使徒20:17-32 『 使徒㉜~パウロ別れの言葉 』 2013/04/21 松田健太郎牧師
使徒20:17~32
20:17 パウロは、ミレトからエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼んだ。
20:18 彼らが集まって来たとき、パウロはこう言った。「皆さんは、私がアジヤに足を踏み入れた最初の日から、私がいつもどんなふうにあなたがたと過ごして来たか、よくご存じです。
20:19 私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。
20:20 益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、
20:21 ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。
20:22 いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。
20:23 ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。
20:24 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。
20:25 皆さん。御国を宣べ伝えてあなたがたの中を巡回した私の顔を、あなたがたはもう二度と見ることがないことを、いま私は知っています。
20:26 ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。
20:27 私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。
20:28 あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。
20:29 私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。
20:30 あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。
20:31 ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。
20:32 いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。
先週は、エペソのアルテミス神殿で、クリスチャンを弾圧するための暴動が起ったという話をしました。
その騒動がおさまると、パウロたち一行は他の地方へと伝道旅行の旅を続けたんです。
第三回の伝道旅行もたくさんの町を回ったはずですが、使徒の働きでは、この事についてほとんど書かれていません。
ガラテヤ人への手紙、コリント人への手紙や、ローマ人への手紙など、パウロ書刊と呼ばれるいくつかの手紙はこの期間に書かれたと言われています。
旅の終わり、パウロにはもう一度エペソに戻りたいという思いがありました。
エペソの町を急いで去る事になってしまったため、色々伝え残した事があったのです。
とは言え、あれほど大きな騒動が起った事を考えると、不用意にエペソの町に入るわけにはいきませんでした。
そこでパウロは、エペソからも近いミレトという町に着くと、そこからエペソに遣いを送り、エペソの教会のリーダーたちをミレトに集めさせました。
その時エペソのリーダーたちに語られた言葉が、今日の聖書箇所に書かれている事です。
これは、パウロの告別説教とも呼ばれる部分です。
このメッセージは、エペソの教会のリーダーたちに語られた言葉ですが、わたし達へのメッセージとして受け取る事もできます。
今生の別れに当たって、パウロは何を伝えたかったのでしょうか?
① 行程を走りつくす
ここで、パウロが伝えたかった事は大きく分けて3つの事です。
第一は、これから起る出来事は、神様のご計画の内にある事だという事です。
パウロはこう言っています。
20:22 いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。
20:23 ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。
パウロがエルサレムに帰る時、具体的にどのような事が起り、それがどのような結果になるかという事は、自分自身ではわかりませんでした。
しかし、聖霊がはっきりと伝えていた事があったのです。
それは、パウロがこれから捕えられてしまうだろうという事です。
そして、エペソの教会にはもう2度と戻る事ができないだろうという事も、パウロにはわかっていました。
「これから、必ずそのような事が起るだろう。しかしその事を驚いてはならない。」と、パウロはエペソの人々に伝えたのです。
ローマ帝国に捕まって、牢獄に入れられ、ヘタをすれば命を奪われるかもしれないという事は、決して好ましい状況ではありません。
そんな事が起れば、みんなが嘆き、悲しみ、信仰さえも揺らいでしまうかもしれません。
「でも、案じてはならない。これはすべて、神様のご計画の中にある事なのだから。
自分がこれからどうなったとしても、驚いてはならない。これは神様が与え、導いた道だ。だから、何が起ろうともそれが最善なのだ。」と、伝えておきたかったのです。
続けて、パウロはこう言います。
20:24 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。
「これから困難が起る事をわたしは知っている。でも、神様が示すその道を、わたしは自ら選んで進んでいくのだ。」と、パウロは自らの覚悟と、信仰を明らかにしました。
