使徒1:1-9 『 使徒①~地の果てにまで 』 2012/04/15 松田健太郎牧師

使徒 1:1~9
1:1 テオピロよ。私は前の書で、イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて書き、
1:2 お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。
1:3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。
1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
1:6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
1:7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。

今日から新しく、使徒の働きのメッセージのシリーズが始まります。
実はこの使徒の働きからのメッセージは、2年くらいずっとやりたいと思っていたんです。
しかし、神様の時がまだ来ていないという感じで、ずっと先延ばしになっていました。
おそらく僕にも、この教会にも、その準備ができていなかったのだろうと思います。
でもいよいよ、使徒の働きを学ぶ時が来ました。
これを通して、神様がわたし達に何を語って下さるのかとても楽しみです。

さて、“使徒の働き”は、“聖霊の働き”というタイトルの方が正しいのではないかと言われている本です。
実際にこの使徒の働きを読み進めていくと、確かにペテロたちを中心とする何人かの使徒たちの働きについては書かれていますが、全ての使徒たちの活躍を紹介しているわけでもなく、途中からは完全にパウロを中心として話が進んで行くようになります。
しかしこの本の最初から最後まで常に描かれているのは、聖霊によって変えられた人達による教会の働きです。

今わたし達の教会は、「教会とは何か」という問題に取り組んで、そこに向かっていこうとしています。
だからこそ、わたし達が学ぶには、やはりベストのタイミングなのかもしれませんね。
それでは早速、使徒の働きを学んでいきましょう。

① イエス様の昇天
聖書は、使徒の働き以降、新しいステージに入っていく事になります。
それは、全ての人類にとっての新しいステージと言っていいかもしれません。

旧約聖書の時代は、父なる神による働きのステージでした。
その時代は、父なる神が直接人々に働きかけていたので、洪水で世界が滅んだり、天から火が降ったり、太陽が止まるというような大きな奇跡が起こりました。
また、神様とは聖なる存在であって、近づく事さえ叶わない程遠い存在だったのです。
この時代人々は、自然や、神の言葉としての律法、また預言者と言う特殊な人達を通して神様を知るしかありませんでした。

次に新約聖書になって、福音書の時代が始まります。
福音書の時代は、御子イエスによる働きのステージでした。
神が人の姿をとり、わたし達と同じ目線に立って下さったのです。
人々はイエス様を通して神様の愛を知る事ができ、神様の意思を理解しました。
しかし、ひとりしかいないイエス様を見る事ができる人は限られていました。

そして使徒の働き以降の新しいステージは、聖霊による働きのステージです。
時代が変わるにつれて、神様の人類に対する直接的な介入が少なくなり、バプテスマのヨハネを最後の預言者としてその代わりに御子イエス様が来られたように、次のステージに移るためにはイエス様は退場しなければなりませんでした。
だからこの使徒の働きは、先ほど読んでいただいたように、イエス様が昇天するという所から始まっているのです。

この事について、イエス様は十字架にかけられる前にこの様な話をしていたんです。
ヨハネ 16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

父なる神様も、イエス様も、いつでも私たち共にいて下さると言う事はできます。
しかしそれは、聖霊がわたし達の内に住まわっているという事が、父なる神もイエス様も共にいて下さるという事の意味なのです。

イエス様はひとり人であって、物理的に一つの場所に縛られます。
一度に大勢の人がイエス様と話す事はできない。
でも、聖霊がわたし達ひとりひとりとともにいてくださるのであれば、聖霊を受けた全ての人々が、神様と個人的な関係の中に入る事ができるのです。

この時代が、現代までも続いているという事を、皆さんは自覚しているでしょうか?
わたし達は、使徒の働きの時代に生きているのです。
そしてこの時代は、イエス様が再臨される終末の時まで終わる事はありません。
だからわたし達は、この使徒の働きをよく読んで、学んでいく必要があるのです。
それでは、聖霊の働きについてももう少し色々と考えていきましょう。

② 父の約束を待ちなさい
イースターで学んだように、イエス様はわたし達の罪を贖うために十字架にかけられ、その3日後に死を打ち破って蘇られました。
そしてその復活から、イエス様は40日の間弟子たちの前に現れて、イエス様が生きている事を人々に示したと書かれています。

