使徒12:6-16 『使徒⑱ 教会が祈る時(下)』 2012/08/26 松田健太郎牧師

使徒12:6~16
12:6 ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。
12:7 すると突然、主の御使いが現われ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい。」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。
12:8 そして御使いが、「帯を締めて、くつをはきなさい。」と言うので、彼はそのとおりにした。すると、「上着を着て、私について来なさい。」と言った。
12:9 そこで、外に出て、御使いについて行った。彼には御使いのしている事が現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと思われた。
12:10 彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たちまち彼を離れた。
12:11 そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。」
12:12 こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。
12:13 彼が入口の戸をたたくと、ロダという女中が応対に出て来た。
12:14 ところが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門を開けもしないで、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることをみなに知らせた。
12:15 彼らは、「あなたは気が狂っているのだ。」と言ったが、彼女は本当だと言い張った。そこで彼らは、「それは彼の御使いだ。」と言っていた。
12:16 しかし、ペテロはたたき続けていた。彼らが門を開けると、そこにペテロがいたので、非常に驚いた。

今日は先週からの続きとなります。
先週いらっしゃらなかった方のために、少し復習しましょう。

イスラエルの王ヘロデ・アグリッパ1世によって、新たなクリスチャンへの迫害が始まりました。
ヨハネの兄弟であるヤコブ(James)が殺され、全クリスチャンのリーダーとなっていたペテロも、囚われの身となってしまったのです。
そのような中で、教会は心をひとつにして祈りました。

祈りによって、私たちは神様の声に耳を澄ませ、祈りによってわたし達の心はひとつとなるのだという事を、先週はお話ししたんですね。
今日は、引き続き祈りについて考えながら、祈りによって何が起ったかという事を考えていきたいと思います。

① なぜ待たなければならないのか?
教会は、心をひとつにして、ペテロが解放されるために熱心に祈りました。
それがどれくらいの間だったのかはわかりませんが、ペテロが牢獄から引き出されて処刑されるその前日まで、祈りに対する答えは何もなかったのです。
神様はこの様に、なかなか祈りに応えてくれないという事があります。
むしろ待たされる事がほとんどではないでしょうか?

皆さんは、長い間祈っているけれど、まだ答えられていない祈りはあるでしょうか?
神様はなぜ、すぐに祈りに応えてくれないのですか?
どうしていつでも待たせるのでしょうか?
その理由には、いくつかの事があげられるだろうと思います。

それは、単に最善のタイミングが今ではないというだけの問題かもしれません。
あるいは、私たちのコンディションが整うのを、神様は待っているのかもしれません。
わたし達の中に罪があったり、御心に叶わない事だという可能性もあります。
聖書には、そのような理由によって祈りが答えられない事があると書かれています。

ペテロのために祈る人々も、自分の中に何が問題があるのではないかとか、祈り方が間違っているのだろうかとか、あるいは罪を悔い改めていない人が教会の中にいるのではないかとかいろいろ考えたのではないでしょうか?
しかし、そのどれも当てはまらなかったとしても、私たちはやはり待つのです。

神様がわたし達を待たせる理由の一つは、私たちがより深いコミュニケーションを神様と持つためです。
祈りとは、神様とのコミュニケーションだというお話を先週もしました。
わたし達が祈り、それでも答えられない時、わたし達はその事について繰り返し祈り、神様からの答えを引き出そうとするのではないでしょうか?
その事を通して、私たちはより深く神様の御心を知り、神様との関係が深まるのです。

神様がわたし達を待たせる二つ目の理由は、私たちが甘やかされてしまわないためです。
祈りが、自動販売機のようにお金を入れて願えば叶うようなものであったなら、私たちの心は、全てを自分の思い通りにする事にしか向かなくなってしまうでしょう。
しかし、神様がわたし達に求めているのは、世界がわたし達の思い通りになって行く事ではなく、私たちが神様の御心と一致していく事です。
わたし達は、祈りがすぐに答えられないという事によって、全てが自分の思い通りにはならないという事を学んでいるのです。

神様がわたし達を待たせる第三の理由は、私たちの信仰が増し、より深く信頼できるようになるためです。
わたし達は、待たされると心配になります。
神様は答えて下さらないのではないかと思うからです。
それでも待ち続けるためには、神様への信頼が必要になります。
わたし達がより難しい状況で、より長く神様を待ち望む事によって、私たちの信仰は鍛錬されていくのです。