わたし達は、神様がいつでもわたし達にとって良い事をもたらして下さると考える傾向があります。
だから何か悪い事が起ると、罪を犯してしまったために罰が与えられているのではないかと考えたり、神様に見話されてしまったように感じたりして、信仰が弱まってしまう事もあります。
しかし、確かな信仰を持ち、神様の御心に従っていたはずのパウロや使徒たちは、みな大変な状況を経験し、最終的には壮絶な死に方をしました。
わたし達の主であるイエス様もそうです。
いつも父なる神様とともにいたイエス様ご自身が、苦しい生涯を送ったはずです。
人生には苦難があり、患難があり、問題がたくさん起るものです。
わたし達が生きるのはそういう世界です。
しかしそれが、神様によって与えられた道なのであれば、それがどれほど過酷な道であったとしても、そこには神様の最善があると信じる事ができます。
わたし達には、それぞれに与えられた道があります。
わたし達に求められているのは、別に他の人と同じようになったり、立派な人のマネをするという事ではありません。
わたし達はただ、それぞれに与えられている工程を走りきる事を求められているのです。
② すべては話した
パウロがエペソの教会のリーダーたちに伝えたかった第2のことは、必要な事は全て伝えたという事です。
パウロはこう言っています。
20:26 ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。
20:27 私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。
この言葉は一見すると、責任逃れをしている、無責任な言葉のようにも見えます。
でも、パウロが言いたいのは「後の事は知らないよ」という事ではなく、自分が伝えられる事は全て伝え、自分の役目はもう終わったのだという事なのです。
残されるエペソの人々は、パウロと別れたくないのです。
これで会う事ができなかったとしても、手紙を通してでも末長く教え続けて欲しいと思っていた事でしょう。
できれば、生き残る道を選んで欲しい。
わたし達はまだパウロ先生の導きを必要としていると感じていたのです。
でもパウロは、ある意味では突き放すように、エペソの人々に自立を促しました。
実際に、全ての知識を伝える事ができたかどうかというのは、難しい事だと思います。
パウロ自身も未練はあるだろうし、本当はもっと伝えたい事もあったでしょう。
でも、神様はパウロを、次の道へと進ませました。
そしてその道は2度と戻っては来られない道だという事をパウロは知っていたのです。
だからこそパウロは、「わたしがいなくても、あなた達は大丈夫だ。」という事をエペソの人々に伝え、自信を持たせる必要があったのです。
パウロは続けてこうも言いました。
20:28 あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。
「これから先は、あなた達がリーダーとなってエペソの教会を支えていく事になる。あなた達にその役割を与えたのは、他の誰でもなく聖霊だ。だから自信を持ちなさい。」
彼らはこの様な励ましの言葉を必要としていたのです。
③ 神と御言葉にゆだねる
しかし、パウロは良い事を言うだけではなく、これからの事に関しては、彼らに警告も与える必要がありました。
パウロがエペソの人々に伝えたかった第三の事は、危機は教会にも訪れるいという事です。
使徒 20:29 私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。
20:30 あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。
パウロが第三回目の伝道旅行に出た頃から、ネロがローマ皇帝として即位していました。
それ以降、世界の情勢はどんどん悪くなる一方でした。
たくさんのクリスチャンが捕えられて拷問にかけられたり、処刑されてしまったりという迫害も始まっていました。
そして、内側からも異端の教えが広がり、多くの人達を惑わせるような動きも起っていたのです。
そのような問題が内から外から起るような時だからこそ、彼らは信仰的な自立をして、自分自身を守っていく必要があったのです。
この当時のローマ帝国やギリシヤとは状況が違いますが、現代のわたし達も様々な危機の中にあります。
わたし達を神様から引き離して、この世の価値観に縛りつけようとする誘惑はますます強くなっています。
迫害はこの当時とは形が違いますが、今でも大きな力を持ってわたし達を神様から引き離そうとしています。
異端やカルト的な考え方は、普通の教会の中にも起って人々を惑わせます。
わたし達は、これといって大きな影響力を持つ指導者の助けもない中で、このような脅威と闘わなければなりません。
偉大な先生だったパウロを失うに当たって、残されたエペソの人達の不安も大きなものだった事でしょう。
しかし、パウロはそれでも大丈夫だと太鼓判を押します。
その根拠は、次の通りです。
使徒 20:32 いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。
わたし達は目に見える助けや、知識、働きというものに必要以上に期待をしてしまう傾向があると思いますが、わたし達を本当に守り育てるのは、神様でありその御言葉です。
それは偉大な教師や牧師などよりもずっと確かで、力強くわたし達に力を与え、成長させて下さる存在です。
わたし達を取り巻く環境や状況にもたくさんの困難がありますが、神様と、その恵みのことばにすべてをゆだねて、与えられた行程を歩んでいこうではありませんか。