その時イエス様は、弟子たちにこの様に言ったのです。

1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」

バプテスマというのは洗礼の事ですね。
ヨハネが授けた水によるバプテスマというのは、罪の悔い改めのためのバプテスマです。
自分が罪人である事を認め、その罪から離れ、神様に立ち返るという事を表明するための儀式と言ったらいいでしょうか。
このバプテスマという言葉の元々の意味は、“浸す”とか、“注ぐ”という意味があって、ヨハネが授けていたバプテスマは、文字通り水に浸したり、水を注ぎかける事によって行われていたものでした。

しかし、イエス様によって授けられるバプテスマは聖霊のバプテスマです。
人々に聖霊が注がれるのです。
この事は、バプテスマのヨハネも語っていましたね。

ルカ 3:16 ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

わたし達キリスト教会でも行われるバプテスマは、聖霊によるバプテスマを象徴した儀式的なものです。
本質は、わたし達を内側から生まれ変わらせる、聖霊によって与えられた真の命にある事を忘れてはなりません。
わたし達が天の御国に入るために必要なのは、単なる儀式としての、水によるバプテスマではなく、イエス様によって与えられる聖霊のバプテスマなのです。

そんな聖霊のバプテスマが、これから弟子たちの上に初めて注がれようとしている。
そして新しい聖霊による命が吹き込まれるまでは、エルサレムから離れてはならないと、イエス様は言っているのです。

③ エルサレムを離れてはならない
それにしても、イエス様はどうしてわざわざ、「エルサレムを離れてはならない」と言う必要があったのでしょうか?
これは、これから弟子たちがエルサレムを離れていくという事を示唆しているのです。

皆さんは大宣教命令と言う言葉を覚えているでしょうか?
マタイの福音書に描かれているこの命令ですね。

マタイ 28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

弟子たちは、これからエルサレムを離れ、イスラエルも離れ、全世界に送り出されようとしていました。
そして、これまではイスラエルの人々の中だけで伝えられていた福音を、全世界に述べ伝える必要があったのです。
それが、祭司の民族としてのイスラエルの使命だったと言う事ができるでしょう。

しかし、まだその時ではない。
それが起る前に、聖霊のバプテスマが与えられる必要があったのです。
「聖霊が授けられるまでは、エルサレムを出てはならない。」
「世界に出ていってはならない。」とイエス様は言っているのです。
それは、世界中の人々に福音を伝えていくという事は、聖霊の力によってでなければ不可能な事だからです。

イエス様は、聖霊の働きに関してこの様に言っています。

1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

神の国を拡大し、福音を述べ伝える力は、聖霊によって与えられるのです。
聖霊が弟子たちの上に臨み、聖霊の力を受ける時、彼らはエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、そして地の果てにまで福音を述べ伝えるようになっていくと言うのです。
それが、聖霊によってわたし達にもたらされる力です。

わたし達は、神の国をこの世界にも拡大していきます。
そのためにも、地の塩となり、世の光となって福音を述べ伝えていきます。
しかし、わたし達はそれを自分の力でやろうとしてしまう事がないでしょうか?

創意工夫した伝道や、説得。
自分の行いによって人々の気を引こうとしたり、イベントによって教会にきてもらったり。
一つ一つの事は素晴らしい事ですし、決して間違っているわけではありません。
しかし、そこに聖霊の力が注がれていなければ、その努力はほとんど意味をなしません。
わたし達には、聖霊なる神様の働きが必要なのです。

聖霊に働きなしになされる伝道は、例えうまくいったとしても、それは宗教的力の拡大でしかありません。
キリスト教はかつて国家的な力と結び付いて、植民地を拡大するようにして宣教を勧めてきた時代がありました。
しかし、それは決して神様の求めている手段ではない事を忘れてはならないと思います。

この時のクリスチャンたちが、聖霊が下るまでその活動を待たなければならなかったように、わたし達も何かを活動する時、そこに聖霊の導きを待つ必要があるのではないでしょうか。
わたし達が自分発信ではなく、聖霊によって導かれた働きをする時、わたし達は力を得、地の果てにまで及ぶキリストの証人としての働きをする事ができるのです。
わたし達がそのような力に溢れたクリスチャンとなる事ができますように、お祈りしましょう・・・。

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