ヨハネ8:1-12 『罪の無いものが投げなさい』 2005/8/14 松田健太郎牧師
ヨハネによる福音書8:1~12
8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。
8:2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。
8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、
8:4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
8:6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
8:7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
8:8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
8:10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
8:11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕
8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
① 8:4『この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。』
世の中不公平なもので、やればできる人と、やってもできない人がいます。
こんな事を言うと、「健太郎さん、そんな悲観的にならないで下さい。」と心配して下さるかたもいるのですが、もう少し聞いてください。
僕たちは時として、皆が同じ努力をすれば、同じレベルに達することができるはずだという幻想を抱いてはいないか、勘違いをしているのではないかと思うのです。
僕は中学校を卒業するまで、自慢にはならないですが成績はいつも下から数えた方が早かった。
その頃いつも一緒に遊んでいた友達は皆成績がよかったんですね。
いつも一緒に遊んでいて、同じテレビを観ていて、同じ塾に通っているのに、結果として表れる成績は違うということが、いつも不思議で仕方がありませんでした。
そこである日、僕はその友達に訊いてみたんです。
「どうやったらそんなにいい成績が取れるの?」
そうしたらその友達は答えたんですね。
「教科書一回読めば、だいたい覚えちゃうんだよね。」
僕の場合は教科書を読めば覚えられるどころか、教科書を10回くらい読んでも意味が分からないと言うレベルでした。
その時に、僕と友達とは根本的に何かが違うんだということがわかったのです。
僕の両親は、友達はお前に隠れて夜遅くまで勉強しているんだと言いましたが、基本的な理解力や記憶力が圧倒的に違うということは普段遊んでいるだけでもわかりました。
僕はそこで人一倍努力をして見返そうとは思いませんでしたが、少なくとも僕が彼らと同じ位の成績を取って、同じ高校に進学するためには彼らの数倍の努力が必要でした。
同じ時間勉強したから、同じ学習方法をしたから、同じ先生に習ったから同じ成績が取れるわけではありません。
でも中々それを認められない。
他の事でも同じことが言えます。
ホームレスの人々は、努力が足りなかったからホームレスになったとは限りません。
太っている人は努力が足りないから太ったとは限りません。
努力が足りないから子供が非行に走ったとは限りません。
でも私達は、どこかでそう思い込んでしまってはいないでしょうか?
今日の聖書箇所に出てくる律法学者やパリサイ派の人々は、やればできる人たちでした。
もちろん、彼らは律法を守り、聖い生活をするために並ならぬ努力をしていることも確かでしょう。
しかし努力をして、今の自分を手に入れたと感じている人たちは、それができない人たちを裁き始めるのです。
彼ら律法学者やパリサイ派のユダヤ人たちは、自分たちのように聖い生活ができない人たちを見下し、この時にはイエス様を陥れるための道具として利用しようとしたのです。
私たちの中に、この律法学者やパリサイ派の人々と同じような思いはないでしょうか。
私たちがどれほど努力して、良い事をしているつもりでも、悪い行いを避けているつもりでも、同じ事ができない人たちを裁いたり見下したりするなら、その中身は神様が求めている事とは程遠いものです。
もし私たちが誰かを裁くなら、私たちを裁くのは神様です。
② 8:7『罪のない者が投げなさい。』
律法学者とパリサイ派の人々が姦淫の女を連れてきて、
8:4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。 8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
と言った時、イエス様は、
8:6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
地面に何かを書いていました。
イエス様がこの時に何を書いていたのかということは、まったく重要ではありません。
律法学者達の質問にも答える必要がないと思われ、言ってみれば彼らを無視しようといていたわけです。
答える必要がないとイエス様が思ったのは、律法学者達の質問が本当の疑問から起こったのではなく、彼らがイエス様を引っ掛けて告発しようとしていたからです。
もしイエス様が「モーセの律法の通り石打ちにしなさい。」と答えたら、ローマの法律を無視した反逆罪として訴える事ができました。ユダヤ人には死刑を決定する権限が与えられていなかったからです。
一方で、もしイエス様が「赦してなりなさい。」とでも言おうものなら、モーセの律法を破るものとして断罪し、全ユダヤ人を味方につけることができるはずでした。
一刻も早くイエス様を陥れたい律法学者達は、中々答えようとしないイエス様に苛立ちを覚えた事でしょう。
あまりにしつこく彼らが答を急かせるので、イエス様は腰を上げると彼らにひとことだけ言いました。
8:7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」 8:8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
まったく意図していなかったこの答えに、彼らは呆然とした事でしょう。
最初は「何を言い出すんだ、こいつは?」というバカにしたような思いから、やがてその言葉の重さと、イエス様の権威に気がつき、彼らは完全に言葉を失ってしまいました。
やがて彼らは、年長者を始めとして、ひとりずつその場を後にしていきました。
罪を犯したことが無い者だけが、神に代わって人を裁くことができます。
罪を一度でも犯した人間は、自分自身も神に裁かれる側だからです。
彼らは誰一人として、その資格を持った者がいないという事に気がつきました。
彼らは罪から離れ、聖い生活をしていると自他共に認める律法学者やパリサイ派のユダヤ人たちでしたが、神様の前にあっては誰もが罪人であるということを認めざるを得なかったのです。
皆さんはどうでしょうか?
