使徒9:1-8,17-20 『使徒⑫~宗教から福音へ 』 2012/07/01 松田健太郎牧師
使徒9:1~8、17~20
9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
9:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
9:3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。
9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
9:7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
9:8 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
9:9 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。
9:17 そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
9:18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、
9:19 食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。
9:20 そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。
さて、いよいよスポットライトがサウロに当てられました。
このサウロが、後にパウロとなって新約聖書の大半を書く事になるのです。
この話は、“サウロの回心”として知られる話しです。
“回心”というのは、私たちが自分の罪を認めて神様に立ちかえる事を意味している言葉です。
でも、一つ注意して考えていただきたいのは、サウロはいわゆる堕落して、人生が破たんしてしまったような人ではなかったという事です。
私たちがよく聞くのは、「これまで悪い事をして、自分は迷惑ばかりかける人間でした。でもイエス様に出会って、私は変えられたのです。」という証です。
でも、彼はそうではありませんでした。
それどころか、彼は熱心に神様を信じる信仰者でもあったのです。
彼はしっかり律法に従っていましたから、目に見えて悪い事なんてしませんでした。
それどころか、毎日祈り、断食もしました。
彼はガマリエルという、当時は有名な学者の元で聖書を学び、そしてそれを実践する人でもありました。
でも、それではダメだったんです。
神様は、彼の人生をここから180度変えてしまったんです。
それはどのような転換だったでしょうか?
ある人はこの様に言うかもしれません。
それは、ユダヤ教からキリスト教への回心だったと。
確かにそういう見方もできるかもしれませんが、僕は単に宗教を変えたという事ではないと思っています。
彼が経験したのは、今日のメッセージのタイトルにもあるように、宗教から福音への転換だったのです。
それは一体、どのようなものなのか?
そして、どうやって変化する事ができるものなのか、どもに学んでいきましょう。
① イエス様と出会う
まず第一に、彼は復活したイエス様と出会いました。
これ以前にも、彼は神様に信仰をもっていたのです。
でも、そこには問題がありました。
それは、彼の信仰は宗教的な信仰であり、福音の信仰ではなかったという事です。
宗教は、私たちに何をもたらすでしょうか?
それは、義務や、規則や、正しい行いといったものです。
教理や教義というものも、この中に含まれるかもしれません。
でも、だから宗教を信じる人は行いが正しくなります。
それは、宗教にとって大切なのは、“私たちが”何をするかという事だからです。
教えの内容や神様の名前が違っても、宗教というものは大体、そのようなものです。
だから、ユダヤ教からキリスト教に改宗したとしても、その本質的な部分が変わっていなければ同じ事です。
しかしサウロは、イエス様と出会いました。
9:3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。
9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
サウロの『主よ、あなたはどなたですか。』という言葉は、ある意味象徴的な言葉ですね。
彼は『主よ』とそれが神様である事がわかっているはずなのに、『あなたはどなたですか』と、それが誰だかわからないでいたのです。
私たちを救い、私たちを本当に変えるのは、宗教ではありません。
教義や教理ではないと言った方がいいでしょうか?
私たちに救いを与え、私たちを内側から変えて下さるのは、イエス・キリストなんです。
私たちがどれだけ熱心に信仰し、聖書を学び、聖句を暗記し、祈り、断食をしたとしても、個人的にイエス様を知っているのでなければあまり意味がありません。
私たちは宗教的な生き方から、神様との関係である福音へとシフトを移していく必要があるのです。
私たちは、今も生きて私たち共におられるイエス様と出会っているでしょうか?
