ヨハネ6:22-40 『生ける命のパン』 2005/07/31 松田健太郎牧師

ヨハネによる福音書6:22~40
6:22 その翌日、湖の向こう岸にいた群衆は、そこには小舟が一隻あっただけで、ほかにはなかったこと、また、その舟にイエスは弟子たちといっしょに乗られないで、弟子たちだけが行ったということに気づいた。
6:23 しかし、主が感謝をささげられてから、人々がパンを食べた場所の近くに、テベリヤから数隻の小舟が来た。
6:24 群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来た。
6:25 そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。「先生。いつここにおいでになりましたか。」

6:26 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
6:27 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」

6:28 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」
6:29 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
6:30 そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。
6:31 私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」

6:32 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。
6:33 というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」

6:34 そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
6:36 しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。
6:37 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

6:38 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。 6:39 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」

今日は、パンについての話です。
イエス様は今日の箇所で、 「わたしがいのちのパンです。」と言いました。
なぜ、イエス様は自分をパンとして表現したのでしょうか?
みなさんパンという食べ物がどのようなものか考えて見てください。
パンはどこの国の特産品でしょうか? パンはどのような身分の人たちが食べた食べ物でしょうか? パンを食べる事ができる特別な日はいつでしょうか?
パンというのは、いつでも、どこでも、どんな人たちでも食べる食べ物なのです。
わたし達日本人にとっては、「わたしがいのちのご飯です。」といわれた方が身近に感じられるかもしれませんが、飽くまでもパンなのです。
私達はパンよりも、おかずが何かということが気になるかもしれません。
あるいは、パンのトッピングや、中に何が入っているのかとか、何味のパンなのかということを気にするかもしれません。
しかし神様にとってはそんな周りの事は二の次であって、そのままの素のパンの事を言いたかったのではないでしょうか?
今日読んでいただいた箇所は、5000人の人々を5つのパンと2匹の魚でおなかいっぱいにさせたという奇蹟を起こした後のことです。
イエス様はその後群集を離れましたが、群衆はイエス様を追って来ました。
イエス様はその群集に向かって言います。
6:26 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。 6:27 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」
26節でイエス様がいった“しるし”というのは、イエス様が旧約聖書に預言されていたキリスト、救世主だと言うことのしるし、そして救いの証という意味です。
つまりイエス様がここで言っているのは、「あなたがたがわたしを求めてくるのは、お腹がいっぱいになるような、実体験できるような奇蹟を目にしたからであって、信仰をもったからではない。」と言うことです。
目に見える現象として現れるもの、この世に直接影響を与えるものは確かに分かりやすく、私たちも驚きを感じます。
確かに、時として神様は癒しや、奇蹟という目に見える形での不思議を私たちに示して下さり、そこに神様の働きがあるということを教えてくれます。
確かに、社会を変えていく、世界を変えていくということが信仰を持った人たちの中で起こってきます。
そこに神様の働きがあるということは疑いないことでしょう。
しかし、神様が私たちにとってもっとも重要だと思っているものは、そのように簡単におもてに表れるものではなく、私たちが普段は意識もしない、もっと素の部分にあるのです。
永遠の命を得るという事はすぐにはわからないものです。
罪の赦しというものは目には見えません。
私達に欠けているのは、私たちが普段は殆ど意識すらしない内側の部分、霊の部分です。
奇蹟や、行いの部分は、パンの具や、トッピングに過ぎません。
それでも私達は、やはりその部分に目がいってしまうのです。
イエス様はこの様に言っています。
6:27 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。
別の時には、悪霊を追い出せるようになった弟子達をイエス様は戒めています。

ルカ10:20 「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」

私たちは福音の中心を見失ってしまってはいないでしょうか?
イエス様は奇蹟を起こし、人を癒し、ユダヤ社会を良くするために来たのではありません。
私たちを死の滅びから救い出だすために来られ、私たちの罪のために十字架に掛かって下さったのです。
永遠の命へと通じる道こそ、神様がイエス様を通して私たちにもたらしたものなのです。


普通の人が宗教のことを考える時に、何か善い行いをしなければならないという思い込みがあります。
イエス様が群集に、本当に価値のあるもののために働きなさいと言った時、群衆が真っ先に考えた事は、「では、神様に喜ばれるために何をしたらよいのだろうか?」ということでした。
6:28 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」
しかし、聖書が一貫して教えている事は、私達は善行を積むことによって救われるということはないということです。
よい行いをすることが悪いのではありません。
自分が良いと思う事は、皆さんしたらいいと思います。
ただ、人間には完全によい行いをするということができないのです。
それは、私たちが生まれながらにして持っている罪の性質のためです。
私たちの罪は根が深いので、善い行いをしているつもりでもそこに必ず罪が入り込んでいます。
どこかで見返りを求めていたり、虚栄心や、プライドが働いていたりします。
罪の匂いを嫌う神様には、私たちが善いおこないだと思ってしている事でも、そこに不純なものがかなり紛れ込んでしまっている事が見えみえなのです。
もしよい行いをする事が救いの条件になってしまったら、誰も救われることはないでしょう。
では、救われるために私たちには何ができるのでしょうか?
6:29 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
信じることは誰にでもできます。
しかし、神様に対しそれ以上のことは誰にもできません。
それこそ神様が求めている事であり、救いのための条件なのです。

