II列王記22:1-11 『⑲わたし達に必要なのは…』 2011/07/03 松田健太郎牧師

II列王記22:1~11
22:1 ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年間、王であった。彼の母の名はエディダといい、ボツカテの出のアダヤの娘であった。
22:2 彼は主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった。
22:3 ヨシヤ王の第十八年に、王はメシュラムの子アツァルヤの子である書記シャファンを主の宮に遣わして言った。
22:4 「大祭司ヒルキヤのもとに上って行き、主の宮に納められた金、すなわち、入口を守る者たちが民から集めたものを彼に計算させ、
22:5 それを主の宮で工事している監督者たちの手に渡しなさい。それを主の宮で工事している者たちに渡し、宮の破損の修理をさせなさい。
22:6 木工、建築師、石工に渡し、また宮の修理のための木材や切り石を買わせなさい。
22:7 ただし、彼らの手に渡した金を彼らといっしょに勘定してはならない。彼らは忠実に働いているからである。」
22:8 そのとき、大祭司ヒルキヤは書記シャファンに、「私は主の宮で律法の書を見つけました。」と言って、その書物をシャファンに渡したので、彼はそれを読んだ。
22:9 書記シャファンは王のもとに行って、王に報告して言った。「しもべたちは、宮にあった金を箱からあけて、これを主の宮で工事している監督者たちの手に渡しました。」
22:10 ついで、書記シャファンは王に告げて、言った。「祭司ヒルキヤが私に一つの書物を渡してくれました。」そして、シャファンは王の前でそれを読み上げた。
22:11 王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた。

さて、今日でいよいよ列王記のシリーズは終わります。
最後の方はずいぶん跳び跳びで、駆け足で終わってしまった感じがあります。
余裕があったら、ひとりひとりの王様を眺めながら、またその時代に活躍した預言者達にも目を留めながら進んで行きたかったのですが、それはまた別の機会にしましょう。
その時にはまた、この辺りの話に戻ってくる事があると思います。

さて、列王記の話は、ダビデ王の“罪”によって生まれたソロモンから始まりました。
そして、イスラエルの“罪”によって滅ぼされたアッシリヤ捕囚、ユダの“罪”が高まった結果であるバビロン捕囚で終わるのです。
列王記がカバーする、およそ400年の歴史の間に、神様はもちろん何度も救いの手を差しのばしたわけですが、それでもイスラエルは“罪”の中に留まり続けました。

そのような“罪”の真っただ中で、今日の登場人物ヨシヤはユダ王国の宗教改革に取り組みます。
ヨシヤがどのようにして宗教改革をするにいたったのか、またそれは成功したのか、宗教改革が行われたのにも関わらず、ユダ王国もやはりバビロニア帝国に占領されてしまったのはなぜなのかという事を通して、神様の想いに迫っていきたいと思います。

① マナセ王の罪~罪は自分だけでなく、愛する子供たちをも苦しめる
まずは、少し時間をさかのぼって、ヨシヤ王のおじいさんに当たるマナセ王を見て行きましょう。
イスラエルの歴史で王様が出てきた時は、まずそれが良い王様だったのか、悪い王様だったのかを押さえなければなりません。
マナセ王はどうかと言えば、数あるユダ王国の王様の中でも、特に悪い王様だったんです。

II列王記 21:9 しかし、彼らはこれに聞き従わず、マナセは彼らを迷わせて、主がイスラエル人の前で根絶やしにされた異邦人よりも、さらに悪いことを行なわせた。
21:10 主は、そのしもべ預言者たちによって、次のように告げられた。
21:11 「ユダの王マナセは、これらの忌みきらうべきことを、彼以前にいたエモリ人が行なったすべてのことよりもさらに悪いことを行ない、その偶像でユダにまで罪を犯させた。
21:12 それゆえ、イスラエルの神、主は、こう仰せられる。見よ。わたしはエルサレムとユダにわざわいをもたらす。だれでもそれを聞く者は、二つの耳が鳴るであろう。

悪い王様だったという事は、統治者としての悪さもあるでしょうが、何よりも神様への信仰を持たず、ユダの人々を神様から引き離したという事を意味しています。
マナセ王は人々に偶像を崇めさせ、神様を侮辱し、子供たちを生贄として捧げ、魔術や霊媒をしました。
それは、悪さゆえに神の裁きを受けて滅ぼされた外国の国々よりも酷いものでした。
言い伝えでは、預言者イザヤはこのマナセ王によって、しかものこぎりで挽かれて殺されたと言われています。

