黙示録14:1-13 『 黙示録⑮~主にあって死ぬ者の幸い 』 2012/01/08 松田健太郎牧師

黙示録14:1~13
14:1 また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。
14:2 私は天からの声を聞いた。大水の音のようで、また、激しい雷鳴のようであった。また、私の聞いたその声は、立琴をひく人々が立琴をかき鳴らしている音のようでもあった。
14:3 彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。
14:4 彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。
14:5 彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。
14:6 また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。
14:7 彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」
14:8 また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。「大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」
14:9 また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、
14:10 そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。
14:11 そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。
14:12 神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」
14:13 また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。」

今日からまた、黙示録に戻ります。
少し間が空いてしまったので、少しこれまでのおさらいをしたいと思います。

黙示録は、7つの教会を代表する全てのクリスチャンに宛てた手紙でした。
そしてその中で、ヨハネが神様に見せていただいたビジョンを共有しているんですね。
その内容は、この世の終わりに当たって、人が天の御国に行くか、それともサタンと共に地獄に下るかという事が分けられるという決断を迫る内容です。
サタンはアダムとエバの時代から人を神様から引き離し、地獄への道連れにしようとしました。
しかし神様は人類を助けるために、ひとり子であるイエス・キリストを救い主としてわたし達の元に送ってくださったんです。
それを信じるクリスチャンたちは、いつの時代も大きな迫害を受ける。
しかし世の終わりに当たってその迫害はよりその力を増すだろう。
それでもその暗黒の時代の中で、神様はひとりでも多くの人達をご自分の元に引き寄せようとしている、というのが大きな内容です。

前回黙示録からお話ししたのは3週間前になりますが、その時にはいよいよ悪魔が力をたくわえて地上に現れ、言わば悪魔の三位一体として多くの人々を道ずれにしようとしている所でした。
そこで有名な“666”という言葉も、わたし達は読んだんでしたね。

① 天に轟く賛美
そんな暗黒の頂点、人類はどうやって太刀打ちできるだろうというさ中にあって、今日の個所(14章)はこんな言葉から始まっているんです。

黙示録 14:1 また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。
14:2 私は天からの声を聞いた。大水の音のようで、また、激しい雷鳴のようであった。また、私の聞いたその声は、立琴をひく人々が立琴をかき鳴らしている音のようでもあった。
14:3 彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。
14:4 彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。
14:5 彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。

天国に、おびただしい数の人達が立っていたんです。
それは、小羊イエスの名前と、父なる神様の名前が額に刻まれた人々、つまりクリスチャンでした。
そこには、大水や激しい雷鳴のように激しく、しかし竪琴をつま弾くように美しい音が溢れていました。
それは、このおびただしい数のクリスチャンたちが歌っている賛美の声だったのです。
この人々は、「女に汚された事のない人々」と書いてありますが、性体験がないという事では全然ありません。
偶像崇拝という霊的姦淫をおかさない、神様一筋の人達という事です。
そして彼らが歌うこの賛美は、この様な歌だったと書いてあります。

14:3 彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。

これについて少しお話したいと思うんです。
クリスチャンたちにしか歌う事のできない新しい歌とは何でしょうか?

実は先日、森木さんからこの様な話を聞きました。
森木さんはファミリーセンター東京ベーテルという親子広場の働きをしていらっしゃいますが、そこにいらっしゃっている方がゴスペルグループに所属していて、ちょっとしたコンサートをしてくれたそうです。
その時森木さんは、いわゆるブラックゴスペルのクワイヤが歌うのを初めて聴いたそうですが、普通のコーラスと何が違うのか分からないという印象だったそうです。

ところがそれからしばらくして、この教会のゴスペルシンガーズが歌うのを、クリスマスの時に聴く事ができました。
すると、以前に聴いたのとは全然違う、何か心に響くものを感じたんだそうなんです。

このふたつのゴスペル音楽の間に何が違ったのでしょうか?
実は、最初に聴いたゴスペルグループは、ノンクリスチャンたちのグループでした。
今は日本中でゴスペルがはやっているので、こういうノンクリスチャンのゴスペルグループのたくさんいるんですね。
彼らのゴスペルは、音楽のジャンルとしてゴスペルを見ていて、上手に歌うという事が目指している所です。
でも、クリスチャンのゴスペルは神様への感謝であり、喜びであり、賛美であり、愛の表現なのです。
これは、本当の意味で福音(ゴスペル)を知っている人からしか出てこない、表面だけでは絶対にまねる事の出来ないものなんです。