群集たちは、「じゃあ私たちも信じよう」ということにはなりませんでした。
神様が喜ぶ事、神様のために私たちができる唯一の事は、神様が遣わしたあなたの事を信じることだと言うのか。ならば、あなたが神様から遣わされたということを証明して見せろと、群集はイエス様に言ったわけです。
ここに集まっていたのは、ユダヤ人たちでした。
旧約聖書にモーセという、ユダヤ人が最も尊敬する人物のひとりがいます。
モーセはイスラエルに神様からの律法をもたらし、彼自身も多くの奇蹟を生涯の間に現しました。
そのうちのひとつが、マナを降らせるという奇蹟でした。
イスラエルはエジプトに400年もの間奴隷となっていましたが、モーセが彼らを解放しました。
しかし、彼らの信仰不足が原因で、彼らは40年もの間、荒野を彷徨わなければなりませんでした。
40年もの間保存して持ち運びできるほどの食料があったわけでもなく、彼らは移動していて田畑も持ってなどいませんでしたが、その間イスラエルの人々の食料となったのはマナという天から降ったパンでした。
それは粉のようで、甘く、白くて、毎朝イスラエルの人々のテントの周りに降り積もっていました。
彼らは毎朝それを収穫し、安息日を除いては毎日、その日の分だけを採って食べました。
「モーセはそのような奇蹟を起こして、私たちの先祖を養ってくれた。神様があなたを遣わしたというならば、あなたはどの様なしるしを私たちに見せてくれるのか?」と、この群集はイエス様に聞いたのです。

彼らはつい先ほど、イエス様が5つのパンと2匹の魚で5000人もの人たちのおなかをいっぱいにしたのを見た人たちでした。
それだけでも十分ではないかと思うのですが、彼らはなおもしるしを要求しました。
目に見える現象だけを求める人々はこのようなものです。
「神がいるというなら、その証拠を見せてみろ。」という人が皆さんの周りにはいないでしょうか?
しかし、私たち人間はどれだけ証拠を見せられても、決して信じないのです。
それは証拠ではないと、その現象が起こった別の可能性を調べるかもしれません。
あるいは、その時はその出来事に驚いて信じたとしても、そのような現象を見せ続けられなければ、あるいはそれ以上の現象を見せられるのでなければ、そういう人たちは信じていくことができません。
最初にイエス様が、「あなたがたが私を捜すのはお腹がいっぱいになったからであって、しるしを見て信じたからではない。」と言ったのは、そのようなことだったのではないでしょうか?
イエス様の返事を見てみましょう。
6:32 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。 6:33 というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」
イエス様は、モーセの時代に起こったことと、今彼らの目の前で起こっていることを比較して、その違いを示しています。
第一に、マナはモーセによって人々に与えられたものではなく、飽くまでも神様が与えたものだと言う事、第二に、マナはその時、確かに人々を肉体の食物となりましたが、それはいのちの食物ではありませんでした。
神様が今人々に与えようとしているものは、死んでしまった霊を蘇らせる命のパン。
それこそがイエス・キリストなのだということです。

パンを焼くまでの工程を観た事があるでしょうか?
麦が切り取られ、収穫され、打ち砕かれて粉々にされ、練られ、叩きつけられ、高熱の炎にさらされて初めてパンになります。
キリストがどの様な方かをイエス様が生まれる700年も前に預言したイザヤの言葉を見てみましょう。
イザヤ 53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。 53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
イエス様は私たちの罪のために鞭打たれ、傷つけられ、裏切られ、神様からの怒りの炎にさらされました。
イエス様のうち傷によって私達は永遠の命を受けたのです。
6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
イエス・キリストといういのちのパンを私たちが食べるなら、私達の心はどんな時も決して飢える事がなく、私たちの魂は渇く事がありません。

あなたが例えパンの作り方を知っていたとしても、どれだけパンのことに詳しくても、パンの材料を説明する事ができても、どのパン屋さんのパンが美味しいかということを知っていても、パンは食べなければ意味がありません。
逆に言えば、今までパンを見た事がなかったとしても、味わってみればどのようなものかわかるというものです。
イエス・キリストといういのちのパンを、どうか味わって下さい。
食べてみればわかります。

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