神様は、罪を憎みます。
それをもって、キリスト教の神様は心が狭いと言う人もいます。
「罪だろうが何だろうが、自分の好きなようにして何が悪い。」というのです。
しかし神様は、何もわたし達を型にはめて、そこから外れた者を罪人だと決めつけて罰するのではありません。

神様が罪を憎むのは、罪は一見楽しく、心地の良いものであるかのように思えても、わたし達を傷つけ、神様から引き離し、最後にはわたし達自身を滅ぼすものだからです。
その罪によって、傷つくのが自分だけなのであれば、それは自業自得というものです。
しかし一番の問題なのは、罪というものが自分の中だけに留まらず、周りの人達や家族にも影響を及ぼしてしまうという事なのです。

マナセ王が死んだ後も、マナセ王が行った悪は影響を与え続け、ユダ王国は混とんとした状態になってしまいました。
その混乱によって、マナセの子アモンが王位につくと家臣による反乱が起り、家臣はアモンを殺してしまいました。
しかし、次には民衆が反乱を起こして家臣を殺し、まだ8歳だったアモンの子、ヨシヤを王として擁立する事になります。
そのような大混乱の時代に、まだ幼いヨシヤは王となったのです。

② 神様の義を知る事は、わたし達の魂を揺り動かす
マナセ王、アモン王と悪い王が続きましたが、このヨシヤ王はユダ王国に最後に与えられた希望の光のように、良い王としてユダ王国を治めました。
聖書にはこの様に書かれていました。

22:2 彼は主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった。

恐らくは、彼は周りの大人たちの助けもあって、若い時から正しい信仰の道を歩みました。
そして彼が26歳の時、彼は聖書と出会うのです。
彼が読んだのは、聖書の中でも律法書と呼ばれるものでしたが、その中でも申命記の部分を読んだのだろうと言われています。
それにしても、ユダの王様である彼が、この時まで聖書を読んだことがなかったというのは、ある意味驚きです。
ユダヤ人は子供のころから聖書の言葉に慣れ親しんでいて、小さいうちから律法を暗記している事が普通ですから。
しかし、その律法の書が、主の宮の中から“見つけられた”という事を考えると、マナセ王など偶像に走った王達によって、それまでに読まれていた聖書の多くが破棄されてしまっていたのかもしれません。

律法の書は、それまで観念的にしか神様を理解していなかったヨシヤに大きな衝撃を与えました。
それまで神様を信じてはいたものの、ユダ王国がしてきた事の多くが間違いであり、神様が忌み嫌う事であったという事に気がついたからです。

22:11 王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた。

そこから、ヨシヤ王による宗教改革が始まるのです。
それまでの歴史で、異教や偶像の信仰とごっちゃになってしまったものを排除し、間違った習慣を正し、心を尽くして神様に仕え、従うようにと祭司や民衆に約束させていきました。

それは、この列王記の始まりからたまっていた罪の垢のようなものが、次々に落とされていくような出来事でした。
さぁ、これでユダ王国は立ち直るのではないか、と思った人達もいたでしょう。
少なくとも、聖書を読み進めているわたし達は、そのように思ってワクワクするんです。
ところが、聖書にはこの様に書かれているのです。

II列王記 23:25 ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起こらなかった。
23:26 それにもかかわらず、マナセが主の怒りを引き起こしたあのいらだたしい行ないのために、主はユダに向けて燃やされた激しい怒りを静めようとはされなかった。

その直後、エジプトの王パロ・ネコが、アッシリヤ帝国の王に会うために軍を引き連れて上ってきました。
ヨシヤはそれを阻止しようと迎え撃ち、あっさりとパロ・ネコに殺されてしまうのです。

ここから、ユダ王国の状況はダムが決壊したように崩れ、弱体化し、ついにはバビロニア帝国によって占領され、捕囚されるにいたります。
さあこれからだ、という時にどうしてこの様な事になったのでしょうか。
どうして、最後の希望の芽も、むしり取られる事になってしまったのでしょうか?
今日、列王記のシリーズの最後に、このヨシヤの話をしたかったのは、皆さんにもこれを考えていただきたかったからです。
どう思いますか? 一体何が悪かったのでしょう?