皆さんには、自分が罪人なんだという自覚はあるでしょうか?
他人の罪は目に付いても、自分の罪は見えにくいものです。
他人に対する罪ということを考えただけでも、私達はみんな加害者です。
貧しい国の人々は生活するのに必要なお金を作るために、自分のお腹がすいているのを我慢して自分の食料をお金に換えています。二束三文で買い叩かれた彼らの食料は、私たちが高級料理店で食べる肉の柔らかい牛肉を育てるために使われているそうです。
家族を養うために飢え死にしていく彼らの食料を、私たち先進国の人間は家畜にたべさせているのです。
私たちが安価で衣料や電器製品を買うために、貧しい国の人々は奴隷同然の人生を強いられているそうです。
私達は、先進国に生きているというそれだけでも、貧しい国の人々に対して罪深い事をしているのです。
しかし、ここで言われる罪とは、人に対する罪を指しているのではありません。
神様に想いを込めて創られた私たち人間が、創造者である神様を忘れてしまい、自分勝手に生きるようになってしまった事、神様から離れてしまった事が罪の根源なのだと聖書は教えています。
聖書で言われる罪というのは、人に害を与えることではなく、神様に対する罪です。
例え人間の社会では被害者であっても、神様に対する罪に関しては誰もが生まれながらにして加害者です。
どれだけ気を配って聖い生活をし、悪から離れようとしても、私たちの心には聖い生活をわずらわしいと思う心と、悪に対する憧れが消える事はありません。
それは、誰もが内に罪を持っているからです。
律法学者やパリサイ派の人々にも、良心の呵責がありました。
「罪の無いものが石を投げなさい。」と言ったイエス様の言葉は、彼らに罪があることを思い出させ、自分の罪への呵責から他の人々を裁く思い生まれていたことに気がつき始めました。
誰一人として、女に石を投げる資格を持つものはおらず、後には誰も残りませんでした。
③ 8:11『今からは決して罪を犯してはなりません。』
こうしてふたりだけが後に残された時、イエス様はこの女性に言いました。
8:10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」8:11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕
神の子であり、見ることができない神様の形であり、生まれたときから神様とともに歩んできたイエス様は神様に対する罪を持たず、神様の代わりに人を裁くことができる唯一の人でした。
そこに罪を犯した婦人と、人を裁く権威をもった唯一の人、イエス様だけが残ったのです。
しかしイエス様は、この婦人に言いました。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
イエス様は、「あなたを罪に定めない。」と言いました。
それは、この婦人の罪をイエス様ご自身が背負い、彼女が受けるはずだった刑罰をご自分が引き受けてくださることによって、彼女が赦されるためでした。
イエス様が十字架に掛かった時、現代を生きる私たちの罪をも、イエス様はご自分の身に背負って下さいました。
そしてイエス様は、私たちにこのように言って下さいます。
「あなたを罪に定めない。」
続いてイエス様は言っています。
「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
私たちは今まで神様に犯してきた罪を償う事はできません。
私たちにできるのは、今までの罪を悔い改める事。
罪から離れるという事です。
しかし、私達は自分の力だけで完全に罪から離れるということはできません。
それは先ほども言ったように、私たち人間が生まれながらにして神様から離れてしまっているからです。
だから私達は、イエス様を私たちの心に迎え入れ、イエス様に生きていただく必要があるのです。
それが、今まで逆らってきた神様と共に歩む道を選ぶという事です。
もしまだイエス様をまだ受け入れていないのであれば、どうかすぐにでも、イエス様を皆さんの心に迎え入れて下さい。
また、イエス様に来ていただいたのにまだ、自分の力にだけ頼った生き方をしているのであれば、全てを委ねてください。
そこから、新しい生活が始まります。
失敗を恐れる必要はありません。
イエス様が失敗の度毎に、このように言って下さいます。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」