私たちがイエス様と出会う時、私たちの人生は本当の意味で変わっていきます。
私たちが聖書を読み、祈る時、それは単なる言葉のられつではなく、生きた神様との会話になっていきます。
私たちの神様との関係が回復するだけでなく、人との関係も回復していきます。
私たちは正しい事を表面的に取り繕って行うのではなく、心から喜んでする事ができるようになります。
私たちは罪から解放されます。
私たちは生きる目的を見出す事ができます。
そして、私たちは報酬を勝ち取る生き方から、恵みによって生きていくように変えられていくのです。
それが、福音的な生き方です。
サウロは、この後の人生でまさにこのような福音的な人生を経験する事になりました。
だからこそ彼は、多くの人達にこの福音を述べ伝えたいと願い、命をかけ、人生の全てを福音に捧げたのです。
② 砕かれて自分の無力さを知る
それでは、イエス様と出会ったサウロはどうやって変えられていったのでしょうか?
イエス様によってサウロは視力を失い、何も見えず、何も食べる事ができない3日間を過ごします。
そしてサウロは、これまで自分が悪者だと決めつけて迫害していたクリスチャンたちによって癒されるのです。
これを通して、サウロは二つの事を経験する事になります。
自分の義が打ち砕かれる事と、自分の無力さを知るという事です。
私たちが福音に生きるためには、この二つのプロセスを欠かすことができないからです。
私たちを神様の愛から引き離しているもの、その最たるものが、自分自身で築き上げた正しさです。
これは、罪の始まりである善悪の知識の木から取って食べた事と直結している罪ですね。
神様による正しさではなく、自分で自分を正しい者にしようとする事によって、私たちは本当の神様から離れ、自分を神にしようとしてしまうのです。
そのような自分自身の力や正しさというものは、神様の力や、神様から与えられる恵みを知るために打ち砕かれる必要があります。
そして私たちが無力である事を知る時、そこに起る全ての事が神様によるのだという事を初めて実感する事ができるのです。
サウロは、自分がいかに盲目であり、無力である事を知るために、この時期を経験する必要がありました。
私たちも、この様な経験をする必要があります。
皆さんも同じような経験をしたことがないでしょうか?
神様は私たちを、自分の力ではどうする事も出来ない、解決方法が見いだせない状況に置かれる事があるのです。
③ 助けを必要とする
さて、神様によって変えられるために必要なものが、もうひとつあります。
それは、私たちが変わる手助けをしてくれる仲間たちの存在です。
確かに、変わるのは私たちだし、変えてくれるのは神様です。
でも、私たちは多くの場合、変わるために手助けしてくれる仲間を必要とします。
それは、私たちがひとりではとても弱い存在であるためであり、私たちがひとりで生きるようには創られていないためです。
神様は人間を作った時、「人がひとりでいるのはよくない。」と言われました。
私たちは共に助け合い、共に愛し合う存在として創られているからです。
神様によって光を閉ざされたサウロの目を癒したのは、つい数日前まで自分が迫害していたクリスチャンのひとり、アナニヤでした。
そして癒されたサウロは、そのままダマスコの他の弟子たちと共にしばらくの時を過ごします。
これまで自分たちを迫害していたサウロを受け入れる事は、教会の人々にとっても大変な試練だったでしょう。
しかし、目が見えなくなったサウロの目を開かせるためには、彼らの存在がどうしても必要だったのです。
サウロの目が癒された時、彼の目からはうろこの様なものが落ちたと書かれています。
この言葉は『目から鱗が落ちる。』ということわざにもなっていますね。
それは、閉ざされていたサウロの目が今クリアになって、見るべきものが見えるようになったという証でした。
私たちの目にも、たくさんのうろこが入っていて、様々な事を見えないようにさせています。
そのうろこは、神様によって、しかし他の人達を通して取り除かれるのです。
私たちは、そのためにも謙遜になり、他の方たちの意見にも耳をすませ、他の人達によって癒される必要があるのではないでしょうか?
それは、すでに福音を受け入れている私たちにとっても同じ事です。
今、少し祈る時間を持ちながら、自分自身の中にあるうろこを気付かせていただきましょう。
そして、それを取り除く事ができる柔軟さと、謙遜が与えられますように。
私たちひとりひとりが、福音に生きる人生を送る事ができますように。