しかし、クリスチャンでない人達がゴスペルを歌うべきではないとは僕は思いません。
ゴスペルを歌う事は、その人達にとって神様とである大きなチャンスだからです。
聖書の中では、神様は「イスラエルの賛美の中に住まわれる(詩篇22:3)」と書かれています。
この教会のゴスペルクワイヤ、Tokyo Bay Blessingには、最近見学に来られる方がたくさんいます。
その人達は、ゴスペルに興味を持ちつつ、でも教会なんて行った事がないとか、初めて本物のゴスペルに触れるという方が多いんですね。
その人達の多くが、クワイヤで一緒に練習をしている時に、泣き始めるんです。
どうして涙が出てくるのか分らない人達もいます。
でも、神様の愛と福音に触れて、心を揺さぶれるのだと思うのです。

Tokyo Bay Blessingがクワイヤとして上手かというと、ま~へたくそではありませんが、プロというにはまだまだ程遠いのが実力かもしれません。
でも、その歌を聴き、その中にあって、神様を知らない人達が心を打たれる。
そして、そこからたくさんの人達が、イエス様を求めるようになっていく。
それが、神様を賛美する力なのです。

② 絶望の中の希望
さて問題なのは、サタンが三位一体をまねて地上に現れ、人類も絶体絶命と思えるようなシーンだったのに、どうして突然賛美が鳴り響くのかという事です。
その理由を明らかにするかのように、3人の御使いが現れます。

ひとり目の御使いは、福音をたずさえてきて、こう叫びました。

黙示録 14:7 彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」

第2の御使いはこう言いました。

黙示録 14:8 また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。「大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」

この大バビロンというのは、また後の章で出てくるのでその時に詳しく話しますが、要は悪魔の力は倒れるという事です。

そして第3の御使いはこう言いました。

黙示録 14:9 また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、
14:10 そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。
14:11 そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。
14:12 神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」

これは、悪の力はこのまま続くのではなく、裁きを受けて倒されるのだから大丈夫だという事を言っているのです。
こうして過去の事として書かれている言葉は、実はすべて未来に起る出来事です。
でもそれは、すでに起ったこととして過去形で書く事ができるほど、確実に起る事だというヘブル的表現なんですね。

わたし達は、今の世の中にあってもたくさんの苦難を経験します。
未来の見通しがきかないような、絶望的な状況に陥る事があります。
この世にはたくさんの迫害も起り、たくさんの人達が命を落とし続けています。
でもわたし達は、決して絶望する必要はない。
どんな苦難の中にあったとしても、わたし達は勝利の確信をもって賛美する事ができるのだと、聖書は教えてくれているのです。


そして最後に、この手紙を読んでいる7つの教会を始めとする、様々な教会にとって、希望の言葉が述べられています。
それはこの言葉です。

黙示録 14:13 また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」

この時代、すでにたくさんの人達が迫害を受け、主の御名のために命を奪われていました。
その人達は、神様への愛と信仰をつらぬいて死んでいったのですが、残された人達の中には不安ややりきれない気持ちもあったのです。
その中にあって、黙示録のこの宣言は、そのような人達にどれほど大きな平安を与えた事でしょうか?

しかしこの言葉は、“今から後“という言葉で始まっています。
“今から後、主にあって死ぬ者は幸いである。”
では、それ以前の人達は幸いではないのかというと、そういう意味ではありません。
これは、黙示録が書かれ、こうして読まれている後にも、主にあって死ぬ者がまだまだたくさん起こされるという事です。

確かにわれわれは大変な迫害の時を超えていかなければならない。
これからも多くの人達が命を奪われるだろう。
でもそうして殺されていく人達も、その後には全ての事から解放され、神様の偉大な平安の中で安らぐ事ができるのだ。

苦しいだけがクリスチャンの人生ではありません。
神様はたくさんの喜びを、わたし達クリスチャンに与えて下さいます。
しかし例え、喜びを見いだす事が難しい人生を送る事になったとしても、わたし達には天国で永遠の安らぎが約束されています。
今は大変かもしれない。
でも、安心しても良いんです。
喜んでいいんです。
全てから解放されて安らぐ時は、必ず来るのですから。

Iテサロニケ 5:16 いつも喜んでいなさい。5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

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