③ わたし達に必要なものは何か

23:26 それにもかかわらず、マナセが主の怒りを引き起こしたあのいらだたしい行ないのために、主はユダに向けて燃やされた激しい怒りを静めようとはされなかった。

と、聖書には書かれていました。
この言葉が、全てを表しているのだと思います。
マナセの罪の影響力は、その後のヨシヤの宗教改革さえも問題にならない程に、大きなものだったという事です。
罪の本当の恐ろしさは、この影響力の部分にあるのです。

ヨシヤの宗教改革というのは、結局のところ律法に戻ろうというリバイバル運動です。
それは確かに、表面的には人々を変え、よくなっているように見えたかもしれません。
でもそれは、体裁を整えたというだけの話です。
中身から変わるのでなければ、本当の悔い改めにはなりません。
結局のところ、律法にわたし達を救う力はないのです。

ヨシヤ自身の信仰も、知識的な部分が大半であって、神様との関係の部分では頼りないものだったという事が、彼自身の命を失う事になった最後の決断を見ると分ります。
パロ・ネコが北上してきた時、ヨシヤは戦う必要なんて本当はありませんでした。
パロ・ネコは使者を遣わして、戦う意思はない事を伝えてたのです。

II歴代誌 35:21 ところが、ネコは彼のもとに使者を遣わして言った。「ユダの王よ。私とあなたと何の関係があるのですか。きょうは、あなたを攻めに来たのではありません。私の戦う家へ行くところなのです。神は、早く行けと命じておられます。私とともにおられる神に逆らわずに、控えていなさい。さもなければ、神があなたを滅ぼされます。」

35:22 しかし、ヨシヤは身を引かず、かえって、彼と戦おうとして変装し、神の御口から出たネコのことばを聞かなかった。そして、メギドの平地で戦うために行った。
この時、ヨシヤがどうするべきかを神様に訊ねていたら、そしてそれに従っていたら、彼はここで命を落とす事はなかったかもしれません。

最後には、ヨシヤ自身が神様に逆らう事によって、自らの命を失う事になったのです。

この話は、旧約聖書全体のテーマとも重なります。
つまり、人の罪の悲惨さと恐ろしさ。
そして、それに対する、人の考える正しさというものの無力さです。

それでは、わたし達に希望はないのでしょうか?
わたし達はそのまま、神様の裁きの中で滅びゆくしかないのでしょうか?
わたし達自身の力だけで何とかしなければならないとしたら、確かにその通りです。
だから人々の中には、神様の憐れみと救いを求める気持ちがどんどん高まっていったのです。

そしてここからさらに600年後、人々が待望していた救い主がこの地上に送られました。
イエス・キリストこそ、神様の答えでした。
罪の影響を受けやすく、表面的にしかなかなか変わる事ができないわたし達、このままでは滅ぶしかないだろうわたし達を救うために、神様はひとり子を与えて下さったのです。

「正しくありたい」と思う事は、それ程悪い事ではないだろうと思います。
しかしわたし達は、本当の意味で正しいくなる事なんて、誰にもできないという事を理解する必要があります。
そうでなければ、わたし達は正しくなれない自分に絶望してしまうか、自分の正しさを尺度にして、他の人達を批判するかのどちらかになってしまうでしょう。

神様がわたし達に与えた方法は、それとは違うのです。
イエス・キリストは、わたし達の罪をわたし達の代わりに償うために、十字架で死んで下さいました。
わたし達はみんな間違っているけれど、間違っているわたし達のために、正しい方が命を投げ出して下さったのです。
わたし達に求められているのは、それを事実として受け入れ、イエス・キリストを主として信じる信仰です。

正しい統治者はおらず、快楽や逃避は滅びの道を早めるだけでした。
預言者の奇跡も人を変える事は出来ず、律法は人を表面的にしか変えられませんでした。
わたし達に必要なのは、イエス・キリスト、わたし達の救い主、ただそれだけなのです。
わたし達には、そんな救い主が与えられているのだという事を、もう一度よく理解してみていただきたいのです。
祈りましょう。

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