② 神様の答えはわたし達の思いと違う
さて、そうして祈り続ける中で、奇跡は突然起ります。
ペテロの元に御使いが現れ、鎖をはずし、見張りの目を潜り抜けてペテロを救いだしたのです。
それがあまりにも速やかに、そして奇跡的な方向で起ったので、ペテロを監視していた兵士たちを始め、ペテロ本人も、そしてペテロのために祈っていた人々も何が起ったのかを把握できないほどでした。

しかし、ペテロがこのままボーっとしていたのでは、兵たちに見つかってしまいます。
解放されたペテロが向かったのは、皆が心を合わせて祈っている家でした。
人々が祈っている家に行って、ペテロがその扉を叩くと、ロダというその家に仕える女中が出てきました。
しかし、扉の外にいるのがペテロだとわかると、ロダはあまりにも驚いてペテロをそのまま置いて、人々が祈っている部屋に走って皆に知らせたのです。(12:14)

人々は、どのように反応したでしょう?
「祈りが聞かれた」と言って、ペテロの帰還を喜んだでしょうか?
いいえ、人々はロダの言葉を信じる事が出来ず、「何をバカな事を言っているんだ。」と言って祈り続けようとしたのです。

彼らは「ペテロが解放されるように。」と祈っていたんですよ。
しかし、彼らはその事を祈っていながら、“祈りが聞かれてペテロが無事に帰ってきた”という事を信じる事ができなかったのです。

わたし達にもそういう事があるかもしれません。
すでに癒されているのに、癒されてる事を信じる事ができなかったり。
答えが与えられている事を受け入れる事ができなくて、「答えを与えて下さい」と祈り続けている事があるかもしれません。

先週も言いましたが、私たちは自分の思った答えを求め過ぎるあまり、それ以外を答えとして見る事が出来なる事があります。
神様が全く違う方法で解決をもたらすと、それが祈りの答えである事を認める事ができなかったりするのです。
そうして私たちは、どれほど多くの祈りの答えを見過ごしてしまっている事でしょう?
だからこそ祈る時、私たちは神様の声にもっと耳を澄ませる必要があるのかもしれませんね。

しばらくの間待つ事にはなりましたが、幸いペテロは、またヘロデ王たちに捕えられる前に、帰還した事を受け入れてもらう事ができました。

③ わたし達の思いを超える、神様の方法
ペテロは何とか処刑を逃れて脱出する事ができましたが、ヘロデ王による脅威は残っていました。
今度見つかったら、その場ですぐにころされてしまうかもしれません。

しかし、神様の奇蹟は、そこでは終わりませんでした。
ペテロが救いだされただけでなく、ヘロデ王の上に神様の裁きが臨んだのです。
ルカは、その後ヘロデの上にどのような事が起ったかについて引き続き述べています。

使徒 12:20 さて、ヘロデはツロとシドンの人々に対して強い敵意を抱いていた。そこで彼らはみなでそろって彼をたずね、王の侍従ブラストに取り入って和解を求めた。その地方は王の国から食糧を得ていたからである。
12:21 定められた日に、ヘロデは王服を着けて、王座に着き、彼らに向かって演説を始めた。
12:22 そこで民衆は、「神の声だ。人間の声ではない。」と叫び続けた。
12:23 するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた。

嘘のような話ですが、ヨセフスというこの当時の歴史家も、ヘロデ王が腹痛による不自然な死に方をした事を記録しています。
何にしても、これによってひとまずの脅威は去った事になります。
聖書はこう教えています。

ローマ 12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

神様はこの様に道を開いて下さる事もあれば、その道を閉ざされる事もあります。
ペテロはこうして、助けられましたが、ヤコブは殺されました。
人々は、ヤコブのためには祈らなかったのでしょうか?
確かに、教会がヤコブのために祈ったとは書いてありませんが、祈らなかったとは考えにくい事だと思います。
しかし神様は、ヤコブが殺されるままにしました。

これはもちろん、神様はペテロを愛したがヤコブは愛さなかったという事ではありませんし、ヤコブを見捨てたわけでもありません。
ヤコブはそのまま、神様の御元に行ったのです。

祈った結果がどうなるかも含めて、私たちは自分の方法を信じるのではなく、神様の方法を求め続ける必要があります。
それがわたし達の思いとは全く違ったとしても、私たちはそこに最善がある事を信じ続けましょう。
今のわたし達にはわからなくても天の御国で、私たちはそれが最善だったと知る事になるはずだからです。
そしてわたし達は、より神様の御心に近づいて、神様の最善を求めていく事ができるように、祈り求めていく必要があるのです。

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