ヨハネ5:1-15 『取り上げて歩け』 2005/07/24 松田健太郎牧師

ヨハネによる福音書5:1~15
5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
5:2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
5:3 その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。

5:4 [本節欠如]
5:5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
5:6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」

5:7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
5:8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
5:9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。
5:10 そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」

5:11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け。』と言われたのです。」
5:12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け。』と言った人はだれだ。」
5:13 しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。人が大ぜいそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。

5:14 その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」
5:15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと告げた。

私達は競争社会の中で生きています。
良い学校に行くためにも競争があります。努力して入った学校の中でも競争があります。
就職をしても会社の中で競争があり、他の会社との競争があります。
ビジネスの世界では勝ち組と負け組みがあって、誰もが勝ち組に入りたいと思っています。
ビジネスだけではありません。女性雑誌の記事のタイトルなどを見ていると、やせて、奇麗で、もてる女性は勝ち組で、そうでない女性は負け組みだというようなことが平気で書かれていたりします。
人気がある人は勝ち組で、グループで孤立している人たちや、いじめられている人たちは負け組みかもしれません。
健康第一の価値観において、健康を害した自分が負け組みに入ってしまったと感じている人たちも後を絶ちません。
何でも競争ですね。
経済的な原理から考えれば、競争はあった方がいいのかもしれません。そこにやりがいが生まれ、国の経済状況が良くなっていくわけですから、それ自体が決して悪いことではありません。
考えてみれば、自然の世界でも生存競争があって、生きるか死ぬかは競争で決められています。
2000年前、エルサレムの羊の門の近くにあるベテスダという池で起こっていたのも、そのような熾烈な競争でした。
この池には温泉が沸いていたという話があります。
間欠泉と同じような原理で、定期的に池の水がかき回されるように動いたというんですね。当時の人々は、それは天使が水をかき回しているんだと信じていました。この水がかき回された後、最初に水に入った人は病が癒されると信じていたんですね。
その効果が本当にあったのかどうかは判りません。
しかし沢山の人たちがその事を信じて、この池の周りに集まっていたのです。

イエス様はそこにふらりと現れると、そこにいた、38年間病に犯されていた人を癒してしまいました。
この病人が、ほかの人たちと比べて何か勝っていたわけではありません。神様の恵みは競争原理を超えたところにあるという事です。
日本では年間3万人もの人たちが自殺をしているというデータがあります。
自殺の理由を完全につきとめることはできませんから、その内のどれくらいの人たちがそうだと言う事はできませんが、多くの自殺者が自分を負け組みだと意識している、自尊心が低い人たちだというデータもでています。
私達は勝利者ではないかもしれない。周りの人たちを押しのけていく強さを持っていないかもしれない。
しかしお金持ちである事でなくても、社会的な成功者でなくても、美しい外見を持っていなくても神様の恵みを手にする事ができます。
イエス様の近くにいた人たちを見てみると、むしろ社会的には弱者や負け組みに属する人たちが多かった事がわかります。
わたし達が勝利者である必要はありません。なぜなら、イエス様が死に打ち勝ち、悪魔を滅ぼす勝利者となって下さったからです。
この世の競争原理に傷ついている方はいないでしょうか?
今、イエス様が尋ねています。「よくなりたいのか?」
私達はその心の打ち傷を、イエス様に差し出しましょう。

さて、イエス様はこの38年間病に冒された人に「よくなりたいのか?」と尋ねました。
それもおかしな質問ではないですか?
よくなりたいに決まってるじゃないか、と思わないでしょうか?
よくなりたいからこのベテスダに来たのだと言えば、そうですよね。
しかし、その後の答を聞くと、イエス様が「良くなりたいのか?」とわざわざ聞いた理由がわかってきます。
5:7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
この人は38年間この病に苦しめられてきました。
方々手を尽くしてきましたが、当時の医学では直す事ができませんでした。
そんな中でこのベテスダの池の話を聞き、やっとの思い出ここまで来たのです。
しかし、彼が来てからこれまで何度池が動いたのかはわかりませんが、自由にならない彼の体では、彼が水に入るより先に他の人たちが入ってしまうのです。
彼の最後の手段は絶たれ、希望は絶望へと変わっていきました。
よくなりたいと思っても、そのための努力はすべて摘み取られてしまった。
彼の口から出てくるのは、もう愚痴でしかありませんでした。
そのようなあきらめの心境を見て取ったイエス様は、「本気でよくなりたいのか。」という問いでこの人の本心をもう一度確かめたのです。

わたし達も、この38年間病にかかった人と同じようにあきらめてしまうときがあります。
慢性的なあきらめがわたし達の生活にもたらすのは、惰性の生き方です。
自分の性格がこうなのだから、今のこの生活がせいいっぱいだとか、しょうがないという想いに捕われてしまっているなら要注意です。
惰性で生きてしまうと何のためにその事をやっているのか、しまいには何のために生きているのかが判らなくなってきてしまいます。
そのような惰性の生活からは、新しい物は何も生まれてきませんし、そこからは退屈と不平、不満、つぶやきしか生まれてきません。
自分の可能性の限界につまずき、あきらめ、惰性の生活に入ってしまった私たちに、イエス様は「なおりたいのか?」と尋ねます。

私達は、本当に救われることを望んでいるのでしょうか?
自分の経験や、性格に合わせて、あるいは常識の範囲に神様の全能の力を制限してしまってはいないでしょうか?
わたし達が救いを受けると、私達の魂は新たに生まれ変わるのです。
自分のために築く、自分の力だけが頼りの人生ではありません。神様が主導の、神様のために、神様と共に生きる人生です。
それは、生き生きとした新たな人生が始まるということです。
今ある自分の姿や可能性だけを考えては始まりません。
自分の可能性を越えた所に希望を持つことが、信仰なのです。
私たちの前に在るのはふたつの選択肢です。
① イエス様による勝利を信じ、イエス様の問いかけに「ハイ」と答えて救いに入るのか?
② 今まで通り、地位や、財産や、外見や、学歴や、自分での勝利を目指してチャンスをうかがう生涯に留まるかです。
皆さんはどちらの道を選ぶのでしょうか?
イエス様は問いかけます。「よくなりたいのか?」よくなりたいのなら、私たちの選ぶべき道はひとつです。

38年間病に冒されていた人にとって、一番の障害は自分の体が動かないという状況でした。
病を治すためにベテスダの池まで来たのに、体が動かせないために癒すこともできない。
彼には解決不可能のジレンマに思えた事でしょう。
私たちの持っている障害はなんでしょうか?
それは、現実的に考えて解決の兆しが見えるでしょうか?
そういったことを考える前に、ここでこの後起こったことを見てみましょう。

38年間病にかかっていた人の言葉を聞いた後、イエス様が言った事はひとつでした。
「床を取り上げて歩きなさい。」
そしてその時、彼は歩き始めたのです。

わたし達もその様にするべきです。
イエス様がわたし達に伝えた言葉を、そのまま受け入れて、信じ、そのように行動する事ができたらどれだけ素晴らしいでしょうか。
イエス様は、いつも自分を犠牲にして、よい行いをしていないと気がすまない生き方をしなさいとは言っていないはずです。
あるいは逆に、罪の生活に浸ったままでいる事がクリスチャンとしての生き方だとも言っていないはずです。
新しい命を得たわたし達クリスチャンが、いつまでも信仰がないときと同じ生活をしているべきではありません。

主が「罪は赦された」と言うなら、私達はもう罪悪感にさいなまれなくていいのです。
主が「あなたは高価で尊い」と言うなら、私達はそれを信じましょう。
主が「あなたは永遠に生きる」と言うなら、すべての恐れをとり除くべきです。
主が「必要なものは与えられている」と言うのなら、心配はしなくていいのです。
主が「取り上げて歩きなさい」と言ったのだから、私達は立ち上がろうではありませんか。
今からでも遅くはありません。
立ち上がったとき、私達は古い自分が過去のものとなり、新しい人生に向かって歩き始めるのです。

 

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